「イエスを信じるために心が整えられている必要がある。洗礼者ヨハネ」ルカによる福音書2章

ヨハネは「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を説いた

ヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地に行き、[罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を説いた。3:3

  1. 神のことばがヨハネに下った。彼は悔い改めのバプテスマを説いた。
    「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」マタイ3:2
    預言者マラキ以来途絶えていた神のことばがヨハネに降った。そこでヨハネは宣教を始めた。 ルカ3:3
    彼はらくだの毛で織ったものを着て、腰に革帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
  2. 当時のユダヤ人は、自分たちは天国に入って当然だと思っていた。
    アブラハムの子孫で、神に特別に愛されているから。
    アブラハムが授けた律法を守っているから。
    そして、創造主を知らされず、律法も与えられない他国の人を見下した。
  3. ヨハネは、ユダヤ人であっても異邦人と変わらず、神のさばきを受けることを知らせた。
    たとえ、律法を守っていても、神の目には彼らは聖くない。
    そして彼らに「キリストのあがない」を望む心の備えをするために、彼らに罪の自覚をうながし、
    罪の赦しのため、水のバプテスマを授けた。しかし、これは完全な罪のゆるしではない。人々に罪を自覚させ、キリストによる完全な赦しを受ける備えをさせるためであった。
  4. エルサレム、ユダヤ全土の人々が自分の罪を告白してバプテスマを受けた。マタイ1:6、マルコ1:5
  5. 大勢のパリサイ人やサドカイ人がバプテスマを受けに来るのを見て、
    ヨハネは彼らに厳しい言葉を吐いた。

    彼らこそ、アブラハムの子孫であることや律法を守ることを誇り、キリストによる罪の赦しに反対して、彼を殺すことをヨハネは知っていたからである。

    「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
    それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神 は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」ルカ3:7-9 参照:マタイ3:7-10

ヨハネは、自分の後に来るキリストは
「聖霊のバプテスマ」を授け、民をさばく方だと預言した。

人々はヨハネが「キリスト」ではないかとうわさした。ヨハネは否定した。

  1. 自分はキリストの道備えをする者である。イザヤが預言した荒野の声である。
    「荒野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」イザヤ40:3

    「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。・・」マルコ1:2,3
    参照:ヨハネ1:19-27、マタイ3:2

  2. 自分は水でバプテスマを授けているが、キリストは「聖霊のバプテスマ」を授ける。
    キリストは、神の前に聖い者を天国に入れ、聖くない者を地獄の火で焼き尽くす方だと預言した。

     民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていたので、 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方 のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」ルカ3:15-17 参照マタイ3:11-12、マルコ1:7-8

ヨハネはイエスに洗礼をした。イエスを「キリスト」だと宣言した。

  1. ヨハネは自分にはその資格がないとためらったが、イエスに頼まれて洗礼を施した。マタイ3:13-15
  2. 水から上がったイエスの上に「聖霊」が降るのを見て、この方こそ「キリスト」だと告白した。
    ヨハネは、神から聖霊が降る者こそ、キリストだと知らされていた。参照ヨハネ1:29-34

    ルカ3:16、ルカ3:21,22、マタイ3:16,17、マルコ1:9-11

ヨハネは、牢に閉じ込められた。

国主ヘロデが、兄弟ヘロデヤの妻を自分の妻にした罪を責めたからであった。ルカ3:19-20

ヨハネは本物の預言者であった。

ヨハネが預言したことは成就した。彼は本当の預言者である。ルカ3:15-17

  1. 「聖霊のバプテスマ」が信者に与えられることをを預言した。
    救いはユダヤ人を超えて、全ての民族に与えられることを預言した。
    旧約時代、神はユダヤ人のみに神を知らせた。しかし新約時代のキリストの場合は、特定の民族が優先されない。すべての民族が救いにあずかることができるとヨハネは預言した。
  2. イエスが、人の死後の行先(天国・地獄)を決める神であると宣言した。

預言者ヨハネが証言しているのだから、イエスは確かに「キリスト」である。ヨハネ1:29-34

ヨハネはマラキ以来、はじめて登場するユダヤの預言者がヨハネ。
そのヨハネがイエスをキリストだと証言しているからである。ヨハネは「洗礼で水から上がったとき聖霊が鳩のように降るのを見たら、その人がキリストだ」と神から告げられていた。そして、イエスを洗礼したとき、ヨハネは聖霊が降るのを見たのだ。また天からの声を聞いた。

ヨハネの宣教から教えられること。私たちは未信者に何を知らせるのか?

