- 1 律法で罪を定められなくなった人は、堕落するのではないか
- 2 Ⅰ キリストの中にバプテスマされることの奥義 自己の死と御霊による復活
- 3 Ⅱ 新しい人はどのように歩めばいいのか
- 4 Ⅲ 古い自己のまま生きた人と、御霊により新しくされた人の最後
- 4.1 考察1 「古い人の死」は、悪い性格、習慣を止める努力ではない。それは、罪に支配される「自己」が死ぬこと。「新生」とは、良いことをする努力や人生を神にささげる決心ではない。それは、主の御霊によって生かされる新しい人としてよみがえること。 2-14
- 4.2 考察2 キリストに継ぎ合わされることの偉大な奥義 キリストにつくバプテスマ、キリストの死にあずかるバプテスマ 3-11
- 4.3 考察2 新生して、神にさばかれなくなった人は堕落しない。 その人は罪を嫌って、もっと神に仕えるようになる。14
- 4.4 考察3 教えの基準に心から服従しなければ、真の解放はない。 自分の考えを優先する信仰は、かえって自分を縛ることになる。17-18
- 4.5 考察4 新生は「聖霊の働き」と「宣教」によって起こる。 その他の要因が、信仰告白の原因にならないように配慮するべき。
- 4.6 考察5 救いは行いではなく、信仰のみによる。 しかし御霊による心の割礼がない、信仰告白では救われない。
- 4.7 考察6 新生していない人は、自分の神観を作り上げる。 そして聖書の真理を否定するようになる。
律法で罪を定められなくなった人は、堕落するのではないか
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
罪の意識が増すところに神のゆるしの恵みに対する感謝が増し加わると、4章の最後にありました。そうであるなら、神のゆるしの賜物がもっと信者に与えられるために、信者はもっと罪を犯してもいいことにならないか。
信者が罪を犯しても、神の罰を受けないなら、信仰が人を堕落させることにならないか、と私たちは考えます。しかしパウロは、信仰によって罪に定められなくなった人が、堕落するのではなく、かえって義の奴隷として自分を捧げるようになることを証明します。
Ⅰ キリストの中にバプテスマされることの奥義
自己の死と御霊による復活
1. キリストと一体とされ、キリストの肢体となった。3節
キリスト・イエスにつくバプテスマ baptized into Christ Jesus
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
バプテスマとは何か。
浸す、沈める、水に鎮めたときのように、すっぽり捕えて圧倒してしまうこと。圧倒的に1つの力のとりこにしてしまうことを意味する。
キリストにつくバプテスマの意味。
外からキリストの中に入れられること、つまりキリストの支配以外のところからキリストの支配の中に入れられること。罪の支配の中にあった人がキリストの支配の中に入れられることを意味する。(into=外から中へ 動きを現わす前置詞)そして、キリストの中に完全に浸された(バプタイズされた)結果、キリストの圧倒的な力によって覆われたことを意味する。信者はキリストの支配の中に完全に入れられ、キリストのものとされ、キリストのからだの一部にされたという意味です。
2.罪を犯す主体であった自己が死んだ。
キリストの死にあづかるバプテスマbaptized into his death3-4
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられ たように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
キリストの死にあずかるバプテスマを受けたとは、キリストの死の中に入れられる、キリストの死と一体とされること。つまり、自分がキリストとともに死んだことを意味する。
信者は、キリストの死と一体にされることによって、生まれながらの罪に支配される古い自己は、死んで葬られました。
この古い人が、神に反抗し、罪を行う主体であり、神にさばかれる存在であったのです。このことを6節では「罪のからだ」が滅びたと表現しています。
3.御霊を主体とする新しい人として生まれ変わった。4-6
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは 知っています。
キリストの死と一体とされることによって、罪を犯す主体であった古い自己が死んで葬られ、キリストがよみがえられたように、自己によるのではなく御霊によって生きる新しい人としてよみがえりました。つまり、自己ではなく御霊を主体として、キリストの圧倒的な支配の中で、キリストの栄光のために義を行う人になりました。ですから、信者は、もはや罪に対して奴隷的に従うものではなくなりました。
4.神にさばかれなくなった。 7
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
死んだ人に、罪に刑罰を与えるための法律は適応されません。
死んだ人を、さばいて、刑務所に入れることはしません。
それと同じように、キリストの死によって罪の清算が終わっている人に律法は適応されません。
罪から解放されたとは、
律法によって罪に定められることから自由になった、律法の法的効力が及ばない者になった、もはや神にさばかれない者になったと言う意味です。罪に支配されて、天国に入れなくなっていた絶望的状況から解放されました。
Ⅱ 新しい人はどのように歩めばいいのか
1.入れられた恵みの立場を正しく理解しなさい。8-11
