1 ソロモンはアドニヤとの後継者争いに勝ち王になった 第1列王記1章
- ダビデ王は年老いて老人になった。後継者争いが始まった。
- 4男のアドニヤが王になろうと画策した。
ダビデはソロモンを王とするつもりであったが、ダビデの4男アドニヤが、ソロモンをさしおいて王になろうとした。
彼はエン・ロゲルの泉にダビデの兄弟たち、ヨアブ、祭司エリアブ、ユダの兵士たちを招待し、イスラエルの王として捧げ物をし、祝宴を開いた。 - 主は、ソロモンを王に立てるよう、バテシェバがダビデ王に願うようされた。
その同じ日、神は予言者ナタンをバテシェバに遣わし、ソロモンを王とするように嘆願させた。 - ダビデはソロモンを王にするため、家臣に指示を下した。
王はソロモンを自分の雌馬に乗せ、祭司ツァドク、予言者ナタン、エホヤダの子ベナヤの3人を伴わせ、エルサレム郊外のギホンの泉で、彼に油を注ぐ。 - ソロモンたちがギホンからエルサレムに入城する中、群衆が集まりソロモンを祝福した。
- ソロモンは、王の寝室まで来た。王はソロモンを祝福し、彼を礼拝した。
- アドニヤたちは恐れおののき、命乞いをした。ソロモンは寛大に扱い、アドニヤを殺さなかった。
考察1-1 ソロモンとアドニヤの違いから教えられたこと
1、王は、神に油注がれた者、神に選ばれた者しかなることができない。
人間の願い、計画によって、王になることはできない。
アドニヤには「油注ぎ」がなかった。彼は巧妙に計画を練って王になろうとした。
しかし、その計画は失敗に終わった。
2、神は、ひそかに王を選ばれる。神の「油注ぎ」は隠れたところでなされる。
アドニヤは、主だった人々の前で、王らしく振る舞うことによって、王になろうとした。
生け贄を盛大に捧げることで、王としての資格を示そうとした。
ソロモンは、たった3人を伴って、誰にも告げず、ギホンの谷に行き、「油注ぎ」を受けた。
「油注がれる者」とは、神に愛され、神に王として選ばれた者の意味である。
3、神に選ばれた王を、人々は知るようになる。
ソロモンがエルサレムに入城する途上、人々は集まって来て、大喜びでソロモンを祝福した。
油注がれた者を民は見逃さない。そのことは必ず人々が知るところとなる。
考察1-2 クリスチャンになることは、主から「聖霊の油注ぎ」を受けること。
これは、人の計画によらない。神の恵み。
「油注ぎ」は、ソロモンやダビデがそうであったように、1人静かに神と対話している時に、与えられる。その人に油注ぎがあったことは、誰に言わなくても、教会員が認めるようになる。ソロモンが王になったことを、人々が認めて集まってきたのと同様である。
そして、教会は彼が信者になったことを祝い、彼に洗礼を施す。
ソロモンを、民が大喜んで迎えたのと同じである。
アドニヤは策略によって、王になれると考えた。これが間違いだった。完璧な計画、お膳立てをすれば、民は自分を王として迎えるだろうと考えた。しかし、彼が王になることは神の御心に反していた。そのため、彼は失脚した。
アドニヤが王になれなかったように、クリスチャンになることも、人間の計画によらない。
それは、神が選び、任命することだからである。礼拝出席、献金や良い行いなど、人間的な努力をいくら積んでも、本当のクリスチャンにはなれるのではない。それは救われた結果、現れることであって、救われるためには何の貢献もしない。
「神の油注ぎを受けること」、「聖霊が与えられて内側から新しくされることが」、あなたに起らなければ、あなたはクリスチャンではない。たとえ教会に通っていても、聖霊によってあなたの心が新しくされていなければ、あなたは救われていない。
救いを与え、キリスト者とすることは、神による。私たちとしては、神の恵みが与えられることを祈ることである。あなたが救われているのならば、与えられた恵みを心から神に感謝し、神をほめたたえることである。
2 ソロモンの王位が確立するまで争いがあった 第1列王記2章
死ぬ日が近づいたダビデは、ソロモンに遺言を残す。
- 主のおきてを守ること。
- ヨアブを殺せ。
ヨアブは、ダビデに王位を移すことを約束したネルの子アブネルを、その帰り道に殺した。このことをダビデは赦していなかった。