自分の罪が、自分を永遠の滅びに至らせる。このことを知って絶望する。
宣教は、この事実を伝えることに始まる。

ヨハネ、律法によっても、ユダヤ人としての血統によっても、救われないことを彼らに知らせた。
そして、ユダヤ人に、罪の赦しを渇望する思いを起こさせた。
彼らはヨハネに聞いた「先生。私たちはどうすればいいのでしょうか」ルカ3:12-14
ヨハネは、罪を神に告白せよ、わいろを取らず、姦淫をせず、人親切に・・と彼らが聖い生活に励むよう説いた。しかし、実はこれでもだめなのである。なぜなら彼らは、どんなに自制しても、いつか罪を犯してしまうからである。一生罪を犯さない人は存在しないからだ。それは、人とは罪の根をもって生まれ、罪を犯さないですますことができない存在だからである。神の基準は高い。心の中で罪を犯すことすら、神は赦さない。
そうであるなら、人間の努力では神に義と認められることは不可能である。

ここで、人は絶望する。なぜなら、将来確実に直面する神のさばきを、自分ではどうすることもできないからである。しかし、実はこの絶望が、信仰の入り口なのである。この絶望を深く感じれば感じるほど、罪の赦しを、自分の力ではなく、神のあわれみによって与えられることを願うからである。

絶望した人に対して「キリストの到来」を知らせる。
絶望した人が歓喜する。これが福音宣教。

自分では、自分の運命をどうしようもない、神にさばかれると絶望した人に対して福音を語る。
「キリストが成就された救い」にあずかることによって、罪が完全に赦される道を示すことが宣教である。
人間の努力ではなく、信仰によって救われる道を神は2000年前にすでに用意しておられた。
このことを伝えて、絶望した人を歓喜させることが、福音の宣教である。
ヨハネは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と説いた。(マタイ3:2)
キリストのあがないが成就する時がもうすぐ実現する。だから罪を悔い改め、キリストを迎え入れる心の準備をせよと勧めたイエスも「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と神を信じることを勧めた。(マルコ1:15)ペテロは、「今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36)イエス、律法学者には「水と御霊によって生まれなければ神の国には入れない」と言った。自分の罪に絶望し、キリストの救いにすがる人が、救われる人である。キリストを自分の罪から救ってくださる方だと告白する人に水のバプテスマが授けられる。教会のメンバーに加えられ、奉仕が与えられる・・

教会に行っているが、救われていない人に対して、自分の罪に気づかせる。悔い改めを勧める。
このままでは、天国にいけるかどうかグレーゾーンであることを自覚させる必要がある。

主を全く知らない人に対しては、キリストが復活されたこと、キリストがこの世界の神であること。
死後、この方が彼らの罪をこの方が裁くことを教える。(彼らは恐れるだろう)
この方を信じれば救われることを示す。

福音を薄めないと生活できないなら、副業や自営をして福音を曲げずに伝道する方が良い

しかし、この順番を間違って行なっているケースがある。語るべき知らせは、その人が拒絶しない程度にする。それよりも、まず教会の交わりに入れる。そのため洗礼を施す。やりがいを与えるために奉仕を任せる。教会生活をする中で信仰が成長して「固いことば」も受け入れられるようになると考える。
ところが、そのようなケースはまれである。ほとんどが福音を知らないまま、もしくは知れば拒絶する状態で教会生活を続けることになる。これは伝えた側の責任を、さばきの日に神に問われることになるであろう。
本当の福音を知らせたとき、確かに救われる人は少ない。しかし、それはイエスも預言されていたことである。福音とはそういうものである。
それでも、福音を曲げずに伝道する。神が養ってくださると信じることが伝道者の信仰ではないのか。
また、宣教のことばを曲げずに、自分たちが生活できるように工夫することができるのではないか。

使徒パウロは平日はテントを造って生計を立てた。安息日には会堂で話をした。このように、教会の奉仕ができる副業をする、妻も働いて助ける、自営をするなど、何かの工夫ができるはずである。
このほうが、福音をうすめて伝え、神に対して罪を犯し、自称クリスチャンを増やして、彼らからの献金によって自分たちの生活を楽にすることよりずっと良いと、私は考える。

自分の義を誇る人を、ヨハネもイエスも嫌った。

自分の良い行いを誇る人は、信仰から遠い。彼らはキリストによる義を受け入れない。

ヨハネは、パリサイ派、サドカイ派の人々がバプテスマを受けに来た時、彼らをののしった。
「おまえたちは、自分の生まれを誇り、律法を守っていることを誇る。しかし、おまえたちは天国に入れない。自分たちでは良いと思っていても、神はおまえたちの隠れた罪を知っている。おまえたちは神のさばきの火によって焼かれるのだ」と彼らが救われていないことを告げた。
イエスもヨハネと同様であった。
彼らは、律法の決まりを厳格に守る人たちで、その努力によって人を評価する人たちであった。
このような人が、「信仰による救い」に反対する。事実、彼らはイエスを十字架につけて殺した。

私たちの中にも、パリサイ人、サドカイ人がいる。
彼らは、自分が正しく行っており、道徳的であることを誇りとしている。
心の中で、自分は聖い、正しい、自分こそ天国に入る資格があると思っている。
こういう人はキリストに頼る人を馬鹿にする。「キリストによる罪のゆるし」をくだらないと思う。
もしこの時代に、ヨハネが生きていたら、こういう人に「悔い改めて神を信じなさい」とヨハネは勧めたことだろう。

罪深い自分の事実を知ること。これが信仰のはじめには絶対に必要である。
この自覚があるかないかが運命を分ける。
だからこそ、1人でも多くの人が、自分の罪を知って、キリストを信じ、滅びから免れることができるようにと願う。そして、先に救われた者は、この知らせを、自分に与えられた場で、できる限り伝えていかなければならない。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?