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。6:11 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
キリストは死んでよみがえり、もはや死はキリストを支配しなくなりました。そして、よみがえって神に対して永遠に生きておられます。私たちも、以前は神に対して死んだ者、神の国とは関わりのない者でした。しかし、キリストの死と復活にあずかることにより、罪をゆるされ、神にさばかれない立場を与えられ、神の前に永遠に生きる者、神の国を相続する者にされました。私たちは間違った教えにだまされて苦しむことがなにためにも、与えられた立場をしっかりと理解ておく必要があります。
2.自分の手足を義の器として神にささげなさい。12-13
6:12 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神 にささげなさい。
神の肢体とされたのですから、自分の手足を罪す犯すための道具として使ってはいけないのは当然です。神を汚すことになるからです。だから、自分自身を義のための道具として神のために用いなさいと言われます。器はギリシャ語では武器という意味。ここでは、自分の肢体を神の義を行うための武器として使うようにとの意味があります。
武器の力は強く、悪に使えば破壊し、善に使えば良いものをもたらす両面があります。そのことを心得て、神の御心をおこなうためにその武器を正しく使うようにと勧められています。
3.神の恵みにより罪がさばかれなくなっているからこそ、神に喜ばれる生き方をしなさい。14―196:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
「罪は支配することがない」とは、罪があなたを支配するべきではない。
それは自然でははい。Sin shall not be master over you (ギリシャ語英語聖書)
なぜなら、あなたは律法という支配の原理のものにではなく、恵みの支配の原理の下にあるからです。罪が主人として支配できなくなった。神の恵みが支配する人になったからです。そして、律法によって罪に定められなくなり、すべての罪が赦された人になったからです。このような人とされているからこそ、自分自身を神に喜ばれる義の器として捧げることが当然であるのです。
6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
6:16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷と なって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、6:18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
6:19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みまし たが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
あなたはキリストにつくバプテスマを受け、神に支配され、義を行うための神の奴隷となっていることを知りなさい。ですから、以前のように自分の体を罪のために用いてはいけません。自分の手足を神の義を行うために用いなさい。
Ⅲ 古い自己のまま生きた人と、御霊により新しくされた人の最後
1.罪に支配される自己によって生きる人の最後は、永遠の死。16、19-21
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
罪の奴隷であったとき、つまり自分の欲望に引かれて、神の命令に背いていたときに、何か良い実を得たでしょうか。うらみ、混乱、喧嘩などの悪い実を刈り取ったのではなかったでしょうか。このような人生を送っていたあなたは、死後に、永遠に神から引き離され、地獄に入れられる運命でした。
2.自己が死んで神の霊に生かされるようになった人の最後は、永遠の命。22-23
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
ところが、あなたは罪から解放されて神に従順な、神の義を行うための器になりました。あなたを聖く歩ませ、実を結ばせてくれる聖霊が与えられたからです。そして最後には、永遠の命をいただき天国に入るのです。
考察
考察1 「古い人の死」は、悪い性格、習慣を止める努力ではない。それは、罪に支配される「自己」が死ぬこと。「新生」とは、良いことをする努力や人生を神にささげる決心ではない。それは、主の御霊によって生かされる新しい人としてよみがえること。 2-14
1.古い人は、人間の努力によって死なせることはできない。
聖書が伝える義の奴隷として生きるということは、自分の悪い性質や習慣を人間の努力で失くしていこうとすることではありません。
ある教会では、罪の衝動を感じるたびに、神に告白して「罪を十字架につけて死なせる祈り」をしなさいと勧めていますが、これは古い人に対して何の効果もありません。
2.古い人は、キリストとともに十字架について死ななければならない。
「生まれつきの私」という「古い人」は罪を犯す原理に支配され、私に罪を犯させています。私は良い人になろうと努力するのですが、ちょっとした出来事や誰かの一言で、悪い自分が出てきてしまうのです。ですから、自分では自分を改善できないことを思い知らされます。
だから聖書は「生まれつきの自分」を改善する努力を止めて、罪深い自分をキリストとともに葬ることだと教えています。
3.御霊によって生きる新しい人としてよみがえらなければならない。
