「自分の正しさを誇る人には偽善の罪がある 肉体の割礼ではなく、心の割礼によって神の民にされる」ローマ人への手紙2章

自分は正しく行なっていると思う人にも罪がある
自分の罪を知り、神に許しを求める人だけが天国に入る

<ローマ2章でパウロが言いたいこと>

ローマ書1章では、すべての人が創造の神を知りながら、その神を神として拝まず、自分たちで作った神を拝み、性的、道徳的に堕落してしまったことを見ました。ローマ書2章では、創造主を知らされていたユダヤ人たちにも罪があること、彼らもキリストによる救いを必要とすることを示します。

イスラエル民族には、モーセの時代に律法(良い行ないの基準)が神から与えられました。ユダヤ人は、律法を守ることによって天国に入ると思っていました。ですから、彼らはイエスを信じることによる「罪の赦し」を必要とせず、イエスを十字架にかけて殺しました。さらに彼らは、創造主が自分たちを選んで御自身をご自身を現わされたことを誇って、他の民族(異邦人)の人たちを見下しました。
しかし、自分たちは正しいと思いあがって他者をさばくユダヤ人たちも、このままでは神さばかれて天国に入れないことをパウロは指摘します。
なぜなら、律法を守ることによって義と見なされる人はいないからです。(ローマ3章 )
律法を守ろうとすればするほど、守れない自分を知ることになるからです。律法は死に導くと言われる通りです。(ローマ3)だからこそ、ユダヤ人にもイエスによる罪の赦しが必要なのです。

これは今の時代にも当てはまることです。自分は正しく行っている、法律に違反していない、良いことをしているから善人だと考える人がいます。彼らは、自分たちこそ天国に入って当然だと思います。しかし、ローマ2章は、自分は善人だと思う人たちには、自分の善行を誇り、他者を見下す偽善の罪があることを指摘します。

この章から、自分の心の奥深くに潜む「罪」を知ることが重要です。自分の内に住む罪の恐ろしさがわかるなら、あなたは神に罪の赦しを願うようになるからです。神御自身(キリスト)が、信じる者の罪を赦すために、身代わりに刑罰を受け、死んで復活し、完成してくださった「救い」をいただくことができるからです。そして、天国で永遠に生きることができるからです。

<ローマ書2章 解釈>

正しい人はいない 自分は正しいと思う人にも罪がある

ですから、すべて他人をさばく者よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが、同じことを行なっているからです。そのようなことを行なう者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことをしている者よ。あなたは、神のさばきを免れるとでも思っているのですか。ローマ2:1-3

  1. 自分は正しいと思って他人をさばく人がいる。しかし彼らもこのままでは神にさばかれる。パウロは自分を正しいとして、他人をさばく人たちの罪を明らかにします。神は、他人をさばく人にも、罪があることを知っておられます。他人をさばいている人たちも、完全でなく自分がさばいている人と同じ罪を犯しているからです。

    パウロは、彼らも神にさばかれるし、そのさばきが正当ではないと神に対して弁解することができないことを知らせます。

    ここでは、ユダヤ人ということは言われれいませんが、パウロは神に選ばれ律法を与えられていることを誇るユダヤ人たちも正しくないこと、このままでは神に裁かれることを警告しているのです。

罪を犯しても悪いことが起きないので悔い改めない人
自分の裁きの日のために神の怒りを積み上げていることを知りなさい

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。ローマ2:4

  1. 罪を犯しているあなたへの神の寛容は「ゆるし」ではない。それは、神のあなたへの忍耐。
    だから
    悔い改めないなら、あなたの罪はさばかれる。この世でなくても死後にさばかれる。

創造主を信じなくても、罪を犯していても「神はわたしに罰を与えていない。わたしの暮らしは快適だ。だから神は私の罪を「見逃して」くださるのだ。」と勘違いしている人がいます。神はあなたにいつくしみ(憐れみ)を示しておられますが、あなたの罪を赦しておられるのではありません。神は、あなたに、今刑罰を与えないことによって、あなたが悔い改める機会を与えておられるのです。ですから、神の寛容を無駄にしないためにすぐに悔い改めるべきなのです。ところが、あなたは、神があなたを寛容を良いことに、神に立ち返ることを拒み続けています。神から遣わされたキリストが世にはっきりと示されたのにもかかわらず、キリストを神として認めることを拒否しています。

