目次
- 1 14章:2 信仰のない者にも神の恵みとして美徳が宿る場合がある
- 2 14章:3 しかし、彼らの善行には純粋な動機がない
- 3 14章:4 キリストを信じることなくして善いわざを行うことはできない
- 4 14章:5 義を行う力は、神の恵みにより心が全く新たにされること(再生)から来る
- 5 14章6:義の始まり:ただ神の恵みによって義とされる
- 6 14章8:信仰があってはじめて、行ないが神に認められる
- 7 14章9:再生したキリスト者の中に罪が残っている
- 8 14章:16 行ないによる義に信頼を置いてはならない
- 9 14章:18 良い行ないによって、信徒は励まされる。 しかしそれは神の恵みによってなされたことを忘れてはならない。
- 10 14章:20 良い行ないは、神の賜物を受けている「しるし」であって、義を得るための条件ではない
- 11 14章21:行いに神が報いを与えれると言う意味
14章:2 信仰のない者にも神の恵みとして美徳が宿る場合がある
- 私は「不信仰の者が持つ美徳が、神の賜物ではない」とか、「正と悪に違いはない」というほど非常識ではない。私は正義と悪は大変違うことを認める。なぜなら信仰のない者が行う義と悪の間にさえ、大きな違いが現れているからである。
- 信仰のない者の善行に、神は褒美を与えておられる。これは神が善を高く評価するという証拠である。
私たちは徳を重んじる者が、現世で祝福されているのを見ている。神は、信仰のない者がする外面的な善にさえ、一時的な祝福を与えておられる。このことによって、主が「義」を高く評価しておられることがわかる。 - 未信者の善行も神からの賜物である
不信者が現わす美徳の模造品ですら、神の賜物である。なぜなら、そうでなければ、彼らは神から褒美をもらうことができないからである。
14章:3 しかし、彼らの善行には純粋な動機がない
- 主を敬わない者の善行は、価値がない。彼らはいぜんとして神の刑罰を受けるにふさわしい者である。
なぜなら、彼らの動機は純粋ではなく、汚れているからである。
彼らは社会の正義を維持するための神の器であるが、しかし、かれらがそうするのは、善を成そうとする努力からではなく、野心や自己愛その他のねじけた感情からである。そのため、彼らの行いは心の不純な動機を隠れもっているため、徳の部類に入れることはできない - 要するに「神に仕えること」これが正しい目的である。
これを欠くなら、どのような善行も、神から義と認められることはない。
要するに「正しい目的は、神に仕えることにある」。よって、彼らは良い義務を果たしていても、神の定めた目的を否定しているので、たとえこの世で誉められたとしても、神にとっては罪でしかない。 - 神に認められる義は、行動ではなく動機によって判別されるからである。
異教徒の英雄たちの良い行ないも、その目的が神に向いてなされていなかったという点で、罪をおかしている。それゆえ彼らの偉業は神にとって義ではなかった。なぜなら義は行動ではなく動機によって判別されるからである。
14章:4 キリストを信じることなくして善いわざを行うことはできない
- 使徒ヨハネの証言「神なしに善行はない」
使徒ヨハネの証言が正しいのであれば、キリストにあずからない者は、何をしようとも、破滅と永遠の死の審判へと向かっているのである。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。1ヨハネ5:12 - アウグスチヌスの証言
神は、義と不義の区別を、行ないではなく信仰によって判別される。信仰がなければ、義と見えたものも、罪に変じる。 - キリストにあずかること無しにされる善行は、神に喜ばれていない。
たとえその人が魅力的に良い実を実らせているように見えても、それは決して「善い」実ではない。 - 人は、神と和解する前は、神に呪われている存在。いかなる善行も彼らを義とすることはできない。。
人は、神と和解する以前は、神に呪われており、何をしようとも義とされる価値をもつことがない。むしろ断罪を受けるべき存在である。 - 信仰がなければ、神に喜ばれる「良い行い」はできない。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」へブル11:6
14章:5 義を行う力は、神の恵みにより心が全く新たにされること(再生)から来る
- 神は、罪のうちに死んでいた私たちを生かし、善行ができるようにする。
私たちのうちに救いを得るに値する価値はいっさいない。救いは、人間の行いによらない。神の計悪と憐みによって与えられる。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死 からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。ヨハネ5:24,25
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを 受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――エペソ2:3-5
このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。ローマ4:17
- 善き行ないをする力は再生に由来する。
- 善をなす力は、生まれつきの自分に由来するのではない。
生まれつきの自分は、悪が自然とほとばしり出る存在である。私たちは、神にによって、善を成すように再生された。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:10 - 私たちは神の招きによって救われた。それは永遠の昔からの神の計画であった。
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵み は、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、・・・Ⅱテモテ1:9 - 神は罪に惹かれて迷っていた私たちを憐み、聖霊によって心を新しくしてくれ、救ってくれた。
私たちも以前は、愚かな 者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合 う者でした。しかし、私たちの救い主 なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった 義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。テトス3:3-5