また、ビクリの子シェバが謀反を起こした時、兵を集めに行ったエテルの子アマサを、調べもしないで、帰りの期限に間に合わなかったという理由だけで、謀反を疑い、剣で刺し通し、路上にさらしものにしたことを赦していなかった。 - ギルアデ人バルジライに良くしてやれ。
彼らは、ダビデがアブシャロムから逃げた時、駆けつけ、共に戦ってくれた。 - ゲラの子シムイを殺せ。
アブシャロムから逃げる時、ダビデをのろった男。ダビデが勝利した後、ヨルダン川を渡る時にあいさつに来た。その時、ダビデは「殺さない」と約束した。しかし、ソロモンが王になった今、彼を生かしておいてはいけない。
ダビデの死後に起きた出来事
- ダビデの次男アドニヤが再び王位をねらう。
王を最後に世話したシュネム人の女アビシャグを妻にもらいたいと願った。それを聞いたソロモンは彼を殺す。 - 祭司エブヤタルを解任し、自分の自所に帰らせる。(エリの家系の祭司が絶たれた)
エブヤタルは、王になろうとしたアドニヤに味方していたため。 - ヨアブの死
これらの出来事を聞いて、神殿に逃げ込み、祭壇の角をつかんだ彼を殺す。 - シムイの死
エルサレムに家を建てさせ住まわせる。「ギデロン川を渡ったら殺す」と約束する。
3年後、逃げた奴隷を探して帰ってきた彼を、殺す。父ダビデからの因縁があるが、ソロモンとシムイの間の約束を破ったという理由を作って彼を殺した。
2-1考察 なぜソロモンが王になったのか?
ダビデの家には血の争いが絶えなかった。これはすべて、バテシャバとの罪の刈り取りであった。このことは、予言者ナタンによってダビデに告げられていた。
兄弟たちは、王がソロモンを選んでおられることを知っていたのであろう。だから、2男アブシャロムや4男アドニヤは王になるためには、父に反逆するしかなかったのだ。
それにしても、なぜダビデはソロモンを寵愛して王位を継がそうと決めていたのか。
バテシェバを特別に愛していたから、彼女の願いを聞き入れたのか。
自分のせいで夫を取り上げられ、第1子を亡くした彼女に、特別な憐れみを感じていたのか。
ただ言えることは、ソロモンが神に愛されていたことである。
このことは、神がダビデの罪をゆるしておられることを意味する。(これは新約の型である)
王となったソロモンは初めのうちは、神に従ったが、後半生は偶像礼拝までするようになる。
神から、何度か忠告を受けるが彼は聞き入れなかった。
ソロモンの時代は、ダビデのゆえに、彼の罪にもかかわらずイスラエルは繁栄した。
しかしソロモンの死後、王国は分裂し、最後には他国の侵略により消滅した。
イスラエル王国の滅亡がなければ、ユダヤ人たちがメシヤを待ち望むこともなく、イエスが出現する舞台が整わない。
神は、イスラエルの絶頂期に、ソロモンを王にした。
神は、彼の罪をも用いられて、ユダヤ人たちがキリストを迎えるための準備をなさったと言える。
なぜなら、彼の罪によって、時代は次のシナリオむけて動き出したからである。
彼の罪により、イスラエルの滅亡への時限装置にスイッチが入ったからである。
神の英知は計り知れない。ただ言えることは、神は全てのことを働かせて、ご自分の計画を成就なさるということだけだ。
3 ソロモンは知恵を求めた。王国は繁栄した。第1列王記3、4章
- 主は、ソロモンの夢に神が現れ、彼の望みを聞いた。
- ソロモンは、自分のために長寿や富を求めず、民をさばくための知恵を神に求めた。
- このことは主の御心にかなった。主は彼に知恵を与えるだけではなく、富と名誉も与えると約束した。
彼が神に従って歩むなら、彼の王国は絶えることがないと約束された。 - 人々は、神が彼の内にあってさばきをするのを認めた。
- ソロモンのうわさを聞いて、外国からも、人々が彼の話を聞きに来るようになった。
考察3-1 私たちは神の知恵を求めるよりも、まず「この世の知恵、富、祝福」を求める。
私たちが、神に求めるものといえば、お金や仕事、健康などである。
そして、それらの願いがかなえられない時には神をのろい、神はいないと結論する。
たとえ、求めるものが与えられたとしても、これらは、ちょっとしたきっかけで、一瞬にして消え去るものである。たとえば、もうけ話にだまされて大金を失う、家庭を築き子供ができても離婚するなど、結局のところ、変わらず自分を守ってくれるものではない。