あなたは、かたくなさで悔い改める心がないために、神の正しいさばきの現われる御怒りの日の怒りを、自分のためたくわえています。ローマ2:5

  1. 神の忍耐を良いことに悔い改めを先延ばししてはならない。
    あなたは、自分の裁きの日のために罪を重くしていることを知りなさい。

神があなたを生まれさせたのです。あなたは神のいつくしみみよって生かされているのです。それなのに、あなたの心はかたくなで、自分の罪を認めて神に赦しを求めようとしません。あなたは自分の罪を神の前に積み上げていることを知りなさい。あなたは、神の忍耐が終わり裁きが下される「怒りの日」(神が1人1人を正しくさばかれる日)に、自分に下される神からの刑罰を重くしているのだということを知りなさい。

神のさばきの原則

神は、1人ひとりに、その人の行ないに応じて報いられます。 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、 利己的な思いから真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。悪を行なうすべての者の上には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、苦難と苦悩が下り、善を行なうすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神にはえこひいきがないからです。ローマ2:6-11

  1. 神は「行いに応じて」さばく。このさばきに民族による差別はない。

神は行ないに応じて人をさばきます。真理に従わない者、悪を行う者を神は怒り刑罰を下されます。善を行う者を神は喜び報酬を与えます。神はユダヤ人を特別に扱いさばきを軽くされるのではありません。すべての民族が、神の前に正しく行ったかどうかによって平等にさばかれます。

律法なしに罪を犯した者はみな、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はみな、律法によってさばかれます。なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が義と認められるからです。ローマ2:12,13

  1. ユダヤ人は、律法を完全に守ることで義とされる。

ユダヤ人には律法が与えられています。ですから彼らは何が罪であるかを知らされています。ですから、彼らは律法によって裁かれます。また、律法を与えられていない異邦人も律法を知っています。なぜなら、神は彼らの心に良心を与えており、彼らは何が良いことで神に喜ばれ、何が悪いことで神が怒られるかを、良心の声によって知るからです。ですから、彼らも行いによって神にさばかれます。何が罪であって神に裁かれるのかを知るだけでは、罪の刑罰を逃れることはできません。律法を行わなければ義と認められないからです。そして、この場合、神に義と認められる行ないとは、過去、現在、未来に全く罪を犯さないという「完全な行ない」なのです。そうであれば、罪の刑罰を受けずに済むことができる人はいません。つまり、すべての人が罪に定められ刑罰を受ける定めにあるため、神からの赦しを必要とするのです。

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行なう場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行ないが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。ローマ2:14,15

  1. 異邦人の心には良心があり、彼らは律法を知っている。だから彼らも律法によってさばかれる。

異邦人には文字で書かれた行ないの基準はありませんが、彼らの心には良心が与えられています。神が彼らの心に律法を記しているからです。ですから、異邦人も律法の行ないに反するなら神にさばかれます。
その証拠に、罪を犯した時、私たちは心にとがめを感じます。時には、自分に罪がなかったことの理由を捜して、良心の呵責から逃れようとします。このことを15節では、罪びとの思いが、責めあったり弁明し合ったりしていると表現しています。

私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたこ事柄をさばかれるその日に行なわれるのです。ローマ2:16

  1. 神のさばきは、キリストの日に行われる。隠れた罪もさばかれる。

私の神から受けた福音によるならば、各人へのさばきは、キリストの日、各人が死んで神の元に集められる日、またはキリストが再臨される日に行われます。私たちは現在、各人に下る神のさばきを知ることはできません。裁きの座において、神は隠れた事すべてを明らかにしてさばきます。

ユダヤ人の偽善の罪

ユダヤ人の誇りは偽善。自分たちが律法を守っていないことを認めよ。
律法を持っても守れないなら、あなたたちは誇れない。

もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、前節に合節 ローマ2:17-20

  1. ユダヤ人たちには律法があった。神についての知識が与えられていた。
    自分たちこそ、正しく生きることを教えることができる教師だと誇っていた。

神はユダヤ人の父祖たちに現れ、ユダヤ人は神から律法を与られました。彼らは律法によって何が罪かを知らされ、義とされ天国に入る道を知っていると誇っていました。そして、自分たちの義を誇り、神を知らされていない異邦人たちを見下していました。

どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」と書いてあるとおりです。もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。ローマ21-25

  1. しかし、ユダヤ人たちは律法を知っていながら守っていなかった。
    それなら、律法を持たない異邦人と同じではないか。

ユダヤ人たちは人に教えながら、自分たちも罪を犯していました。盗み、姦淫、神殿のものをかすめるなど、異邦人にも劣らない罪を犯していました。ユダヤ人として生まれたことを誇り、律法が与えらえrたことのしるしとしての体の割礼を受けていても、律法を破るのであれば、あなた方は無割礼の者、異邦人と同じです。

もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。ローマ26-27

  1. それなら律法を守る異邦人のほうが正しいことになる。
    あなたがたは、あなたが見下す異邦人からさばかれても文句は言えない。

もし、異邦人が律法を守るなら、彼らは体の割礼は受けていなくても、割礼を受けた神の民とみなされることにならないでしょうか?(26)ユダヤ人は、異邦人を教える教師だと自認して異邦人をさばいていますが、割礼を受けていないが異邦人が律法を守るなら、彼らがあなた方よりも正しく、律法を持っていても律法を守らないユダヤ人をさばくことにならないでしょうか。(27)

「体の割礼」ではなく、
「御霊によって心に割礼を受けた者」だけが神の民

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。ローマ2:28-29

  1. 律法や体の割礼など目に見えるものによって救われるのでなはない。
    目に見えない御霊によって「心に割礼」を受けた者が「神の民」になる

ユダヤ人として生まれたから、体に割礼を受けたから神の民なのではありません。目に見えるしるしは、その人の救いを保障しません。その証拠に、律法を与えらえていたユダ人は、律法を守ることができませんでした。民族によるのではなく、儀式によるのでもなく、神の御霊をいただいて心が一新されることによってのみ、神の民に加えられます。つまり、体の割礼ではなく、御霊による心の割礼こそが神の民のしるしです。心に割礼を受け、文字によらず御霊により神の律法を守る者、それが神の民です。ユダヤ人、異邦人に関係なく、心の割礼を受けた者が霊的イスラエル、つまり神の民なのです。この者たちが天国を継ぐのです。

  1. 人を義とするのは神のわざ。聖霊の働き。
    だから、もし人が善行をしたなら、人ではなく神が誉められるべき。

律法を守ることによる義は、人間の努力によるもので人からの賞賛を受けます。しかし、心に割礼を受けて神の民に加えられることは、人には不可能です。それは神から与えられるものだからです。だから、心の割礼により救われた民の行いは、すべて神に栄光が帰せられるべきなのです。人が誉められるべきではないのです。

<ローマ書2章 考察>

考察1 自分は正しいと思う人には「偽善の罪」がある。自分の罪を悲しんで、神に近づく者だけが、心を一新されて天国に入ることができる。

自分を正しいと自認する人の中にある偽善の罪

1章において、創造主を認めない異邦人の罪の現実を明らかにしたパウロ。
2章では、自分たちこそ神を知る教師であると思いあがっているユダヤ人たちの偽善を取り上げます。

律法の抜け道を作って罪を犯すユダヤ人たち

ユダヤ人たちは、自分の生まれを誇り、自分たちこそ異邦人を導く教師であると自負していました。しかし、彼らの生活は異邦人と変わらない堕落したものでした。盗み、姦淫などが密かに行われていました。神殿にささげるものを惜しんで、ささげなくてよいように新しい律法を追加していました。彼らは、律法の解釈を変えることによって不正な行為を正しいものだと理由づけして罪を容認していました。

ユダヤ人も異邦人も律法を守ったかどうかによってさばかれる。神は人を公平にさばく。

神のさばきは、律法を知っているかどうかではなく、律法を行ったかどうかによって決められます。ユダヤ人は神から律法をいただいて、正しい行いが何か、何が罪で神にさばかれるかを知っていました。しかし、彼らは律法を守っていませんでした。ですから、彼らも異邦人と同様に罪に定められます。

また、異邦人たちもまた、彼らの心に律法が書かれていて、良心の声に聞き従うなら正しいとされ、良心の声に反して悪を行うなら罪に定められます。

そうであれば、ユダヤ人、異邦人の区別なく、律法を行ったかどうかという同じ条件で神からさばきを受けるのです。そして、神の律法は異邦人にもユダヤ人にも知られているのです。神はユダヤ人だけをえこひいきしてはいません。神は人を平等にさばかれます。

キリストによる罪の赦しを受けることなく、自分は正しい思う人への警告。

律法を知っているから大丈夫と安心しているユダヤ人に対して、彼らも罪に定められることをパウロは警告します。このことは、自分は正しく行っていると思って、他人をさばいている人すべてに対しての警告でもあります。

神のいつくしみに甘んじて、今刑罰が与えられていないから、全てうまくいっているからといって、自分のあり方を神が良しとしてくださっていると思うなら大間違いです。神はあなたの悔い改めを願っておられ、あなたへのさばきを控えておられるに過ぎないことをパウロは明らかにしています。