古い人が葬られるだけではなく、キリストとともによみがえり、キリストの復活の命である聖霊を自己の主体として復活することを教えています。このようにして初めて、自分の意志や努力ではできなかった神に従う生き方ができるようになるのです。
4.新生した人だけが天国に入ると、イエスは言われた。
自己が葬られ、キリストの命にあって復活することを「新生」といいます。
イエスは、新生していない人は、クリスチャンではなく天国に入ることもできないと当時の律法学者であったニコデモに教えておられます。
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょう か。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
考察2 キリストに継ぎ合わされることの偉大な奥義
キリストにつくバプテスマ、キリストの死にあずかるバプテスマ 3-11
1.それは、罪の支配の中から、神の圧倒的な支配の中に入れられること。
キリストの中にバプテスマされ、キリストと1つにされ、キリストの圧倒的な支配の中に入れられ、キリストの肢体とされている。この奥義は偉大です。
もはや、私とキリストとは切り離せない関係になっているのです。
また、キリストの死と復活に1つとされたことにより、罪深い自己は葬られ、キリストの復活の命(御)によって生かされる新しい人となって生まれ変わったのです。
2.この奥義は、信者を義に仕える者にする。
だからこそ、今は義の器として、神に仕えることが当然のことになったのです。罪を犯し続けることのほうが不自然なことになっているのです。人間の努力によっては決してできないことを神はしてくださいました。これはなんという素晴らしい祝福でしょうか。
考察2 新生して、神にさばかれなくなった人は堕落しない。
その人は罪を嫌って、もっと神に仕えるようになる。14
1. この世で悪をさばかないなら、悪が満ちる。
もし、この世で刑罰をなくし、皆心の望むことを行うなら、この世は悪で満ちるでしょう。このことは容易に想像できることです。
しかし、御霊によって新生した人は違います。彼らは、キリストの心(聖霊)が与えられて、神に従う者とされているからです。
2.新生した者たちは神にさばかれなくても悪に走らない。
彼らは罪を嫌って神に従うことを喜ぶから。
彼らにとって、神に逆らって罪を犯すことはつらいことです。なぜなら、神の御霊を悲しませたくないからです。新生した今は、義を行うこが彼らにとって喜びだからです。彼らは、罪を犯し続けることができないのです。罪は彼らを支配することができなくなっているのです。
ですから新生した人は、神に罪に定められることがなくても、罪に身をゆだねることなく、罪を嫌って、罪から離れ、聖い生き方をするようになります。彼らは、罪に定められなくなった結果、さらに神に従って歩むようになるのです。
考察3 教えの基準に心から服従しなければ、真の解放はない。
自分の考えを優先する信仰は、かえって自分を縛ることになる。17-18
1.パウロが伝えた「教えの基準」は聖書に書かれている。
救われた人は、「教えの基準」を喜び、心から従う。
パウロが教えた「教えの基準」「福音」がありました。それを心から受け入れて従った人たちは、本当の解放を経験しました。
パウロが死んだ今、私たちはどのようにして「「教えの基準」を知ることができるのでしょうか。私たちには、聖書が与えられていますから、聖書を調べて学ぶことによって、パウロが伝えた「教えの基準」を知ることができます。そしてその教えを心から信頼して受け入れ、従うことによって、私たちも本当の解放されることができます。
また、「教えの基準」に従うことは、私たちを真のキリスト者とします。
私たちを罪から解放させ、神の奴隷とします。
2.「教えの基準」を変えてはいけない。救われなくなってしまうから。
聖書のここは同意できない、ここは従えないと、自分に都合のいい教えだけを信じているなら、本当の解放を経験することはできないし、救われることもありません。聖書が約束する天国や永遠の命はいただけないということです。
また、そのような信仰は受け入れやすく、楽なようですが、だんだんと自分を縛るようになるでしょう。行いによって認められようとしたり、救いの確信がなかったり、信仰がない方が幸せだと、途中で止める人もいると思われます。
考察4 新生は「聖霊の働き」と「宣教」によって起こる。
その他の要因が、信仰告白の原因にならないように配慮するべき。
1.新生は、神が起こさせること。人間には起こせない。
しかし福音を聞かなければ、新生はない。だから宣教することが重要である。
人間は、聖霊の風を自由に吹かせることができません。これは完全に、神のご意思によって吹くからです。そして神は、人が福音を聞き、神が聖霊を与えることによって、救われるように定めておられます。ですから、先に救われた信者は、福音を伝えなければなりません。
2.新生した人だけが天国に入る。
イエスは、御霊によって生まれなければ天国に入れないと言われた。
パウロは、信者はみな、キリストにつくバプテスマを受けたと言いました。
キリストにつくバプテスマとは、何度も言いますが、キリストの中に浸されること、つまりキリストの死と合わされ、キリストの復活の命により新しく生まれることを意味します。
これを新生といい、イエスもニコデモとの対話の中で、「新しく生まれなければ神の国を見ることはない」と言われました。つまり、新生した人だけが、天国に入ることができるのです。
3 新生とはどのようにして起こるのか。正しく知ることは本当に重要。
それは、神について、自己についての真実を悟る、「内的な衝撃」のことである。