考察3-2 神の知恵をいただくことが一番重要。これ無しの祝福は一時的で消滅する。
ソロモンが求めた「知恵」は、この世の「処世術」とか「学力の高さ」ではない。彼が求めた者は「神の知恵」であった。神を知り、愛し、神に従う中で、与えられる知恵である。
神は全知であって、全ての人の思い、過去、現在、未来を知っておられる。その方が啓示される知恵は、この世の知恵をはるかに勝ってすぐれている。そして、それに信頼する者を失望させることがない。しかし、この世の知恵は私たちの期待をうらぎる。
考察3-3 神の国と神の義がこの世に現れることを願う信仰、つまり自己中心ではなく神中心の信仰を確立することが一番重要である。この世のことは、神が面倒をみてくださる。
第一に、この世の祝福を求める信仰は、失望に終わる。
人は、神が自分の必要を満たしてくれるなら、信じると言う。しかし、これは順番が逆である。
神の国、神の義を求める信仰、つまり神を最上の宝とする信仰、救われる信仰を持つことが緊急で第一に必要なことである。
そうすれば、神がこの世のことは面倒を見てくださる。ソロモンが神の知恵を求めたので、神が彼に知恵だけではなく、繁栄を約束されたことと同様である。また、このように信仰を持つ者は、神が与えてくださる分で満足する。
金持ちたちが、有り余る財産を得ても、決して満足しないようなことにはならない。
考察3-4 神によって知恵を授けられた人を、人々は認める。信頼する。
確かに、ソロモンの内に神がおられ、さばきをおこなっておられることを、イスラエルの民は見て、認めた。そして彼に恐れを感じた。彼を尊敬した。神の知恵に満たされた人を、人々は認める、信頼するようになる。
ソロモンの知恵を聞くために、外国から人々が訪問してきたように、私たちも、神の知恵に満たされる時、それは、神の義を求める信仰を持つことであり、神を一番の宝とする信仰を持つことであるが、その時、人々は私たちの内に働く神を認め、助言を求めに来るようになるであろう。
4 神殿が完成したときに祈ったソロモンの祈り 第1列王記8章
契約の箱を神殿に運び入れた
神殿を建て終わったソロモンは、契約の箱を運び入れる。祭司とレビ人に箱を担がせ、至聖所に安置する前に、数え切れないほどの羊や牛のささげものをした。神の定めた方法に基づき、慎重に運んだ。(父ダビデは箱を牛に引かせたために神罰が下った)
その後、ソロモンは、ひざまずき神殿に向かって両手をあげて祈った。
考察4 ソロモンの祈りから教えられたこと。神殿は象徴であって、神自身ではない。
4-1、ソロモンは、神殿に向けて祈るが、神は天で聞いておられること知っていた。
この宮であなたに祈るとき、この宮にある祭壇の前で誓うとき、
あなたご自身が天でこれを聞き…(30、33節)
民は神殿に向かって祈った。
神殿に向かって祈ることは、イスラエル神に信仰を持って祈ることを意味する。
上記の聖句は、「神が神殿に向かって祈る者の祈りを、天で聞かれる。」と言う意味である。
つまり、神は、イスラエルの神殿が象徴する神であって、この神に信仰をもって祈ることが重要であることがわかる。
そして、神殿を通して、祈りが天に届くということは、祈る場所はどこでも良いということを暗示している。当時は、イスラエルの神殿が信仰の聖地であったが、今は、イスラエルに向かって祈る必要はない。いつでも、どこででも主に祈ることができる。
このことをイエスは預言されていた。
「この山でも神殿でもなく祈る日が来る」と預言された。(ヨハネ4:21)
今の私たちにとって、ソロモンが建てた神殿に当たるものは、イエス・キリストである。
イエスの御名によって祈るとき、神は聞いてくださる。キリストは教会に住んでいるわけではない。教会で祈らなければ聞かれないのではない。キリスト・イエスに対する生きた信仰を持って、祈るのでなければ、たとえ教会で祈ったとしても、その祈りは神には届かない。
4-2、ソロモンは、民が神に対し、神の懲らしめを受ける時、彼らが立ち返れば、彼らの罪を全て赦し、彼らの願いを叶えてほしいと祈る。(私たちの救いに共通する祈り)
民が神に対して罪を犯すとは、偶像礼拝をすることであった。
