第1コリント5章 神が禁じる行いを続ける信者をゆるすことが愛ではない。彼らを説得し、応じないときは処罰を行いなさい。処罰は「彼らの回心を願う」本当の愛からなされるのです。

 教会の不品行な信者を処罰しなさい

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。

コリント教会に不品行を続ける信者たちがいた。1
父の妻(実母ではなく義理の母)や父の愛人と、父が生きている間に性的関係をもつ者、または、父の死後、父の妻や愛人と性関係を持つ者がいた。(結婚したとは限らない)これはレビ記が18章7節。20章11節などで禁止している行為です。
当時の異邦人の社会でもこれらのことは、現実はともかく、たてまえとしては禁止されるべき行為でした。(異邦人の中にもない不品行)

5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。

教会は、不品行を犯す者たちを寛容に見守り、処罰を与えなかった。
教会は、自分たちの寛容さ、罪びとへの愛を誇っていた。2
しかしコリントの教会は不品行を取り除く努力をすることがありませんでした。それどころか、彼らを受け入れている自分たちの愛を誇っていました。

「キリスト者の自由」を間違って理解して不品行に走っていった人たち
罪を犯していた信者は「信者に与えられた自由」について誤った考え方をしていました。彼らは、「自分たちは律法によって罪に定められなくなった。律法に違反したとしても天国は保障された。だから、肉体において、いかなる罪を犯しても、自分の魂の運命に影響を及ぼすことはない。」と考えました。ですから彼らは、快楽を最大限楽しもうとしたのです。しかし、この考えは間違っていました。
パウロは、6章の12節以降にも、このような考えで、律法に違反する者たちに警告を与えています。

5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばき ました。
5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。 

教会が信者の罪をさばくことの必要性。3―5
パウロは、間違った福音理解から生じる罪を罪に定めず見逃すことはしません。
彼は、不品行を続ける信者に対して、厳しい処罰を下しています。

教会役員、信徒が集まってそのことについて話し合い、彼らを主キリストの権威のもとにさばくことを勧めています。
ただし、このさばきは、民主主義でなされているような教会員全員の多数決で決められるのではありません。このような方法では、信仰を誤って理解する人の意見が影響してしまうことになるからです。

そうではなくて、正しく信仰を理解する者たちだけが集まって、聖書の教えに照らし合わせて、その罪について判別します。そして、罪を犯す者に対して、彼らが罪を犯していることを知らせ、その罪から離れるように説得します。
しかし、教会の説得にも応じない場合はどうなるのでしょうか。

教会の交わりから追い出す。(最終的な処罰)5
サタンに引き渡すと言っています。これは、教会はもはや彼らに関わることを止めて、彼らを自由にさせるという意味です。彼らは、教会の群れから追い出されることになります。共に礼拝することを許さない。教会は、彼らをキリスト者と認めないということです。

しかしこの処罰は、彼らの霊が最終的には救われることを願ってのことであることを忘れてはいけません。5
彼らは教会から切り離され、世の中にどっぷりと浸りきって、自分の好むままを存分に行うことでしょう。もはやうるさく忠告する人はいませんので、全く自由に振る舞うことができるからです。

しかし、彼らは必ず自分が犯した罪の刈り取りをすることになるでしょう。罪の代償は遅かれ早かれ必ず刈り取らなければならないものだからです。その時に、彼らが、心から自分の罪を悔い改めることができれば、彼らの霊は主の日に救われることになるのだというのです。

もはや教会の忠告を受け入れることができないのであれば、自分自身で罪の恐ろしさを知って、自ら回心するしか方法はありません。
彼らを群れから追い出すという教会の処罰は、彼らの罪を明らかにしてさばくためだけではなく、彼らが将来、本当に悔い改めて、神に立ち戻ることを願っての対処であることを知る必要があります。ですから、教会はこのことを避けて、罪を犯す者たちに対して、自分たちの寛容な愛を示しているだけではいけないのです。パウロはこのような行為を「彼らの高慢」と呼んで批判しています。

5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。

コリント教会の「罪人への愛」と称する寛容は、信仰の高慢である。6
罪を野放しにすることは、教会全体に影響することを知りなさい。
コリント教会は、不品行の問題を小さなこととして放置していました。当時のコリントの慣習からして、それほど大きな問題であるとは思わなかったからでしょう。その当時、複数の妻を持つことは普通に行われており、愛人は必要と考えられ、自由な性的関係が社会で容認されていたからです。

しかしパウロは、当時の常識によって不品行をゆるすコリント教会を責めます。
神のおきてに反する行為が「パン種」だからです。
教会は、回心する前の価値観、習慣による生き方を捨てて、神の定めに従って生きる者とされた群れだからです。

パン種はパン全体を膨らませます。パン種自体は小さなものですが、その影響力は絶大です。パン種は堅かったパンを変質させて柔らかくし、食べやすくおいしくします。しかし、パン種の入ったパンは腐りやすく保存がききません。

わずかなパン種、つまりキリスト者の自由についての「誤った理解と実践」が、教会全体に影響を及ぼしていくことを忘れてはいけません。だからこそ、どのように小さなパン種もその影響が及ばないうちに、取り除く必要があるのです。