- 善をなす力は、生まれつきの自分に由来するのではない。
- 人間に義は一片もない。人間は、神の恵みによって再生され、善行ができるようにされる。
行ないが先行して恵みが与えられるなら、恵みが恵みでなくなる。
聖書の多くの証言が間違っていることになる。
もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。ローマ11:6
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために 来たのです。マタイ9:13
14章6:義の始まり:ただ神の恵みによって義とされる
- 私たちがまず主を愛したのではなかった。主が私たちを愛し義としてくださった。
信仰は、神がまず人を愛し信仰を与えることによって始まる。だから、信仰は人の行ないによって獲得するものではない。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。1ヨハネ4:10 - 私たちは信仰を持つ以前は、神の敵であり、神の怒りを受ける存在である。
救いはいわば死から命に復活するようなものである。
不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者と され、義と認められたのです。1コリント6:11御霊の注ぎかけを受けてはじめてキリストに従うようになる
父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。1ペテロ1:2
14章8:信仰があってはじめて、行ないが神に認められる
- 主への恐れ(信仰)を欠いているなら、たとえ良いと見られる行いも、空しい。
それらは神に良しとされていない。それどころか神を怒らせている。 - いまだ御霊によって新生していない人の行ないは、良いものに見えても、神にとっては罪でしかない。
行いによって神に認められることはできない。信仰を持ってはじめて、神に善しと認められる行いができるようになるのである。 - 神に行ないが受け入れられるためには、心が神を敬っていなければならない。神は心を見られるからである。だから、心が神を否定している者の行ないは、神に受け入れられない。
このことから、生きた信仰を持つことが、良い行いの第一の前提であることは確かである。
14章9:再生したキリスト者の中に罪が残っている
- 信じた時に与えられる御霊が、日々私たちの罪を殺し、私たちは聖化される。
神は私たちを義としたとき、同時に私たちの内に聖霊を住まわせ、御霊の力によって私たちを日々私たちの肉(罪の思い)を死なせる。このようにして私たちは聖化される。この過程を通して、私たちの心は神の律法を守ることができるように整えられ、神の栄光を推進するように向けられる。 - 救われても、不完全さは残される。それは、へりくだりを学ぶため。
これは私たちが高慢にならないため、私たちがへりくだるための神の配慮である。 - キリスト者の行ないの中にも腐敗があると覚えておくことは大切である。
私たちが高慢になり、未信者をさばくことがないために重要である。
信者は、生涯で一番すぐれた働きを思い出して見たとき、それさえも腐敗している(不純な動機が潜んでいる)ことを認めざるおえないだろう。だから、信仰者の行ないも、神の判定によれば、腐敗が混じっているために、報いに価するものではないと考えるべきである。
14章:16 行ないによる義に信頼を置いてはならない
- 自分の行ないによって義を得られると思ってはならない。
また、いかなる誉れも、自分の行ないによるものと考えてはならない。 - 行いの義に頼らないとき、正しく清められる。行いに頼るなら、高慢になる。
義を得ることにおいて、行ないの自信に頼らず、自分を誇って高ぶることをしないとき、正しく聖化される。しかし、愚かな人は、行いに義とされる原因を置き、自信におごり高ぶる間違いをおかす。
14章:18 良い行ないによって、信徒は励まされる。
しかしそれは神の恵みによってなされたことを忘れてはならない。
- 聖徒は自分への信頼を完全に捨てている。良い行いは主によってできる。
救われた後の行ないは、主から与えられたものだと知っている。 - 神から授けられた良い行いや賜物を、私たちは感謝し喜ぶ。聖徒たちはこれによって励まされる。
私たちは。行ないに依り頼む自信は排除する。しかし、善い行ないや賜物(才能)は、神から与えられたものである。その現れは、御霊の働きの結果であって、われわれが御霊を受けていることの証拠であるから、私たちは良い働きができることを、恵みとしてか神から授けられたことを、感謝して喜ぶのである。
14章:20 良い行ないは、神の賜物を受けている「しるし」であって、義を得るための条件ではない
- 良い行ないは神の賜物を受けていることのしるしである。
良い行ないは、神からの贈り物である。良い行いは、それによって神の慈愛を知り(聖霊の内住と働きが自分の中で進行していることのしるし)、神に選ばれたこと(確かに救われていること)を証拠づけるしるしである。このことは、義をキリストによって価なしに受けることと矛盾しない。 - 本当の聖徒は、行いによって自分を評価するのではなく、自分の行いが神のすばらしさを損なっていないかをいかを恐れる。
本物の聖徒たちには、たとえ良いわざができたとしても、自分のわざがすばらしいという思いはいっさいない。かえって自分のわざが、主のすばらしさを損なうことがなかったかと心配するのである。聖徒のする善い行ないは、神が与えたものである。しかも、その行ないは罪に汚れている。
だから聖徒は自分の良いと見られる行ないにさえ確信を得ることはできないで、かえって恐れが生じるのである。聖徒は、自分の行ないの内に、神が、御自身が与えた賜物を認め、御自身の目的が成就されたことを認めて、満足していただくことを望むのみである。
14章21:行いに神が報いを与えれると言う意味
- 善き行ないは救いの原因ではない。救いの結果である。
「善き行ない」は、永遠の命の恵みを受けた者に与えられた二次的な恵みである。神は、通常救われた者に善き行ないをさせることを通して、彼らを永遠の命に導き入れるからである。 - 神の恵みが与えられた(救われた、御霊が与えられた)から善行ができる。
- 善行を「神の恵みと独立したもの」と考えたり、善行が「神の恵みを増し加える」などと考えてはならない。