神の約束の実現を信じる信仰が義とみなされる
<ローマ書4章 概要>
ローマ書3章で、行いによって義を得ようとするなら、かえって罪の意識が強まることが知らされました。しかし、ユダヤ人たちは律法を守ることで義を得る、天国に入ると思っていました。
そこで、パウロは4章において、ユダヤ人の信仰の父として尊敬されているアブラハムをとりあげ、彼が行いによるのではなく信仰によって義とされたことを証明します。アブラハムはユダヤ人だけでなく、彼の信仰にならう異邦人の信仰の父でもあることを知らせます。
<ローマ書4章 解釈>
何の働きもない者(人間)が、不敬虔な者を義と認めてくださる方(神)を信じるなら、その信仰が義とみなされる 4-5
4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。
- 「救い」は、人間の良い行いに対して当然支払われる報酬ではなない。
「救い」のために人間の行い、努力が必要であれば、「救い」は、神が人間に支払うべき「報酬(賃金)」となり「人間が当然受ける権利」となるでしょう。
しかし、そうではありません。- 人間は、神を満足させる善行を行うことができない無力な存在。
人間は、律法を満足させることができない無力な存在です。しかも、罪が入ったことにより、人間は創造主を嫌って、創造主ではない神々を拝み、神の意志よりも自分の欲望を優先する者になっています。 - 「義」は、受ける資格のない者に与えらえる神からの「恵み」。
無力であり義を与えられる資格がない人間を、神が義と認めてくださるのです。この場合、「義」は、人間が受けて当然な報酬ではなく、人間に神が与えてくださる「恵み」になります。 - 「義」を恵みとして与えてくださる神を信じる信仰。これが救われる信仰。
行いによるのではなく、恵みによって義を与えてくださる神を信じる信仰が、神に良しとされ、義と見なされます。
- 人間は、神を満足させる善行を行うことができない無力な存在。
旧約の聖徒は、行いではなく信仰によって救われた 1-3、6-8
4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
- アブラハムは信仰によって救われた。創15:6、ガラ3:6
アブラハムは行いによって義と認められたのではなかったことが証言されています。
彼は、信仰によって義と認められました。 - ダビデも行いによらず神に義と認められる幸いを賛美した。
パウロは、詩篇32編1-2節を引用して、ダビデも行いによらず罪が赦されたことを証言しています。
4:6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」 - ダビデは、行いとは別の道で義とされた人の幸いを詩編で歌っています。
「神によって、罪を赦される、神の弁護を受ける人、神が罪を認めない人は幸いである」詩編32:1-2
アブラハムはすべての民族の信仰の父 9-12
4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、4:10 どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。
救いは、割礼を受けた人だけに与えられるのでしょうか?
割礼のない異邦人は救われないのでしょうか?
4:11 彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、
アブラハムは割礼を受ける前に、信仰によって義と認められていました。ですから、体の割礼は義とされるための条件ではなく、義とされたことを人々に明らかにするための「しるし」にすぎなかったのです。
4:12 また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。
ですから、アブラハムの信仰にしたがって信じる人たちは皆、天国を相続することになります。
アブラハムは、民族に関係なく、彼の信仰にならって歩む人たちの父です。
- 割礼にはどのような意味があるのか。アブラハムはどのようにして救われたのか。
- アブラハムは割礼を受ける前に義と認められました。10節
割礼が義と認められるための条件ではない。
- 割礼は、当時、義とされたことの「しるし」だった。11節
アブラハムは信仰によって義と認められたことのしるしとして「割礼」(包皮を切る)を受けました。
- アブラハムは割礼に関係なく、信仰によって義と認められました。
義認は信仰による。 - ユダヤ人異邦人に関係なく、アブラハムにならう信仰によって救われる。
アブラハムは、割礼ある者、割礼のない者どちらにとっても、
信仰によって義とされるすべての人の「信仰の父」です。
- アブラハムは割礼を受ける前に義と認められました。10節
律法を守ることでは、天国に入れない 15
4:15 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。
- 律法は、違反を悟らせるためにある。救いを得るために与えられたのではない。
律法は怒りをまねくもの、人を罪に定めるものです。
ですから、私たちは律法を守ることによって天国に入ることはできません。
天国を相続することは信仰による 13-14、16,17
4:13 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからで す。
4:14 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
4:16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持って いる人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とし た。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。
