「罪が内住するキリスト者の心の葛藤、しかし御霊によって勝利する」ローマ人への手紙7章

<ローマ書7章 概要>

キリスト者は、神との平和を持ち、律法によっては罪に定められない者になった。この恵みの立場が与えられたからこそ、神に従うことができると説いた。

この章は、キリスト者になってからの葛藤について語る。

心では神に従いたいのに、神に従えない罪の原理が自分に宿っていることを告白する。しかし、最後にパウロは目を神に転じた。そして25節では、このどうしようもない自分に解決を与えてくださった神に感謝して、この章を結んでいる。

<ローマ7章 解釈>

律法からの解放
律法は、夫が生きている間だけ妻に対して効力がある。
夫が死ねば、妻への効力は終わり、妻は自由になる。1-3

7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。――7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。
7:3 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女では ありません。

妻は、夫が生きている間は、他の男性と性的関係をもってはいけません。これは律法で定めています。ですから、もし妻が他の男と関係するなら、罪を犯すことになります。
しかし夫が死ねば、妻は夫に関する律法から解放され、他の男性と結婚しても罪にはなりません。

新しい夫:キリストと結ばれたことにより、古い夫:律法から解放された
律法によって罪に定められないようになった。4

7:4 私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死 者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

夫に関する、妻への律法の効力と同じように、信者は、キリストを信じる前、律法によって裁かれる立場にありました。律法は彼らに対して、効力を持ち、彼らを罪に定めました。

しかし、信者の過去・現在・未来の全ての罪の罰を受けるために死んで、復活されたキリストに、あなたがたがつぎ合わされ、1つとされたことによって、律法はあなたがを罪に定めることができなくなりました。このことを、「律法に対して死んでいる」と4節では言っています。

つまり、信者に対する律法の効力は終わった。
キリストを信じる者は、律法によって罪を裁かれない者にされたと言う意味です。

律法から解放し、新生させる目的:御霊によって神に仕えさせるため4-6

7:5 私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
7:6 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです

信者は、神のために実を結ぶために、キリストと結び合わされました。キリストとともに死に、復活して、もはや自己を頼りとせず、御霊に支配される新しい人になりました。4

行いによる救い、自分の努力で律法を守ろうとしていたとき、かえって律法による数々の罪の欲情が働いて死のために実を結びました。(律法は人間の欲情を刺激して罪を犯させる働きもあります。)5

しかし、今は、自分の力で文字に書かれた定め(律法)を守ることではなく、神から与えられた新しい御霊によって、心に書かれた律法に従い、神に仕える新しい生き方をしているのです。6
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。2コリント3:6

自分の内に住む罪との葛藤
律法によって罪を意識し、自分が罪深いことを知った。7-11

7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったで しょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
7:10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。7:11 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。

律法は人間に害を及ぼすだけのものなのでしょうか? いえ、違います。
律法がなければ、私は何が罪なのかを正しく知ることはできませんでした。

律法は、私の罪を明らかにし、私は自分が神に裁かれ滅びる者であることを知りました。律法の戒めが、私の欲望を刺激して、自分をますます罪深いものとして意識させました。(「してはいけない」と言われると、かえって「禁止された」ことが気になって、罪を犯したくなってしまう。)

律法は正しく良いもの 問題は私の内にある罪 12-13

7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
7:13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

律法や戒めが私を罪に定めます。私にとって律法は私を永遠の滅び(地獄)に定めるものです。(律法は、私が神にさばかれる理由を与えるから)

律法は良いものですが、私に罪があるために、私にとって律法は無いほうが良いもの、やっかいなものになっているのです。

新生した人が抱く心の葛藤
「新しい人」と「古い人」の戦い 15-23、25

1.善をしたいのに、したくない悪を行ってしまう。
7:15
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。

2.体の中にある罪が、神に反抗し罪を犯させる、みじめな自分。
7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすので す。

善を喜ぶ内なる人(新しい人)と罪を犯させる古い自己の戦い。

私の肉のうちには善が住んでいないで、悪が住んでいます。
なぜなら、自分では善をしたいと願っているのに、それを実行することがなく、かえって、したくない悪を行っているからです。

それならば、悪を行っているのは、私ではなく私の内に住む罪です。
私の内の新しい人(内なる人)は、神の律法に従いたいと願っているのに、私の肉(古い自己)は、神に反抗して、内なる人の願いを退けているのです。
私の内には悪が宿っている原理を見出すのです。

自分の心の内では律法を喜び従いたいと願うのに、体の中に罪の原理があって、律法に反抗し、新しい人の願いを退け、罪を犯させます。
私の内には、いつも内なる人と古い人が戦っています。ですから、私は、ほんとうにみじめな人間です。

罪に支配される絶望的な自分を、キリストは救ってくれた
「古い自己」を葬って、神に支配される「新しい人」を与えてくれた

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

キリストは私の「古い自己」「死の体」「私の肉」を葬り、神に支配される「内なる人=新しい人」を与えてくださいました。
内なる人は、神の働きにより日々新たにされていきます。
だから、古い自己を背負いながらも、完成への希望をもって、罪との闘いを続けることができるのです。

<ローマ書7章 考察>

クリスチャンに対して律法の効力は及ばなくなった。
神にさばかれない者になった。

あなたは死んで律法から解放され、キリストと結ばれました。もはや律法でさばかれないものになったのです。この立場を良く理解できているかどうかで、クリスチャン生活が自由に満ちたものになるか、神の評価をいつも気にしながら、がんばらなければならない安息のないものになるかが決まります。

キリストとの結合によって新生することが、神のために実を結ぶ秘訣 1-6

キリストに結び合わされることが、真に神に仕える道を開くかぎです。

キリストとともに「罪に支配される古い人自己」が死んで葬られた信者は、キリストの圧倒的な支配の中に入れられ(バプテスマされ)、キリストの肢体として、新しい御霊をいただいて、よみがえりました。つまり、新生することによって、神に喜ばれる実を結ぶことができるようにされたのです。

古い人の努力と改善で、律法を守ることによって神に仕えるのではなく、神から与えられた御霊によって、神に仕える新しい道が開かれたのです。
これが、神のために実を結ぶ秘訣です。

生きている間、罪との戦いは続く。
しかし信者は神の支配下にあり、最後の勝利が約束されている。

キリスト者の心には、相反する心があります。
神の定めを喜んで神に従いたいと思う心と、神の定めに反して自分の欲望を満たしたい心の葛藤があります。

クリスチャンになっても、罪との戦いは、死ぬときまで続きます。
御霊を持たない人、救われていない人には、罪の誘惑を退けて、神に従うことは困難です。

しかし、キリスト者には、聖霊が内住してくださり、罪との戦いにおいて、自分の力ではなく、聖霊によって勝利する道が備えられています。

また、死後、栄化され、罪に対して完全に勝利することが約束されています。
クリスチャンの罪との戦いは、勝利を前提とした、力づよい神の助けのもとでの戦いです。
ですから、信者は神に信頼して、勇敢に罪と戦い、勝利するべきです。

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