- 1 2編3章1/人は罪人として生まれ、神に反抗する性質をもつ
- 2 2編3章2/人の心は全てにおいて罪の影響を受け堕落している
- 3 2編3章3,4/神を信じないで善行をする人も完全ではない。
- 4 2編3章6/回心によって、はじめて神に良しとされる行いができるようになる
- 5 2編3章6/善の意志は神からの賜物、人間が造り出したものではない
- 6 2編3章7-9/ 神と人が協力するのではない、 神が人に善意を起こさせ実行させる(聖句)
- 7 2編3章10/ 神は人に意志させるだけで、実行するかどうかは人間が判断するのではない
- 8 2編3章11、12/ 信仰や良い働きの増加も 人の努力や徳によるのではない。神の恵みによる。
- 9 2編3章13/ パウロとアウグスチヌスはこのことを支持している
- 10 2編3章14/結論:人間の意志と神との関係/ 人の意志は御霊を受けて、はじめて罪の縛りから解放され、 善を自由に選ぶことができるようになる
- 11 2編3章14/結論:信仰と神との関係/ 人が神を選ぶのではない。神が人の意志を回心へ向けさせ、 最後まで信じ続けるようにさせる。
2編3章1/人は罪人として生まれ、神に反抗する性質をもつ
このことが正しいとする証拠
- イエス・キリストの証言
肉の思い(生まれながら人の思い)は神に敵対し、神の定め(律法)に反抗し、従うことができない。イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
ヨハネ3:6
生まれながらの人(肉)は、肉的(自己中心、自己の欲望達成)な思いに縛られており、神の思いに反抗する。だから、神の霊(聖霊)を受けて心を一新されなければ、神の国(天国)に入ることができないと言われた。新しく生まれる=神によって心を一新され、神に従う新しい歩みを始めること。
-
使徒パウロの証言
「霊」と「肉」とはいっさいの関わりを持たないほど対立的である。すべて生まれながらの人間が持つものは「肉」しかない。人間は新しくうまれなければ、「霊」をもつことができない。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。 肉にある者は神を喜ばせることができません。ローマ8:6~8
生まれつき人間は肉の思い(罪の思い)に従い、神に反抗する。神に従えない。なぜなら、神が自分たちの思いを罪だとするから。そのような者は神を喜ばせることはできないと使徒パウロは言っています。
つまり、生まれたままの状態では神を喜ばせることはできない。神の「霊」をいただいて心が新しくされなければならないと言っている。
2編3章2/人の心は全てにおいて罪の影響を受け堕落している
- 使徒パウロ エペソ書4:22~24
信じなかったときの自分は、罪に惹かれて滅びゆくものでした。神の御霊を受けて心を新たにされなさい。
古い自分を捨てて、キリストにある新しい人を着なさいと勧めている。
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。 -
使徒パウロ エペソ書4:17~18
生まれながらの人は神に喜ばれない生き方しかできない
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。 - 預言者エレミヤ エレミヤ書17:9
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 - 預言者イザヤ イザヤ書59:13~15
私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。 こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。 そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。 - 使徒パウロ ローマ書 3:10~12
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 」 - 使徒パウロ ローマ書3:12-18
「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
「彼らの足は血を流すのに速く、 彼らの道には破壊と悲惨がある。 また、彼らは平和の道を知らない。」
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
2編3章3,4/神を信じないで善行をする人も完全ではない。
- 神を信じず善行をする人がいるではないか。彼らの場合をどう考えるのか?
- すべての人のたましいは、健全であるとは言えない。
罪の行為を行っているわけでなくても、すべての人にこれらの欲求があることは否定できない。
善に励む人の中に多くの堕落を認めることができる。伊藤博文の女好きとか。 - その人に神の恩寵によって、罪の抑制が働いているため。
- 万物を保つために、神が人間の本性の悪が噴出しないように抑制している場合がある。
- すべての人のたましいは、健全であるとは言えない。
- 歴史上の偉人たちの場合
- 神は彼らを世の改善のために用いられた。しかし、彼らは野心や権力欲など、神に喜ばれない思いを隠しもっている。そのため、彼らの行為は人からの賞賛を得ても、神からの賞賛は得られない。
2編3章6/回心によって、はじめて神に良しとされる行いができるようになる
- 神への回心が、義をおこなうための起源である。
神は、私たちの心を新しくして神に向けさせ、私たちの心のうちに義と愛を願う心を起こさせる。そして、私たちが義を行なわせる。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。ピリピ1:6 - 回心は意志の補強ではなく、全く新しくなること、全き変化。
回心は、人間の意志の補強ではない。人間に善なるものがないために、神は全くの変貌が必要だと言われるのである。
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:3
ユダヤ教の指導者ニコデモに対してイエスが教えたこと。ニコデモはユダヤ今日の戒律を守り正しく生きる努力をしていた。しかし、イエスはそれでもダメなのだと言う。
「人間の努力には限界があり、どんなにがんばっても、完全に神を満足させる基準まで聖くなることはできない。そうではなくて、自分が無力であることを認めて神に助けを求めなさい。キリストを主と信じて、神からの霊(聖霊)を受け、心を新しくされなさい。そうでなければ天国には入ることはできない。」