4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。
- 人間の功績によらず、信仰によって天国の相続人になる。13節
神の約束を相続できるのは、信仰により、神の恵みにすがって神に近づく人だけです。律法を守ることや、善い行ないをすることによって、神の国を相続することはできません。 - 律法を守ることによって救われるなら、神の約束が無効になる。14節
律法によって救われるになら、人間には実現が不可能なため、神は誰も天国に入れないことになる。そうであれば、神は約束したのに、約束を実行しなかったことになる。 - たとえ部分的であったとしても、救いの完成のために人間の行いが必要であるなら、神の約束は実現不可能になることをパウロは認めている。
14節から、パウロが行いによって救いが完成することは不可能なこと、たとえそれが、10パーセント、1パーセントの行いの必要であったとしても、救いを完成させることはできないと言っていることがわかります。 - 救いが行いによらないのは、神の100パーセントの恵みによって救いが与えられるため。
「救いを与える神」が完全に栄光を受けられるため。16節
神が「行いではない」救いの方法を定められた理由は、救いが、人間の功績によらず、神の恵みによって与えられるためです。この方法によれば、人間はすべてを神に感謝することになり、神が100パーセント栄光を受けることになります。神は、このことを願われたのです。 - 民族に関係なく、信仰によって天国を保証される。16節
神の約束は、ユダヤ人だけではなく、異邦人にも及ぶようになりました。なぜなら、アブラハムの信仰にならって神を信じる人は、ユダヤ人と異邦人の区別なく、義とみなされ、神によって約束された天国を相続することを保証されるからです。 - アブラハムは、彼にならう全ての信仰者の父。16節
ですからアブラハムは、彼の信仰にならう、あらゆる国の人々の信仰の父です。
アブラハムがもっていた信仰 不可能に思えても神が約束されたことは必ず実現すると信じる信仰 18-23
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるため でした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
- 神は、アブラハムに約束を与えました。
しかし、その実現は不可能に思われました。
神の約束は「彼の子孫が増え広がって星の砂ほど多くなる」というものでした。しかし、現実を見れば、彼は100歳となり、体は衰え、妻サラも高齢で、月のものも絶え、子供をもつことができる状況ではありませんでした。 - しかし、アブラハムはこの約束を堅く信じました。19、20節
ところが、これらのことを認めてもアブラハムは神の約束を疑わず、かえってその実現を堅く信じました。そして、不可能を可能にする神の力に栄光を帰するようになりました。 - 人間には実現が不可能なことが明らかになるほど、彼は約束の実現を確信しました。
100パーセント神の力で実現することなら、絶対にその通りになるからです。20,21節
彼は、自分にはできないことが明らかになればなるほど、「この約束は自分の力ではなく、神の全能の力によって実現する」という確信を強めました。アブラハムは、自分の無力を知ってますます神の約束の実現を確信しました。神には不可能な状況を変えることができる力があることを堅く信じたのです。アブラハムのこの信仰が、神に義と認められたのです。
アブラハムが義とみなされた出来事は、
私たちも信仰による義を教えるためであった
4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、4:24 また私たちのためです。
すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
- アブラハムが義とされた例は、行いではなく信仰によって
義とみなされる救いの道を私たちに教えるためでした。 - わたしたちも、アブラハムのように信仰によって義とみなされる。
- その信仰とは、神がイエスを死者からよみがえらせたと信じる信仰。
イエスにの流された血によって、私の罪がゆるされ義と認められると信じる信仰。
<考察>
考察1 私たちも、アブラハムが持ったと同じ信仰によって救われる。22-25
アブラハムの信仰とは、「神の約束」を信じる信仰
復活したイエスを私たちは今、自分の目で見ることはできません。神が約束された「罪のゆるし」、「新天新地」、「天国」もそうです。これらは、人間の力では実現することは絶対に不可能です。物理の法則からすれば絶対にありえないことです。だから、聖書に書いてあることは「神話」だ、「うそ」だと考える人がたくさんいます。
しかし、あなたが、これらのことは神が約束されたことで、人間の力ではなく神の力によって実現することだと信じて疑わないのであれば、あなたはアブラハムが持っていた信仰と同じ信仰を持っていることになります。
神の約束は、世の人には愚かに思えるが、信じる人を失望させることがない約束。
人々は、私たちを愚か者だと言うかもしれません。アブラハムもそうでした。100歳にもなって、なお子供ができると信じることは、人々には愚かに思われたことでしょう。しかし、神はアブラハムを失望に終わらせませんでした。それだけではなく、アブラハムの想像をはるかに越えた大きな祝福を与えてくださいました。彼が創造主を敬うあらゆる国の人たちの「信仰の父になる」という光栄を、神はアブラハムに与えてくださったのです。
私たちも神のや約束を信じるとき、絶対に失望させることはありません。神は、私たちが思い描くより遥かに素晴らしい恵みを信じる者に用意していてださるからです。
考察2 アブラハムにならう信仰、天国を相続する信仰とは何か。
それは、人間には実現不可能な、聖書に書かれた神の約束を信じる信仰。
人間には実現が不可能な約束を信じる。それがアブラハムが持った信仰。