新生は、キリストの支配の中へ入れられる経験で、ある時「劇的な内的変化」が起こることです。自分の罪が示され、自分の汚れにおののき、聖書に書かれたことが正しいと心から同意でき、救いを必要とすることです。
このことは、福音を聞き、その人に聖霊が働きかけることによって起こります。
人間には、聖霊は見えません。また聖霊がどの人に吹くのか、知ることも、自分の思いのままに吹かせることもできません。
新生は完全に神によってなされます。
神が心を開いた人は、聖書の真理を悟ることができるようにされ、自分から信仰を告白します。
しかし、このことが起きるためには、その人が福音を聞いていなければなりません。聞いていないことを信じることは不可能だからです。
これが、クリスチャンにされる新生の過程です。
4 だから教会や信者の魅力で信じさせようとしてはならない。
私たちとしては福音を知らせること、仕上げは聖霊にまかせること。
だからこそ教会は、御霊とみことばによって伝道しなければなりません。
人は福音を聞くことが必要であり、そして福音を聞いた人に聖霊が働いて、新生させるからです。ですから、教会はこれら以外のものが信仰の決め手とならないように配慮しなければなりません。
奉仕を与える、霊的な雰囲気、人間の説得力、親切や友達関係、これら一切のものが信仰を告白する原因にならないように気を付ける必要があります。
考察5 救いは行いではなく、信仰のみによる。
しかし御霊による心の割礼がない、信仰告白では救われない。
「信じるだけで救われます」ということは、疑いの真理です。
しかし、信仰の告白の源がどこから来ているか。御霊からか。それとも古い人からか。この違いは決定的に違います。以後で救いに至る信仰告白とは、どのようなものかについて考えます。
1.御霊による信仰告白か、意志や決心だけによる信仰告白か。
しかし、その信仰告白が、御霊によってなされたのか、それとも、御霊によらず人の意志や決心によってなされたのかは大きな違いがあります。
御霊による新生(古い自己の死と新し命による復活)は、考え方が変わるとか、神のために働くようになって、人生の目標が変わった程度のものではありません。それは、心が変わる、自分の本質が見える、自分の汚れが本当にわからされる、聖書の全てのことばが自分にとって甘く思える変化です。
自分の核となって自分を突き動かしていた罪に支配される古い自己が死んで、キリストの御霊によって生きる者に変えらえているからです。もはや、古い自己に頼って生きる者ではなくなったのです。神の御霊に頼る者になったということです。
2.御霊によって新しくされず、古い人のままで信じた人は、まだ救いの条件を満たしていない。
御霊による心の割礼を受けることなく、自分の意志で信じた人は、上記のような変化を経験することなく信仰に入ります。
ですから、古い自己に頼って信仰生活をするしかありません。
神に喜ばれる存在になるためには、古い自分を改善することしかありません。
怒りを抑える、罪の誘惑に負けない、やさしい人になる、良い行いをする、など努力をすることでしょう。しかし、これらの努力で救われようとしても、律法を守ることで義とされなかったユダヤ人たちと同様に、救われないのだと聖書は語っています。
ですから、聖霊を受けて新生した人が、自ら進んで信仰を告白することが、救いの道です。人間の意志だけの告白では救われる条件はまだ満たしていないのです。
3.だから人間の愛や手法によって「信じさせる」ミニストリィーはよくない。
ですから、教会は「信じさせる」ことに熱心なあまり、御霊のない信仰告白を導いてはいけないのです。熱心な伝道は良いことですが、冷静に告白を吟味することが必要です。
ですから、音楽や霊の祈りによる感情の高まり、励ましのことばやラブシャワーなどによって、信仰告白を促すミニストリィーは、偽りの告白を生みやすいので、しないほうがいいと考えます。
考察6 新生していない人は、自分の神観を作り上げる。
そして聖書の真理を否定するようになる。
1.御霊を持たない人にとって、「神のことば」はおろかに思われる。
御霊は真理を悟らせてくださる霊です。聖書は神の御霊によって書かれた書物であるため、御霊を持たない人は理解できません。かえっておろかだと思われるのです。
みことばにもこのことは記されています。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。1コリント2:14
2.「神のことば」に変更を加えてしか信じられないし、伝えられない。
そこで、聖書が示すおろかな真理に、修正を加えて伝えることになります。
自分がもともと持っていた神観を土台にして、聖書の真理を加えたり、割り引いたりして、オリジナルな信仰信条を作り上げます。
自分の神観と聖書が一致しないときは、聖書が間違いだとします。聖書の解釈を変えることによって、自分の信条を正当化します。
3.これは、自分も伝えた人をも救われなくする恐ろしい罪。
しかし、これは黙示録には22章18-19節に書かれているとおり、自分はもちろんのこと、自分の伝道を通して信じた人々をも救われなくするという恐ろしい罪です。
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。
黙示録22:18-19
また、このような人は、救いは恵みと言いながら、結局のところ人間の努力で、高い道徳的規準を守らせるように指導します。
なぜなら、新生していない人は、古い自己の改善と努力によって神に近づくことしかできないからです。そこで、行いができた人、仕えることができた人が評価されて誉められる、律法主義的で、真の解放を知らない群れを作ることになると思います。