イスラエルの民は、主以外の神を拝んではならないと、強く戒められていた。
しかし、彼らは他の民族の女たちと結婚することによって、女たちの神を拝むようになった。
ソロモンは、罪を犯しても、主に立ち返り、外国の神を排除するなら、ゆるしてほしい、彼らを祝福してほしいと祈っている。
神以上に大切なものを持ち、それに頼ることが偶像礼拝である。
現代で言うならば、仕事、家族、財産、アイドルなどがそれに相当する。
もしそれらが、神よりもあなたを楽しませてくれ、これらの楽しみを邪魔するなら、神はいらないと言うのなら、あなたは偶像を拝んでいるのです。
4-3、ソロモンは、立ち返って神に祈る時、赦してほしいと願った。
ソロモンは、民が偶像から離れ、イスラエルの神、この天地を造られた神に立ち返るなら、罪の全て赦してほしいと祈るのである。
私たちも同様である。私たちの大切にしていた「偶像」が、頼りにならないものだったこと、変わらずに楽しませてくれるものではなかったことがわかる時がある。
その時、変わることなくを自分を支えてくれる神に立ち返る。
私たちが、真に神に立ち返る時、主は、私たちが神をないがしろにしてきたことを
「もはや思い出さない」言われるのである。(ヘブル書8:12)
ソロモンの時代は、キリストによる罪の赦しが成就していなかったので、過去の罪の刈り取りをしなければならなかった。ダビデもそうであった。
しかし、私たちは幸いである。キリストによって完全に過去が罪が赦される。そして新しく人生を始めさせてくださる。過去だけではなく、現在、未来におかすかもしれない罪をも神は覆って、罪に定めないと約束してくださるのである。
4-4、ソロモンの祈りは、将来起きることを預言したような祈りだった
- 異邦人が改心することを預言した祈り
外国人がここに来て祈る時は、彼らの祈りをかなえてほしい。(41-43節)
イスラエル人だけではなく、異邦人もこの信仰に入ることを彼は受け入れている。
事実、キリスト信仰は、イスラエルから始まって全世界に述べ伝えられた。
- イスラエルの捕囚を預言した祈り
民が遠いあるいは近い敵国に捕虜として捕らえられていった場合、捕らわれていった敵国で心を尽くし精神を尽くしてあなたに立ち返り、この宮のほうに向いてあなたに祈るなら、天で聞いて、あなたにそむいて犯した全ての罪を赦し、彼らを捕らえて行った者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。(50節)
民がバビロンに捕囚される出来事は、後の時代に起きる。
そしてバビロンのクロス王は、イスラエル人を帰還させ神殿を再建させる。
結論
ソロモンの祈りは、私たちは今神に従っています。これからも神に従います。
だから「どうかますます祝福してください」というような単純な祈りではなかった。
民が神に罪を犯すこと、罪を犯さずにはおれないことを知った上で、「神に立ち返るなら、赦してほしい」という祈りであった。
ソロモンの関心の中心は「罪と赦し」である。私たちの信仰の関心もソロモンと同じである。
そしてこの問題を完全に解決してくださった方が、キリスト・イエスである。
5 ソロモンの祈りに答え、神がソロモンに語られた約束 第1列王記9章1-9節
神殿が完成したとき、神がソロモンに現れて語られたことば。
神はソロモンが建てた宮を、他の神々の宮からは区別された。ご自身の宮とされた。
この宮に向かって祈る民の願いを、特別に扱われるためである。
「あなたがわたしにの前に願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたが私の名をとこしえまでも置くために建てたこの宮を聖別した。
わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」3節
ソロモンの時代、神殿に向かって祈りが捧げられた。神殿に向かって祈ることは、イスラエルをエジプトから連れ出した神、天地創造の神に祈ることであった。そして、神は神殿に向かって祈る者の祈りに目を注ぎ、心にかけると約束された。
つまり、ご自身に信仰をもって祈る者の祈りを聞き、願いを叶える。そして、その者を守るというのである。これは、なんという素晴らしい約束であろうか。
