- 1 「神との和解 罪の支配にまさる御霊の支配」
- 2 私たちは、救われたことを今すでに喜んでいる
- 3 上記の喜びだけでなく、艱難さえも喜んでいる
- 4 患難はキリスト者の品性を整え、天国への希望を生じさせるから
- 5 神の愛は、キリストの十字架において現わされている
- 6 キリストにより義とされた人が救われるのは当然のこと
- 7 アダム1人の違反によって全人類に死が支配した
- 8 キリストの賜物は、罪の力よりも強く働き信者を支配する
- 9 キリスト1人の義の行為により、 信じる人が義とされ永遠の命が与えられる
- 10 律法が与えられた目的は、罪を自覚させること 恵みによる救いを待ち望ませること13、14、20
- 11 キリストの恵みが罪の支配に勝り、永遠の命を与える
- 11.1 考察1 救われた信者は、神との平和を持ち、天国を待ち望んで喜んでいる。 今、「救いの確信」がない信仰はどこかが間違っている。1-2、11節
- 11.2 考察2 御霊によって新生の恵みにあずかり、その必然の結果として信仰を告白した者は御霊の内的保証により「救いの確信」をもっている。人間の意志による信仰告白だけではこの確信は持てない。3-5節
- 11.3 考察3 アダムの犯した罪の影響は自動的にすべての人に及んだ。しかしキリストの恵みの恩恵を受けるのは、信じた人だけである。17節
- 11.4 考察4 恵みの支配は罪の支配を圧倒する。「救い」も「聖化」もそうである。これは聖霊を受けて新生したクリスチャンにだけ適応できる神の奥義。15-17節
- 11.5 考察5 律法主義になりやすい人への注意
「神との和解 罪の支配にまさる御霊の支配」
<概要>
これまで、アブラハムをはじめ、旧約の聖徒たちも信仰によって義とされたことを説明してきました。5章においては、キリスト者は義とされ天国が約束された立場が与えられていること、自分の内にある罪の力に勝る、神の恵みの力によって支配されていることについて語ります。
<解釈>
Ⅰ 罪のゆるし、天国に入ることを確信している。
これがパウロや初代教会のが人々持っていた信仰。
私たちは、救われたことを今すでに喜んでいる
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
信者は、キリストを信じる信仰によって、神との和解が成立しています。もはや、自分への神の怒りを鎮める努力は必要ありません。ですから、もし信じた後も、儀式や行いよって罪を赦してもらおうとしているなら、それは勘違いです。
信者は、神の栄光にあずかることを確信し、その日を(自分の罪が完全に清められて、天国でキリストの御顔を仰ぐことができる日)待ち望んで、今から喜んでいます。
「今私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた」とある聖句は、今の幸いな立場へ、神の恵みによって引き入れられたことを意味します。
つまり、信仰は人間の意志や努力によるのではなく、神の先行的な恵みによって与えられるのです。
ですから、自分の救いと完成を確信できます。なぜなら、それらの神の賜物が、自分からはじまったことではなく、ただ神によって始められており、神が完成させてくださるからです。
上記の喜びだけでなく、艱難さえも喜んでいる
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
なぜなら、患難が忍耐を生み出し。忍耐が練られた品性(困難を通ることによって得られた人格の平安、柔和、神への従順など)を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望とは、天の故郷に帰る希望であり、昔の聖徒たちも持っていたものです。そして天国への希望は失望に終わることはなく、必ず報われます。
患難はキリスト者の品性を整え、天国への希望を生じさせるから
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
患難を通ってキリスト者が抱くようになる天国へのあこがれは、決して信者を失望させることがあません。なぜなら、神の愛が私に注がれているからです。神は聖霊を与えることによって、ご自身からあふれる愛を私たちに注いでいてくださるからです。
神の愛が注がれたキリスト者をご自分の国に迎え入れることは、神のみこころです。ですから、信者が患難を通って持つようになった希望(救い、天国への希望)は必ずかなえられます。この希望は、オアシスを目指して砂漠を進む商隊が、いざ到着してみるとオアシスが消え去って落胆させられるような、にせの希望ではありません。死んでみたら、期待していたものと違っていたというようなものではありません。死後、信者は、彼らの期待をはるかに超えたすばらしい天国で永遠に喜びおどることになるのです。
神の愛は、キリストの十字架において現わされている
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
私たちが罪人であり、神に敵対していたときに、キリストはご計画により定められた時に、救われる者のために死んでくださいました。キリストが十字架で死なれたことにより、神は救われた者に対する愛を明らかにしておられます。