5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

福音を正しく理解し、不品行をさけなさい。神に喜ばれる礼拝をささげる群れになりなさい。
救われる以前からの罪の生き方を止めなさい。
純粋な信仰を保ち続けるために(新しい粉のかたまりでいるため)、「パン種」である「救われる以前の価値観による罪の生き方」を止めなさいと言われています。パウロはその理由を、彼らが神から与えられた恵みの立ち場に立って説明します。

なぜなら、キリストがあなたのために死んでくださり、あなたの罪はゆるされたから。7
その理由とは、信者は、キリストが死んでくださったことによって罪を赦され、神の怒りが過ぎ越す者とされた人だからです。(過ぎ越しの子羊キリストがすでにほふられたから)あなたがたは自分たちに与えられた「恵みの立ち場」に応答して生きなければならないからです。

罪がゆるされた「恵みの立場」が与えられたからこそ、恵みを与えてくださった神に、忠実に生きなさい。
罪を裁かれない者という立場を与えられたからこそ、間違った考えやそこから生じる罪の行いを自分たちの中から取り除かなければなりません。信じてからも、回心前の価値観に従って罪を犯し続ける人たちに忠告を与え、忠告を無視する人は、教会の交わりから断つことが必要だと言われています。教会は、不品行のない(パン種のない)真実で純粋な信仰を保つ責任があるからです。

教会内部の人をさばくことが、教会の務めである

5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者が いたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

信者と告白する者で、福音に反した生き方を続ける人とは、交際をしないようにしなさい。9-11
前の手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きましたが、9
それは、未信者であって、不品行な者、欲望が果てしない者(貪欲)、他人の持ち物を律法に違反する方法を用いてでも奪う者(略奪)、主ではない神々を拝む者(偶像礼拝)たちと交際してはならないという意味ではありません。10
兄弟と呼ばれる者、つまり信者と告白する者であって、不品行、貪欲、偶像礼拝、人をそしる、酒に酔う、略奪する者がいたならば、そのような者とはつきあってはいけない、食事をいっしょにしてもいけないということです。11

教会内部の人をさばくことこそ教会の務め。12
未信者をさばくことは、教会の仕事ではありません。兄弟と呼ばれる人、つまりクリスチャンとして一緒に礼拝をしている人をさばくことこそ、教会がしなければならないことです。
彼らを愛すると称して、彼らの罪を責めず、自分たちの寛容を誇ってはならないのです。

未信者たちのことは神がおさばきになる。13
あなたがたは、教会の中にいる不品行な信者たちを除きなさい。
寛容に彼らを受け入れるのではなく、彼らを教会の群れから除くことを行いなさい。

<1コリント5章 考察>

考察1 教会にいる信者の悪を野放しにしてはならない。「神に不従順な信徒たちをゆるす自分たちの愛」を誇ってはならない。

自分の不完全さを思うなら、他の信者さばく権利がないと思う。
コリント教会は、彼らの罪を寛容に見守る「自分たちの愛」を誇っていた。

自分のことを考えれば、他者をさばく資格がないと思うのではないでしょうか。
コリント教会は、罪を犯す人に対して寛容にあつかい、彼らをも愛する自分たちの愛ある信仰を誇っていました。

しかし、罪を放置すれば群れ全体が汚される。教会は、罪を犯す人の間違った理解を正し、神に喜ばれる生き方ができるように導かなければならない。

しかし、教会で罪が放置されれば、それが群れ全体に影響していくことをパウロは警告しています。
コリント教会の不品行は、神から与えられた「罪ゆるされた自由」を誤って理解した結果でした。そのように、信者の誤った行いの原因は、福音についての誤解にあります。
教会責任は、彼らが誤解していることを教え、正しい行いに導かなけれ

罪を大目に見る「寛容さ」は、本当の愛ではない。

神に従わない信徒たちの罪を寛容に見守ることが「愛」ではありません。
教会の責任は、彼らの信仰理解が間違っていることを悟らせ、正しい理解を教え、その結果として神に喜ばれる行いができるように導くことです。
このことが、罪を犯している人に対しての、本当の愛の示し方だとパウロは語っています。なぜなら、そのまま放置されるなら、その人は永遠に滅ぼされるからです。

考察2 教会の説得に対して決して応じない場合は、教会との交わりを断つこともある。これは、彼らの魂が救われることを願っての、最終手段であることを覚えておく必要がある。

どうしても説得に応じない場合は、断固とした処罰が必要になるかもしれません。しかし、厳しい処罰を行うのは、愛がないのではなく、その根底に、彼らの悔い改めを願う思いがあることを忘れてはいけません。

彼らを寛容に見守ること、忠告しないで、ただ祈ることが愛ではありません。

罪を犯し続ける人の永遠の運命を考えたとき、彼らに本当に必要なことは、心からの悔い改めです。教会の説得によってそれが無理である場合には、自分の思うままに罪を犯させ、罪の刈り取りをさせて、悟らせるしかもはや方法はありません。ですから、最終的には教会の交わりから出すのです。このことが、罪を犯す人に対しての本当の愛であると、聖書は語っています。