現在イスラエルに神殿はない。それは戦いによって破壊された。
しかし、神は聖霊を信者に与え、聖霊を宿す信者の体をご自身の宮とされている。
だから、私たちが神の宮。神は私たちを聖別し、私たちが祈る祈りを聞き、心に留めてくださる。
神の定めと命令を守る限りにおいて、イスラエルの国の繁栄は続く。
神を捨て、他の神々を拝み仕えるなら、国は滅び、宮も廃墟となる。1列王9:4~8
神がイスラエルの民に特別な保護を加え、王国を永遠に続くものとする約束は、
王が神に対して忠実である限りにおいてであった。
神は彼らの不信仰を知っておられたので、ご自分を捨てて、他の神々を拝んだ場合についても詳細に語られた。
彼らは、自分たちはそのような愚かなことはしないと思ったであろう。しかし、ソロモンの時代、すでにその兆候は始まる。
私たちも同様である。聖書に書かれた戒めを守らず、聖書に現わされた神を捨てて、他の神々を拝み仕えるなら、イスラエルと同じ結果になる。この世において苦しみ、最終的には、天国に入れないことになる。
真の神から彼らを引き離すものは、他の神々への宗教行為であった(偶像礼拝)
この当時、神礼拝に伴う飲食やお祭りが人々の最大の娯楽であった。
日本でも、収穫後の「秋祭り」や「だんじり」を人々は待ち望んで参加した。
そして他の神々への礼拝は、人間の肉欲を満足させることを礼拝の行為としている。
たとえば、神殿男娼、神殿の娼婦などである。バアルの神殿には、彼らと寝るための部屋が用意されていた。姦淫が神聖な礼拝儀式であって、罪ではないのである。
なんと都合の良いことか。これほど、公の儀式にしなくても、祭りにはいつも敗退的
な行為がゆるされる。日本のお祭りも例外ではない。そして、人々はこれを好む。
だから、他の神々に心引かれ、真の神を捨てるのだ。
ソロモンもその1人であった。神は彼の祈りを聞き、彼の王国を確かなものにされていた。しかし、彼は女たちが拝む神に魅了されていった。神が何度も彼を戒めたが、彼は悔い改めなかった。神は、ダビデとの約束のゆえに、彼の存命中に王国を滅ぼすことはしなかった。しかし彼の死後、王国は分裂し、最後にはバビロン王国に滅ぼされた。
考察5 今の私たちを、真の神から離すものは何か?
それは、イスラエルのように他の神々を拝むことではない。神よりも自分を満足させる、さまざまな娯楽である。
今の時代、宗教行事が人々の一番の娯楽ではない。
私たちには、祭り以外に多くの娯楽がある。たとえば、ゲームや映画、スポーツ、コンサートなどである。
ある人にとっては仕事、ギャンブルにはまる人もいる。
また、性欲を満たすための便利なサービスがある。例えば、アダルトビデオ、ガールズバー、ホストクラブなどである。
これらを楽しむために、多くの時間とお金が費やされる。
これらのことが、あなたにとって一番の喜びであるなら、それはあなたにとっての偶像である。
しかし、考えてみて欲しい。これらが与える喜びは、つかの間で、変わりやすく、条件つきであることを。このことに気づくことができた人は幸いである。その人は、偶像から離れ、本当の喜びをくれる神を信じることができるからである。
天地創造の神は、あなたがどのような状態の時も(幸せのときも病のときも)、慰めと喜び、希望を与えてくださる。
神を喜びとすることができた人は幸いである。彼ら決して失望させられない。
彼らは、この世で神に守られ、死後には天国に入り、永遠に憩うことになるからである。
6 シェバの女王がソロモンを訪ねる。第1列王記10章1-13節
シェバの女王は、ソロモンの繁栄と知恵のうわさを聞いた。
そして、ソロモンに会いに来た。彼に難かしい質問をして答えられるか知ろうとした。
しかし、ソロモンの知恵と、神が与えた祝福を見て、女王は驚嘆した。
「実は、私は自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。」7節
彼女はこのように告白し、イスラエルの神を信じるようになった。
「あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせるのです。」9節
考察6-1 シェバの女王は、ソロモンの子をを産みたいと望んだのではないか?