洗礼や奉仕が救いを保証するのではない。これらは信仰の結果にすぎない。

教会に所属していること、洗礼を受けたこと、礼拝に出席していること、聖餐式にあずかっていることが私たちの救いを保証するのではありません。これら目に見えるしるしは、信仰の結果から生じた、神への服従の姿に過ぎません。自分の内に信仰の実質を備えていないならば、外に見える儀式や奉仕をいくら忠実に行ったとしても、救われません。

では「神の民」にどのようにしてなるのか。救われる信仰とは何か。

それは、神の御霊によって心を一新させられることだとパウロは断言します。「御霊による心の割礼、こそ割礼です。」と。「天国に入るための本当の割礼」は文字に書かれた律法を守ることによるのではなく、クリスチャンとしての義務を果たすことによるのでもなく、神の御霊によって心が新しくされることによるのです。そして新しくされた心によって、イエスへの信仰を告白するのです。

心の割礼を受けているかどうかが、私たちの救いの保障です。

「心の割礼を受ける」とはどういうことか。

「心の割礼」とはどういうことか。

イエス様はユダヤ人の指導者ニコデモに言われました。
「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」ヨハネ3章3節
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」ヨハネ3章5節
イエスは、生まれたままの心では天国に入れない。聖霊によって心が新しくされなければならないと言われました。このことは、イエスが始めたことではなく、旧約の預言者たちによってすでに預言されていたことです。神はこのようにして人を救うように、世の初めから定めておられたのです。

また続くヨハネ3章6節では「肉によって生まれた者は肉です。」とあります。
また、ローマ書8章には、
肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます」ローマ8:5

「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。」ローマ8:7とあります。
私たちは生まれつき罪びととして生まれ、罪を愛し、神のことがわからない存在です。もっと言うなら神に反抗する存在です。そして、このことをを不自由だとも間違っているとも思わないし、この状態から脱しようとも思わない、
神に従うことができない存在だと言われています。
また、ローマ書8章8節には「肉にある者は神を喜ばせることはできません。」とあります。
ですから、新しくされない生まれつきの心では、神を喜ばせることができません。彼らの行いを神は喜んでおられません。その例として、パウロは、律法を守っていることを誇るユダヤ人たちが、自分の正しさにおごり高ぶり異邦人たちをさばく偽善の罪を犯していることを明らかにしました。

しかし「御霊によって生まれた者は霊です。」ヨハネ3:6
「 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ8:6
新しくされた心は神の律法を喜び、神に従うことを喜びます。彼らは最後には天国において永遠の命を与えられると聖書は語っています。

「心の割礼」は、聖霊によって心が全く新しくされることです。
これは、人間の努力によるのではなく、神からの一方的な恵みによって与えられる奇跡です。

考察2 心の割礼を受けなくても、人間の決心で福音を信じることはできる。しかしその場合、聖書が啓示する神の真理を全て受け入れることがきない。

私たちは「心の割礼」を受けなくても、御霊によって心が新しくされることがなくても、福音を学び、信じることができます。「イエスキリストが私のために死んで復活された。」「イエスは神です。」と告白でき、イエスに祈ることもできます。

しかし新生していない心は、神のことばすべてを、うるわしいものとして抱きしめることができません。
ある部分は愚かに思われ、ある部分は間違っていると思います。そこで自分の生まれながらの価値観、道徳観にマッチする神の姿を作り上げて信仰を続けることになります。しかし、それは本当の神の姿ではありません。イエス・キリストという名前の偶像(にせもの)を拝んでいることになるのです。

しかし、心に割礼を受けて新生した信者は、神が聖書を通して私たちに啓示した真理をすべて、心から喜び、同意します。なぜなら、彼らの生まれつきの心が、聖霊によって一新されているからです。

考察3 心に割礼を受けて信者とされることは、神の一方的な恵みによる。

聖書は「心の割礼」を受けることは、神の主権的な働きによると教えています。
これは人間の努力によっても、生まれや環境、人間の願いによっても得られるものではなく、ただ神のあわれみによって、神から与えらえるものだと言っています。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ2:8

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ1:12,13

考察4 救いとは、御霊によって新生すること。救いの決定権は神にある。神は各人に伝道の場と方法を与えておられる。それらを用いて福音を運ぶのが私たちの役割。

信仰は聞くことから始まります。福音を知ることなしに救われることは不可能です。
神は、福音をクリスチャンに伝えさせることによって、人が救われるように定められたからです。

しかし、聞いた福音を心に刻み付けるのは神の働きです。
私たちは、ただ神に用いられ福音を人々に届ける器にすぎないものです。
そして、私に与えれらた機会と方法を用いて、神の福音を人々にお知らせするのが私の務めです。

このサイトを通して神について知ったあなたに、神の恵みによって救いが与えられますようにと祈っています。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?