キリストは新しく生まれる必要を教えた。
割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。
ガラテヤ6:15
ユダヤ教の儀式(割礼)を受けることで、聖くなるのではない。キリストの霊を受けて、心が一新されること、つまり新しい創造こそ一番大切なことである。
2編3章6/善の意志は神からの賜物、人間が造り出したものではない
- 神が人に意志を起こさせ、実行させている。ピリピ2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。 - 人のさまざまな働きは、神によってなされている。1コリント12:6
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。 - キリストを信じる人は、善を行うように神によって創造された。どのような善を成すか、神はあらかじめ計画しておられた。私たちは神が備えてくださった善行をしているにすぎない。だから自分が、良い行いをしたからといって、自分を誇れない。エペソ2:10
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。 - われわれの良きわざは、神が造ったものである。ダビデの証言 詩編100篇3節
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
2編3章7-9/
神と人が協力するのではない、
神が人に善意を起こさせ実行させる(聖句)
回心(キリストを信じること)は神のみわざであっても、回心後は人間の意志が神と共働して働くのだと考える人たちがいる。しかし、それはまちがいである。
このことを証明する聖句
- 神の恩寵が人間に善の意志を生みだし実行させる ピリピ2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
- 信仰は、自分で得たものではなく、神から与えられた賜物 エペソ2:8
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
- 聖書全体
善を志向する意志は神によって与えられる。
善を志向する思いは信仰から始まる。信仰は神の値なしの賜物である」と聖書全体は語っている。それならば、われわれが善を意志するようになるのは、我々の能力ではなく、ただ神によって与えられることになる。
- 預言書から
人間由来のものは取り除かれ、神からの新しい心で義を実行する。神と人が協働するのではない。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。エゼキエル書36:26
神は人の石の心を取り除いて、神に従順な心を与え、義に向かわせ、神に従うようにならせると書かれている。つまり、人間由来ものは取り除かれ、神からの心が与えられて義をなすようにさせるという意味。
このことから、善を成すことにおいて、人がいくらか貢献するのではなく、神が全てを成すことがわかる。
神が人に神を恐れる心を与え義を行わせる。人の心が神から離れないようにするのも神による。
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に 与える。エレミヤ書32:29
- イエスにつながっていなければ、人間は神の目にかなう善ができない。イエスの証言
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。・・・
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあな たがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを 離れては、あなたがたは何もすることができないからです。ヨハネ15:1~5
われわれの内に、善を行ういくらかの力が、それが十分でないために神の助けが必要なのではない。
枝が木から養分を吸い込まなければ実を結ぶことができないように、われわれもキリストにつながらなければ神の目にかなう善を欲し実行することはない。その善行は自分がしたのではなく、主が結ばせた良い実である。
- イエスにつながっていないものは、天の御国から追い出される。イエスの証言
しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。マタイ15:13 - 神がわれわれの意志を造り、実行させている。パウロの証言
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。ピリピ2:13
良きわざは、意志と努力による。その両方を作り出すのは神である。
神が「われわれの意志の弱さを助ける」のではなく、「われわれの意志を造る」のである
2編3章10/
神は人に意志させるだけで、実行するかどうかは人間が判断するのではない
質問:神は意志を動かすが、それに従うかどうかは人間の選択次第なのではないか?
答え:神から発していない人間の自由意志は悲惨。アダムの意志は神の命令に背くことを選択した。
その結果人類に罪が入り、全ての人は死ぬようになった。アダムの例以外にも、私たちの選択が、自分の人生を不幸にしてしまった経験は数限りない。やはり、神を離れて人間は正しい選択をすることができない。
善を意志することができることは、神が人に与えた恵みであるといえる。
このことを証明する聖句
- 人間は神に従わない古い心を取り除き、神に従う新しい心が与えられなければ、神のおきてを守れない。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与 える。エゼキエル書11:19善を行うことができるように、新しい霊が与えられる。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。エゼキエル書36:27 - 天の父なる神によって引き寄せられない限り、キリストを信じる意志は生じない。キリストの証言
わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
ヨハネ6:45 - 神の恵みが与えられなければ、人間に神を求めはじめない アウグスチヌスの証言