ソロモン王は、女王の豊かさに相応の贈り物をしたが、それ以外にも、彼女が求めた物はなんでもその望みのままに与えた。13節
それ以外のものとは何だろう?金銀、財宝や高価な品々以外のものとは何か?
彼女は、ソロモンの子供を産みたいと願ったのではないか?
女王の動機は、イスラエルの神を知ることであった。
しかし、彼女が、神に大いに愛されているソロモンに帰属するもの(彼の子)を求めたとしても不思議ではない。
ソロモンは若く、優秀で、ハンサムであったはずである。
(ダビデとバテシェバの子、美男美女の間にできた子だ)
そして、彼は外国人の女性を好んで関係をもった人である。
女王が願えば、ソロモンは彼女の願いをかなえたであろうと思われる。
女王も若かったと思われる。遠くアフリカからうわさを聞いて、自分の目で確かめに来る好奇心と行動力、他国の神の素晴らしさを認める柔軟性を見るとき、女王は若く、行動力あふれる利発な女性であったのではないかと思われる。
シェバの国は、今のエチオピアである。聖書には、キリストの復活後、イザヤ書を読んでいたエチオピア人の宦官に、ピリポが解き明かしをして、宦官がその場で洗礼を受けたという記事がある。今も、エチオピアの60%近くの国民はキリスト教を信仰している。シェバの女王が信仰を自分の国に持ち帰って、広めたことは確かである。
そして、エチオピアの起源については、紀元前10世紀頃、ソロモン王とシバの女王の間に生まれたメネリク1世の建国によって、国が誕生したという伝承が残されている。私の推測は、まんざらウソではないかもしれない。
考察6-2 シェバの女王が主を信じたことから。神のうわさを聞き、自分で確かめる人は、神を見いだす。
はじめ女王はイスラエルの神のうわさを疑った。
しかし、彼女が他の人と違っていたのは、自分の目で確かめようとしたことであった。
そのために彼女は、遠いアフリカから、はるばるソロモンに会いに来た。
このような人は、自分が確信を持ったなら、他人の意見に左右されない人である。
そして、自分の確信に基づいて、大胆に生き方を変えることができる人でもある。
シェバには、伝統宗教があった。彼女もその神々を拝んでいたであろう。
しかし、女王はイスラエルの神に改心した。
ソロモンは神の奥義を伝えたはずなので、彼女は偶像礼拝を止めたはずである。
私たちも同様である。キリストのことを聞いたなら、シェバの女王のように、自分で本当かどうか確かめてほしい。
シェバの女王がソロモンに質問したように、あらゆる疑問をキリストに投げかけて、
この信仰がどのように答えるかを知ってほしい。
その上で、もし「この神こそ自分が拝むべき神であった」と確信したならば、誰の反対されたとしても、この信仰を貫いてほしい。
7 ソロモンの転落、外国の女を愛し、偶像を拝み神の怒りをかう 第1列王記11章
- ソロモンは多くの外国人女性を愛した。
彼女たちは、神が「彼らの中に入ってはならない、必ずあなたの心を転じて彼らの神に従わせるから」と警告を与えていた国の出身であった。彼には王妃700人、そばめ300人がいた。 - ソロモンは偶像を拝んだ。
彼女たちが彼の心を他の神々に向けたので、王はシドン人のアシュタロテ、アモン人のモレク、モアブ人のケモシュなど
主が忌むべき神々に従うようになった。 - 神はソロモンに警告を与えたが、彼は聞かなかった。
- 神は怒られ、ソロモンに敵対する者を起こされた。
エジプトに逃げていたエドム人のハダテ、エリヤダの子レゾンを起こして、彼を攻撃させた。
また、ソロモンの家来で手腕家であった、ネバテの子ヤロブアムを起こす。 - 主は、ソロモンの死後、ヤロブアムに11部族を与えると預言した。
主は、預言者アヒヤをソロモンに遣わし、彼の死後、11部族をヤロブアムに与え、1部族だけはダビデに免じて、ソロモンの子に与えると言われた。 - このことを知ったソロモンは、ヤロブアムを殺そうそするが、エジプトに逃げられた。
偶像に関する主の戒めの聖句
あなたは注意して、あなたが入っていくその地の住民と契約を結んではならない。それがあなたの間で、わなとならないように。
いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシュラ像を切り倒さなければならない。あなたはほかの神々があってはならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。・・・
彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。(出エジプト34:11-14)
考察7-1 ソロモンの堕落から教えられたこと
なぜ、ソロモンは変わってしまったのか?