キリストにより義とされた人が救われるのは当然のこと
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
キリストの流された血により義とされた人々が、神の怒りから救われることは確かなことす。(なおさらのことです)以前は神の敵として歩んでいた私たちが、キリストの死によって神と和解させられたのなら、私たちのためにささげられたキリストの命によって救われることは当然のことです。
そればかりではなく、私たちはすでに義とされたこと、約束された天国の確かさを思って、神を喜んでいるのです。律法を守ることによって義とされようとしていたユダヤ人たちは、このような確信を持つことはできませんでした。しかし、パウロは、キリストによって義が与えられた人は、天国が約束されていると確信できることをここで強調しています。
Ⅱ 「キリストの支配」はアダムからの「罪の支配」に勝る
アダム1人の違反によって全人類に死が支配した
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
最初の人アダムが罪を犯したことによって、全人類に死が支配するようになりました。アダムは永遠に生きる者として造られましたが、神の命令を守らなかったために、死ぬことになりました。その時、肉体の死だけでなく、霊的な死も始まりました。アダムの罪はアダムと同じ違反を犯さなかった人々をさえ支配しました。つまり、アダム以降に生まれたすべての人々が肉体においては死ななければならなくなり、霊においても死んでいるため、神に逆らう者として生まれて来るようになったのです。
キリストの賜物は、罪の力よりも強く働き信者を支配する
5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによるばあいと違った点があります。さばきのばあいは、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みのばあいは、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
アダムとキリストの違い
- 誰に影響が及ぶかの違い罪の場合:すべての人が自動的に影響され、罪人になったキリストの恵みの場合:信じた人だけが影響を受け、永遠の命を受ける
- 罪の場合、アダム1人の違反によりすべての人が罪に定められた。
罪の影響が、その後生まれるすべての人に及んだ。アダムと同じ罪を犯さなかった人々にもおよんだ。罪の影響は自動的にすべての人におよんだ。 - 恵みの場合、イエス1人の義の行為により信仰の義を受け取る多くの人が義とされる。
キリストによるあがないのわざは完了しているが、それによってすべての人が自動的に義とされるのではない。恵みの場合は、信じた人だけに影響がおよぶのです。
- 罪の場合、アダム1人の違反によりすべての人が罪に定められた。
- 力の違い キリストの支配は罪の支配に勝る。15、17
人間アダム1人の違反により、アダムと同じ罪を犯していない人にも罪が支配するようになりました。その影響力は非常に大きいものです。しかし、恵みは、神ご自身が与えるものであるために、罪の支配をはるかにまさって、信じた人を支配します。アダムという人間の与えた影響がそれほど大きいものであったのならば、イエスが与える影響は、当然それをはるかにまさって力強く働くことになります。恵みの支配はキリストを信じる多くの人々に満ちあふれ、彼らを罪の支配から、キリストの命による支配、御霊の支配の下に置くのです。
キリスト1人の義の行為により、
信じる人が義とされ永遠の命が与えられる
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
アダム1人の違反によってすべての人に罪が入ったのと同様に、キリスト1人の死という義の行為によって多くの人の罪が赦され義とされるのです。
律法が与えられた目的は、罪を自覚させること
恵みによる救いを待ち望ませること13、14、20
5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
律法がなければ罪は罪として認められないものです。
律法が与えられる前にも罪はありました。すべての人が死んでいったことでそのことは証明されています。しかし、律法という文字に書かれた神のおきてがなければ罪は罪としてはっきり認められないものです。だから律法は、人を救うためにあるのではなく、人に罪を認めさせるためにあるのです。
そして罪の自覚が増し加わることによってこそ、行いによらない救いへの願いが増し加わり、それが与えられた時の感謝が満ちあふれることになるのです。
キリストの恵みが罪の支配に勝り、永遠の命を与える
5:21 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
罪が入ったことにより、私たちは肉体においては必ず死ぬ運命にあり、霊的にも死んでいるため、天国に入る希望がない者です。
しかし、キリストは、罪と死に支配されて絶望的な状態である私たちを、死の力に勝る神の力でおおい、罪と死の支配から解放して、神と和解させ、永遠の命を与えるために来られたのです。
<考察>
考察1 救われた信者は、神との平和を持ち、天国を待ち望んで喜んでいる。