私たちには、キリストによる十字架の贖いの完成、神のことばである聖書が与えられています。聖書には、全ての人は死後復活すること、信者には永遠の命が与えられて天国で永遠に生きること、信じない人たちは神のさばきを受けて永遠に滅ぼされることなどが書かれています。
アブラハムが「自分の子孫が星の数ほどになる」との約束の実現を信じたように、私たちも上記の神の約束が実現することを信じる。これがアブラハムにならう信仰です。アブラハムが信仰によって義と認められたように、私たちも、聖書に書かれた神の約束を信じる信仰を神は義と認め、天国を継ぐ者と認めてくださるです。
世が正しいとすることは変わっていく。しかし神の約束は変わらない。
その時代の人々が指示する考えに惑わされるとなく、神の約束を信じて待ち望むこと。
今の時代は、科学の進歩などにより、私たちの信仰が弱められる時代です。神の約束を疑わせる多くの研究や議論があります。しかし、聖書を神のことばと信じ、聖書に書かれた神の真理を受け入れ、神の国の到来に希望を持つ生き方は、信じない人たちには愚かに見え、批判されるかもしれません。しかし、この信仰によってのみ、私たちは義とされ天国を継ぐ者とされます。
時代により、場所により、人々の常識や生き方は変わります。しかし、神の真理は変わりません。私たちは、それら代わりゆくものによって左右されるのではなく、ただ神の真理に従って生きることが重要です。その時代の人々から影響を受けて、神のことばを疑って、従わなくなるなら、天国を継ぐことはできなくなるからです。
「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」マタイ24:35
考察3「望みえないときに望みを抱いて信じる信仰」を誤解する人々。この聖句は、自分の願いの実現を信じきれば、必ず実現すると約束しているのではない。
この聖句を、自分の願いを押し通すことに利用してはならない。
アブラハムは100歳になっても、子供ができるという神の約束を信じました。
この聖句を、自分の心に浮かんだ願いを神の約束だと信じて、その夢の実現を信じ切るなら、必ずそうなると勘違いして適応する人がいます。不可能であるならば、なおさら信仰によって実現させるのだと言うのです。これでは、自分の夢の実現のために、神を奴隷のように使っていることになります。このような信仰を神は喜ばれません。
私たちは神の御心よりも、自分の願いを優先させる傾向があることを自覚するべき。
アブラハムの場合、彼は直接神から声をかけられて約束をいただきました。その約束は、彼だけはなく、彼の子孫、また全人類の救いに関わるものでした。アブラハムが神から約束を与えられたことは疑いのない事実です。
しかし、あなたが神からの約束であると言っているその思いはどこから来たのでしょうか?それは、神からではなく、あなたの願望が生み出したものである可能性もあるのです。アブラハムと自分を一緒にしてはいけません。
ある聖句が心にとまってビジョンを持ったとしても、状況などの神が示してくださる他の導きを総合的に検討して判断するべき。
聖書は、私たちに与えられた神の啓示です。私たちは、聖書を読み、調べることにより、神がどのようなお方であり、自分に何を求めておられるかを知ることができます。
確かに御言葉を読んでいるとき、ある1節が「自分に対する神の約束だ」と心に響くことがあるかもしれません。そのような時、神はあなたに何かを語っておられるのかもしれません。しかし、私たちの思いは混乱しているために、「神の思いではなく、自分の願いを優先してしまう危険がある」ことを忘れてはいけません。
いつでも神の御心へと修正する心の状態でいること。
私たちは、ある御言葉が心に響いたということだけではなく、状況や他のさまざまな条件が整っているかどうか、いろいろな角度から検討して神の御心を探らなければなりません。そしていつでも、自分の思いを手放して、神の思いに合わせる用意をしていなければなりません。
考察4 自分の計画ではなく、神の導きに従っていくとき、思いもしなかった働きに召されることがある。想像もできなかったことが実現することがある。
アブラハムはカナン地に行くことを自分から願っていなかった。
アブラハムは、カナンに行きたいと願ってはいなかった。彼は神から指示を受けた。
アブラハムはハランの地で快適に暮らしていた。彼には移住しなければならない理由は何もなかった。しかし神はアブラハムに声をかけられた。このように、私たちが神の働きに召されるとき、自分はそのことについて願っていないときがある。
アブラハムは自分が期待していない時に約束が与えられた。
アブラハムと同様に、私たちも期待していない時に次の方向性が示されることを経験します。
そのことの実行を考えていない時に、状況を通して、ある方向に進む必要が生じてくることがあります。
神はアブラハムに行先を告げなかった。
しかし、アブラハムは行先を知らないで出発した。
私たちが働きに召されるとき、神の計画のすべてが知らされない場合があります。
私たちが信仰によって始め、実行することを、神が願っておられるからです。
アブラハムが思いもつかなかった祝福が実現した。
アブラハムは、全世界の信仰者の父と呼ばれるようになりました。
まさに、神が彼に約束した「あなたの子孫は星の数ほどになる」という約束が実現しました。しかし、この約束の実現を、彼は生きている間に見ることはありませんでした。
天において、アブラハムは神の約束が1つもたがわなかったことを知ったと思われます。
このようにして神によって導かれた人生は、自分の想像や計画をはるかに超えた結果をもたらすことがあります。
アブラハムの祝福は彼だけではなく、後の子孫たちの祝福にもなった。
アブラハムは、今も私たち信仰者を励まし続けています。彼は自分が救われただけではなく、彼に続く子孫たちに、「信仰の型」をしめしてくれたのです。
アブラハムに与えられた信仰の祝福は、私たちの信仰の祝福へと継承されているのです。