ソロモンは神殿建築が完成したとき、罪を犯して止まない民の弱さを知り、民が神に立ち返る時、赦してほしいと神殿に向かって祈った人である。また、自分のために、財産や長寿を願わず、民を治めるための知恵を求めた人である。
そのような人が、あの忌まわしい神々、モレクやアシュタロテを拝み仕えるようになるとは、信じがたいことである。なぜ、ソロモンは変わってしまったのか?
彼の情欲に原因があった。彼は神の律法を守らず外国人を愛した。
外国の女性と交わってはならないという神のおきてを、ソロモンは守れなかった。
かえって彼女たちを好んで愛した。イスラエルの女性よりもエキゾチックで魅力的であったのであろう。しかし、若い頃の彼は、彼女たちが自分たちの神々に仕えることをさせなかった。しかし、ソロモンの中ですでに妥協が始まっていた。
彼は、王国が平和であることに安心した。
神は自分を守る。少しくらいの罪は赦されると、神のおきてを軽く見た。
彼の治政が安定し、たくさんの富を蓄えることができた。このような時に、油断が入り込むものである。彼は、少しぐらいの罪は罰せられないと神のおきてを軽く見た。
老いがソロモンの心を変えた。女たちを喜ばせるため偶像を拝ませた。
若い頃に楽しめたこと(女性との交わり)ができなくなり、女たちを喜ばせるために、彼女たちに偶像を拝むことをゆるしたのではないか。そのうちに、彼自身も偶像が提供する快楽や興奮のとりこになったのではないかと思われる。
偶像の礼拝は、多くの場合、宗教的興奮をともない、官能的である。
例えばモレクの場合、子供を殺すとういうショッキングな出来事を見ることが礼拝である。
大音響の中、火がつけられ、赤ん坊が泣き、母が泣き崩れる。これほど刺激的なシーンはない。退屈な日常を忘れさせてくれる瞬間である。現在も、ホラー映画を楽しむ人は多い。モレクはまさに「生のホラー」である。
また、アシュタロテ神は、多産と快楽の神である。女祭司たちは、人身犠牲と記した冠をつけており、彼女たちと売春行為をすることが礼拝であった。主が、罪であると定める行為を、偶像の神は、神聖であるとするのである。
ソロモンは偶像が提供する楽しみから離れられなかったのではないか。
自分の不信仰のため、神がイスラエルを悩ませているにもかかわらず、
神が彼に安息を与えてくれないからと、偶像に頼った。
ソロモンの心が神から離れたため、神は彼に敵対する勢力を起こされ、彼を圧迫する。
このことが、さらにソロモンを他の神々に頼らせる結果になったと思われる。
考察7-2 私たちも、ソロモンと同様、神の戒めを嫌い、神にさばかれる定めを持つ。
ところが、信仰が与えられるとき、私たちは変えられる。神の戒めを喜び、神に従いたいと思う心が与えられる。
現代の私たちもソロモンと同じ願いを持つ。私たちは最大限の自由を願う。
楽しみたいのである。それを制限し、罪だとする宗教、倫理に反発する。
日本でも、同性愛が公に認められる風潮にある。一部の地域では、同性愛カップルに婚姻と同等の権利を与える法律ができた。また、このようなカップルが、人工授精により子供を作ることも、以前より批判されなくなっている。結婚前の性交は今やあたりまえになされている。また結婚後も他の異性と交わることを赦すカップルもある。
この流れに反対して立つことには、相当に信念が必要である。
クリスチャンには、聖書に書かれた神のおきてがある。このおきてを破るなら、ソロモンのように破滅が待っている。
そのことは、神がソロモンに敵対する者を起こされたことからはっきりとわかる。
神が人の過去、現在、未来を決定されているからである。
だから、神に逆らえば未来はない。究極的な主のさばきは、死後、永遠の刑罰に定められることである。
人間の決心は頼りないものである。あれほど信仰深かったソロモンが転落した。
神からの聖霊が私たちを信仰にとどまらせてくださる。ここに希望がある
聖霊が宿る人を神は捨てない。救いに至る信仰を持つ人を神は最後まで守られる。
「私たちは神の側に立ち続ける。聖霊の助けによって。」これが私たちの確信である。