今、「救いの確信」がない信仰はどこかが間違っている。1-2、11節
私たちは自分からではなく神によって信仰に導き入れられ、クリスチャンになるという恵みにあずかったのです。2節(導き入れられた)
神によって信仰が与えられ、神によって隔たっていた関係が和解させられたのです。そうであるなら、私たちは、神との平和を持っていると言えます。
もし信仰が、自分の意志で始めたことなら、自分の気持ちが変わる時、信仰を失うことになります。そして、一生変わらない意志の告白ができると言える人は1人もいません。ですから、今信じていても、信仰を最後まで全うできるかどうか確信を持てないのが当然だと言えます。
しかし、神の側から、私に信仰が与えられたのであれば、私は大胆に神との平和を確信することができます。そして、将来現わされる御国の栄光に、自分があずかることを思って、今から待ち望み、喜ぶことができるのです。
考察2 御霊によって新生の恵みにあずかり、その必然の結果として信仰を告白した者は御霊の内的保証により「救いの確信」をもっている。人間の意志による信仰告白だけではこの確信は持てない。3-5節
神は私に愛を注いでくださいました。つまり、神が私に御霊を与えてくださいました。そして御霊は、信者が神の民となったことの保証です。信者もまた、御霊により心に確信を与えられています。ですから、救われた確信を持ってクリスチャンの歩みを進めることができるのです。
当時のユダヤ人たちの救いの保証は、彼らの良い行いにありました。しかし人はいつも良いわざができるとは限りません。ですから、彼らは救われた確信を持って信仰することはできませんでした。
しかし、神によって信仰が与えられ、御霊の保証を与えられている人の場合は違います。
聖霊が与えられた信者は、神の愛の対象となっています。
そして、この神の愛は私から決して離れることなく、この世にある間も、この世を去って後も、永遠に信者と共にあります
ですから、自分が不完全であっても、神との平和が成立しているという前提は変わりません。ですから、自分の救いと完成を確信して、安息のうちに歩みを続けることができます。
考察3 アダムの犯した罪の影響は自動的にすべての人に及んだ。しかしキリストの恵みの恩恵を受けるのは、信じた人だけである。17節
アダムが罪を犯した場合、その影響はアダムの子孫すべてに自動的およびました。アダムと同じ罪を犯していない人にも、罪が入り霊と肉体の死が始まりました。
恵みの場合、アダムの時と違う点は、キリストの1度の義の行為によって、その影響が自動的にすべての人に及ぶわけではないということです。つまり、キリストは十字架において救いを完成しましたが、だからといって救いが自動的にすべての人に及んで、すべての人が義とされるわけではありません。
聖書には、キリストの恵みを与えられた人、キリストによって義とされた人々はキリストの命にあって支配するとあります。17節
「恵みをあたえられた」と受動態で書かれていることから、恵みである信仰は神によって与えられるものであることがわかります。そして、神により義とされた者を、キリストの命は支配し義の道に歩ませることがわかります。
ですから、この恵みはすべての人にではなく、神によってキリストの命の支配の中に入れられた人々におよぶ祝福です。言い換えると、神によって救いに選ばれた人々に与えられる恵みです。そうであるなら、「キリストによる罪のゆるし」にあずかり義とされた者は、なおさらのこと天国が約束されていると言うパウロの証言は正しいのです。17節
考察4 恵みの支配は罪の支配を圧倒する。「救い」も「聖化」もそうである。これは聖霊を受けて新生したクリスチャンにだけ適応できる神の奥義。15-17節
新生したクリスチャンは、歩みと聖化を御霊の支配にまかせることができる。15-17節
「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」17節
恵みの意味は、ギリシャ語では、上位の者が下位の者に示す特別な行為で、キリストによって与えられる価なしの愛、神のあわれみなど。
賜物とは、神との和解、義認、新生、聖化など、神のあわれみが与えられたことによって信者が結ぶ実のこと。(これらの賜物は自分が実らせたのではなく、神が実らせてくださった)
豊かに受けているとは、人間の自制や努力で得る義ではなく、神のあわれみを豊かに受けて義とされ、神が結ばせてくださる実を豊かに結んでいる人という意味。
なおさらのこと、・・イエスにより命にあって支配するとは、
このような人には、ますます神の命(御霊)の効力がその人を支配するという意味。
17、18、21節をまとめて解釈すると・・・
自分の義ではなく、キリストのあわれみにより義とされ、神の賜物を豊かに受けて実を実らせている人は、その人にはアダムの違反によって始まった死の支配の影響を受けているが、神の命(御霊)がいっそう力強く働いて、その人を罪の支配から解放して救い、律法を守らせ、天国に入れることになる。
恵みの力は罪の力に打ち勝つのです。罪が入って来た時よりも、キリストの命はいっそう力強くその人に働きかけ、その人を支配するのです。アダムという人間の影響が私におよんだのであれば、神ご自身が私の内に聖霊として内住され、私に対して日々働きかけておられることが、どれほど大きな影響を与えるものか、理解できているでしょうか?