求める者に恩寵(神の恵み)が与えられると教えなければならない。しかし、恩寵が与えられなければ、人は神を求めはじめない。だから、恩寵よりも人間の自由意志に信仰のはじまりの決定権があるのではない。
- 敬虔なものの心は、曲げることができない感情をもって神に従う。なぜなら、その心は神によって固くささえられているから。このようなことは人間には不可能である。
だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを 歩むことができないのです。1ヨハネ3:9
2編3章11、12/
信仰や良い働きの増加も
人の努力や徳によるのではない。神の恵みによる。
- 恩寵(おんちょう=神の祝福)が増し加わるのは、救われた人のがんばりではない
神は、しもべの中に良いものを見いだして、日に日に恩寵を増し加える。けれども、これは人間が勤勉であったからとか、人間が恩寵を正しく用いたから与えられたのだとの考てはならない。
- 恩寵は、神の値なしの恵みにより与えられる
増し加えられる恩寵は、人間の努力に応じてではなく、神の値なしの恵みによって与えられたものである。このように用いることも主から出たことであり、このような報いも、神の値なしのいつくしみから発したものである。
上記が正しいとするアウグスチヌスとパウロの証言 (2人の意見は良く一致している)
- アウグスチヌス
- 「神の多くの賜物は、人間のよき意志に先立つ、そして人間のよき意志そのものも、神の賜物のうちにある」
- 使徒パウロ
- 良きわざは、信者の徳の結果として、神が人に与えるものではない。
それは、信者が神に良しとされるために、神から与えられた無条件の恵みである。(パウロ)
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。
ピリピ2:13
- 良きわざは、信者の徳の結果として、神が人に与えるものではない。
2編3章13/
パウロとアウグスチヌスはこのことを支持している
- 使徒パウロは、彼自身の内にいっさいの功績を認めなかった。
彼とともにあった恵み(御霊=神)がすべてのことをしたと告白している。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きま した。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。第1コリント15:10
いっさいの過ちは翻訳のあやまりから生じている。ギリシャ語本文は何の疑いのあとをとどめないほど明快である。つまり、パウロの言ったことをギリシャ語から正確に訳すならば、「恩寵が彼とともに働いた」といっているのではなく、「彼とともにあった恩寵がいっさいを成しとげた」と告白している。
- アウグスチヌスも、神が意志をさせ、意志したことを完成させるのも神であることを認めた。
- 神が意志をさせ、意志したことを神が完成させる。
神は、意志しない者に意志させ、意志したことがむなしくならないように成功させる。
- 神は力強く信者の意志をささえ、罪から離れさせる。
聖徒たちが生きている間にすでに得ている自由、それは「罪をおかさない自由」、「罪を犯すことができない自由」である。
- 信者が試練に耐え忍ぶことも、恩寵による。
神が意志を造りささえるのでなければ、弱い人間は試みに耐えて忍び通すことは到底できない。
人間の弱い意志は神に助けられて、神の恩寵が離れることなく働けば、いかに弱くても耐え忍ぶ。
- 人間の選択や努力で恩寵を受けるか決まるのではない。恩寵が良き意志を作り結果を生み出している。
各自が自由な選択によって恩寵を受けるか受けないか選ぶのではない。恩寵が「選択」と「意志」を造る。善きわざは、みな恩寵が与えられた結果の実り、恩寵が創り出したものである。
- 人間の意志は心の底から感動されて変えられる。強制されて、いやいや神に従うのではない。
人間は心のうちに何の動機もないままに、いわば外からの衝撃によってもち運ばれるのではない。そうではなく、心の底から感動させられるのである。
- すべての人がこの恩寵にあずかれるのではない。それは人間の徳や行いによって与えられるのではない。人間のいかなる状態にかかわらず、ただ神の憐みが望むことによって与えらえる。
そしてこれを与えられる人は、行ないの功績に応じて与えられるのでも、意志の功績に応じて与えられるのでもなく、価なしの恵みとして与えられる。そして、これを与えられくても、それは神の義のさばきによって与えられないのだということも、われわれは知っている。
- 神が意志をさせ、意志したことを神が完成させる。
2編3章14/結論:人間の意志と神との関係/
人の意志は御霊を受けて、はじめて罪の縛りから解放され、
善を自由に選ぶことができるようになる
- 人間の意志は、生まれながら善も悪も自由に選択できる能力がない。
なぜなら、それは罪によって不自由にされているからである。その結果、良いことだとわかっていても選択できないことが生じる。 - しかし、人間は神の恩寵を受けるとき、その意志が自由にされる。
キリストへの信仰により、御霊を受けた人は心が一新される。
神に喜ばれることを願い、実行するように心が向けられる。 - 人間の意志は、恩寵によって悪を悲しみ、善を喜ぶようにされる。
そして、この思いを持ち続けるように御霊によって力づけられる。 - ときには、悪に立ち向かうために抜くことのできない強さで強化される。
- 人間の意志とは、恩寵によってささえられなければ、悪に傾くような弱いもの。
恩寵に支配される限り倒れず、恩寵から見放されたならばたちまちにおとろえるような不安定なもの。
善を志向し続けるような固い意志は、神のささえがなければ人間にはできない。
2編3章14/結論:信仰と神との関係/
人が神を選ぶのではない。神が人の意志を回心へ向けさせ、
最後まで信じ続けるようにさせる。
- 信仰は神の価なしの憐れみによって与えられる。それは、人の徳や行いの報いとして与えるものではない
- 神は、人の意志に働きかけ、キリストを信じるように心を向けられる。それだけでなく、その人の心がキリストを固く信じ続けるようにされる。
- 人がキリストを信じ、信仰からくる困難に耐え抜くことは、神のささえなしにはできないことである。
このように人間に残っている「自由意志」(そう呼んでみたいならば)というものは、恩寵によってでなければ、神に向くこともできず、神の内にとどまることもできないような弱いものにすぎない。
人がキリストを信じ、困難に耐えることは、みな神にささえられてなしていることなのである。