考察3 信者と告白する者であって、罪を犯し続ける人との親密な交際はさけなければならない。

パウロが、「信じても不品行を続ける人と交際しないように」と言った意味は、誤って信じる人たちから、影響を受けないようにするためです。

食事を共にするということは親しくするという意味で、彼らと親しく交際しているうちに、自分も彼らに共感して、同じように信じ、行うようになる恐れがあるからです。教会から追い出された人を擁護して、教会のさばきが間違っていると言い出すようになるからです。

考察4 未信者の罪をさばくのは神の権利。信者は、内部の人の罪をさばく責任がある。

 未信者の罪をさばくのは神のなさること。

未信者は、罪は神がさばかれます。未信者たちは、思うままに罪を犯していますが、彼らの中は、この世で罪に定められない者たちが大勢います。それは、彼らが死後、神にさばかれるためです。ですから、キリスト者には、彼らを処罰する権利は与えられていません。未信者については、神におまかせすることが、信者のなすべきことです。

信者(教会)は、内部の人の罪を止めさせる責任がある。

教会は、信者の不品行こそさばかなければなりません。教会内部に不正があっても黙認し、偽りの愛や偽善で装って、自分たちは愛のあるすばらしい群れだと、コリント教会のように誇っているようではいけないのです。

考察4 恵みの立場をあなどってはならない。
救いが与えられたことに安心して罪を犯すのではなく、神の恵み応答して聖い生き方をしなければならない。

 自分たちに与えられた「恵みの立場」を思い出せ。

パウロはコリントの信者たちに与えられた「恵み」を思い起こさせました。
信者たちへの神の怒りを過ぎ越すために、キリストが十字架で殺され、エジプトにおいて過ぎ越しの夜に門柱に塗られた子羊の血が象徴するキリストの尊い血が、あなたがたの罪のゆるしのために、すでに流されたのだと宣言します。
あなた方は、キリストの尊い犠牲の血にあずかる者とされており、神の怒りが過ぎ越されたという「恵みの立場」を与えられているのだと言います。

「与えられえた恵み」に応答して生きなければならない。

その上で、だからこそあなたがたは自分たちが新しい粉の塊でいるために、つまり純粋な信仰者の集まりとしてとどまるために、古いパン種(悪意や不正、不品行、間違った教え)を群れの中から取り除きなさいと迫ります。
神から恵みの立場を与えられた者だからこそ、神の恵みに答えて、不純なものを取り除く努力をするのです。

「神から与えられた恵みに答えて生きよ」とパウロは力強く迫ります。
罪を赦された者だからこそ、罪を野放しにせずに取り除く努力をすることが求められています。「これこそがあなたがたが神から与えられた素晴らしい恵みに応答する生き方です」とコリント教会に迫ります。

考察5 教会を「パン種」のない群れとして保つにはどうすればいいのか。
新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。

あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過ぎ越しの子羊キリストが、すでにほふられたからです。第1コリント5章7 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。第2コリント5章17節 

「パン種」のない群れでいるためには、各人が救われる以前の古い価値観や生き方は捨てなければならない。キリストから与えられた新しい心にしたがって、新しい生き方をしなければならない。

教会は、純粋な信仰を保ちなさいとパウロは忠告しています。

あなたがたが救われる以前に持っていた価値観、生き方、神礼拝は、全て取り除きなさい。それが「パン種」です。それが教会を腐敗させます。
主キリストから教えらえたものを保っていなさいと言います。

教会および信者は、与えられた「恵み」を純粋に保つ使命が与えられえていることを知らなければならない。そして、このことを真剣に実行しなければならない。

与えられた恵みの福音の純粋性を保つこと。純粋な福音を守るために戦うことは、恵みの立場を与えられた者たちの成すべき務めです。

教会で意見が分かれたとき、会衆の全員の多数決で決めるのではない。
教会会議は、正しく信じる人が集まって、聖書に照らして良し悪しを判断する。
そして、会議の結果を全会衆に知らせて実行させる。これが、パウロが教会に指示した方法である。

多数決で、事の是非を決める教会があると聞いています。
しかし、教会では、多数決によって事が決められてはいけません。
なぜなら教会に集うすべての人が、正しく信じているとは限らないからです。
クリスチャンと自称しながら、救われていない人もいる場合があります。
多数決によるなら、このような人たちによって判断がゆがめられることも想定されるからです。

教会では、ある事が正しいかどうかの判断は、神の基準に照らして決定されます。そして、その是非を決める基準は聖書のみです。ですから、賛成する人の数に関係なく、正しく聖書を理解し、実践する人が集まって、聖書に従って是非の判別がなされなければなりません。このようにしてなされた決定は、キリストの権威を帯びていることを、会衆は尊重しなければなりません。

教会は、罪びとの集まりであり、理想的にいかない場合も多くありますが、これが、聖書が教会に示す方法であり、私たちはパウロが勧める方法に従って教会が「パン種のない群れ」であるように保つ責任を果たす努力をなまけてはいけないのです。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?