このことを認めるか認めないかで、クリスチャンの生き方が大きく変わってきます。
救われた後の信者の歩み、聖化(人格の聖め)は、罪によって支配される力よりも、はるかにまさる神の命(聖霊)が働いて進めてくださいます。神によろこばれるように歩ませ、御霊の実を結ぶようしてくださるのです。
ただし、このことは御霊をいただいて新生の恵みにあずかり、その結果として信仰を告白したクリスチャンに適応できることです。御霊によらず、決心や友達の勧めなどで信仰に入た人には不可能なことです。
考察5 律法主義になりやすい人への注意
1.自分の内にある罪の力に自分の力で戦うなら、敗北する。
罪との闘いは聖霊の支配に任せることが重要。
私たちはクリスチャンになった後も、自分の罪を自覚します。そして罪の力が自分を支配してしまうのではないかと恐れます。このような私たちを、今日の聖句は大いに励ましてくれます。
私たちは、罪の力よりもさらに力強く働く、神の恵みの力を与えられていると教えられたからです。真の信者は聖霊が内住し、聖霊の支配の下にあります。聖霊の支配は罪の支配を圧倒すると聖句は語っています。ですから、私たちは罪との闘いにおいて、ます聖霊の支配の下に自分があることを自覚し、聖霊の働きに信頼して、自分の罪と戦うようことができると今日の聖句は教えています。
もし、自分の内にある悪の衝動を自分でなんとかしようとしてはいけません。
すぐに効果を実感できる手法(ミニストりぃー)に頼ってもいけません。
人間の努力で罪と戦うなら敗北することを聖書は教えているからです。
私たちはもっと聖霊なる神について、真の知識を持ち、正しく信頼する必要があります。せっかく、クリスチャンになったのにかえって、律法主義になったり、恵みと言いながら、人間の祈りや決心に頼るが多いからです。ですから5章15-17節が教えていることは非常に重要なことだと思います。
2.自分の汚れを知って、聖くなりたいと焦る気持ちはわかる。しかし私たちとしては、罪を嫌って、自分に罪を犯させる人やものから離れること。不完全な自分を神にゆだねて、天での完成を信じて待ち望むこと。これが聖書が勧める生き方。
クリスチャンになった後も、罪の衝動を感じることは当然のことです。
もし、あなたが、私にはこの罪の衝動があるから神に喜ばれない。この罪を全く感じないようにしなければならないと思い、自分の力でなんとかしようとするならわなにはまります。
自分の内にある罪を完全に取り除こうなどと思ってはいけません。それはこの世では不可能なことだからです。神は人間が罪を背負ったままで、神に従うように定めておられるからです。この世で完全になれるなら、私たちは高慢になり神を必要としなくなるからです。神は私たちが御国に入る時、完全な者にしてくださると約束してくださっています。
私たちとしては、神の約束を信じ、将来の完成を望み見て喜ぶことができます。また、神との和解が成立している信者は、どのような罪も、神からの愛をストップさせることはできませんから、安心して罪を告白して悔い改めることです。
そして、罪との闘いにおいて、聖霊に頼ることです。聖霊が働いていてくださることを信じることです。これが聖書が勧める生き方だと思います。