神の栄光を守らなければならない
- 自分の持っている知恵、富、力を自分の者として誇る権利はない。
それは神が与えたものである。もし自分のものとして誇るなら、それは神の栄光をそこなうことである。主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのこと を喜ぶからだ。エレミヤ9:23,24
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたので す。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。1コリント1:26-31
自己の栄光を誇る者は、神の栄光を奪う
- 自己の誇りを捨て去らなければ、主にあって誇ることはできない。
- 神は、われわれが主のみに栄光を帰することを望んでおられる。
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。ローマ3:26それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。エペソ1:6
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中 に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。1ペテロ2:9
自己に義を考える限り、良心に安らぎはない。救いの確信はない
- 与えられる義が、確個としたものでなければ、私たちは救いの確信をもつことができないし、
心に安らぎをもつことはできない。 - 義を得ることにおいて、少しでも行いに頼るならば、平安をもつことはできない。
行ないによって義を得ると考える者は、義を得たと安心することができない。
行ないによって神の義を十分満足させる者はいないからだ。
死ぬ瞬間まで、救われているかどうか不安であることになる。
もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
ローマ4:14
義とされることは信仰による、行いはいっさい関係ない
- 義とされることは信仰による。神のあわれみにすがる者に、神がまことをもって約束を実現される。
そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。1コリント2:5 - 人を義とすることは、神が誓って約束したことである。信仰によって救われることを疑ってはならない。
そのことに確信をもたなければならない。 - 義とすることは、人にはできないが神にはできる
人を救う事は人間にはできない。しかし神にはできる。これがわれわれの唯一の慰め、希望である。
弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」マタイ19:25,26
信仰による義認は価なしに、ただ受け取るもの
- われわれは価なしに義とされる。われわれの行いによって義を得ることはできない。
ただ神の恵みによりキリストから義を受け取るのである。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:5
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお 遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。ローマ8:1-3
信仰者はキリストのからだにつがれて、価なしに義と認められる以外には、天国の世継ぎの希望をもつ権利がないことを確信するという道である。なぜなら、義認に関しては、信仰は全く受動的なものであって、われわれは自己のもつ何ものによっても神の恵みを得ることはできず、ただキリストから、われわれにないものを受け取るだけなのである。