使徒としての立場を主張するパウロ 1-2
9:1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。
9:2 たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。
9:3 私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。
1.パウロが使徒であることを疑う人がいた。
彼は、他の使徒たちのように報酬を受けなかったので、正当性を疑われた。
- パウロが使徒であることの証拠。
私はキリストを見た。
復活の主を目撃したことが使徒としてのしるしである。 - コリント教会が生み出された。
当時、パウロへの批判が激しかったのでしょう。しかし、コリントの信者たちは、彼の伝道によって生み出されました。彼らの存在が、自分が使徒であることの証拠だとパウロは言っています。なぜなら神は、罪の働きを助けることはないからです。パウロの働きに実りがあるという事実こそ、彼が正真正銘の使徒であることの確かな証拠です。
2.使徒とは、イエスに会い、イエスから直接教えられた人のこと。
キリストによって直接選ばれ、福音を伝えるために神にから使命を与えられた人。
彼らは、キリストが生きていた時に行動を共にした人。復活のイエスから直接教えられた人。
3.使徒としての権能=神の代理人としての役割
使徒であるこということは、特別な意味があります。
使徒は直接キリストによって宣教の働きに召され、キリスト教会に関する全権をキリストからまかされた人です。使徒は神の代理人です。ですから、使徒の教えは神の教えということになります。
4.11弟子が使徒であることを疑う人はいなかった。
使徒とは、キリストと行動を共にし、復活の主の目撃者である11弟子です。
彼らを使徒ではないと疑う人はいませんした。
5.パウロについては、疑う者たちがいた。
なぜなら、パウロはキリストの生存中は弟子ではありませんでしたので、生きていた時のキリストからは教えを受けていなかったからです。しかし、パウロは自分の使徒としての立場を力強く主張しました。なぜなら、彼は復活の主から直接教えられ、宣教の働きをまかされたからです。
6.パウロは教会に当てた書簡の始めに、自分が使徒であることを宣言した。
諸教会に送った手紙の書き始めで、パウロは、自分が使徒であることを宣言しています。以下はパウロが自分を使徒として証言している聖書の箇所です。
- 「自分が述べ伝えた福音は、人間からは受けなかったし、また教えられなかった。ただイエス・キリストの啓示によって受けた」(ガラテヤ1:11-12)
- 「生まれたときから神に選び分けられた者で、神の恵みにより福音宣教の働きに召された。異邦人に宣教するために、神が私の内に御子を啓示された。」(ガラテヤ1:15-16)
6.パウロが使徒であるか、使徒でないかは重要な問題。
パウロが使徒であるならば、コリント教会は彼のことばを神からのメッセージとして重く受け止めなければなりません。パウロの助言に従わないことは、神に逆らうことになるからです。しかし、パウロが使徒でなければ、彼の言葉に服従しなくても問題はないことになります。
働き人が報酬を受けることは当然の権利
しかしパウロは、あえて受けなかった
それは福音にさまたげを与えないためだった
9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
9:5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。
9:7 いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を 飲まない者がいるでしょうか。
9:8 私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。
9:9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょう か。
9:10 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。
9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。
使徒として、受けて当然の権利がある。4-6(使徒としての権利)
- 教会の支援を受けて生活する権利(飲み食いする権利)
- 結婚する権利(信者である妻を連れて歩く)
- 教会の働きに専念する権利(生活のための働きを止める権利)
パウロ自身、これら使徒としての権利を持っていることを主張しています。
働き人が教会から報酬を受けることは当然の権利。パウロも認めている。7-11、13-14
- 兵士:国が必要な経費を払ってくれる。自分のお金で兵士なる者はいない。
- ブドウ園の主人:自分のブドウ園で得たブドウを食べる権利がある。
- 羊飼い:自分が養う羊の乳を飲んでいい権利がある。
- 耕す者、脱穀する者:自分が働いた畑からの収穫を得ることを期待するのは当然のこと。
- 脱穀する者:収穫の分け前をもらうことを期待するのは当然のこと。
上記のようであるなら、使徒が、教会を霊的に養った(御霊のものを蒔いた)ことにより、教会から物質的なもの(金銭や捧げもの)を受け取ることは当然の権利です。11宮に仕えている者は、祭壇のものをいただける。同じように、主も福音を伝える者が、福音の働きから生活の為の報酬を得るようにと定めておられる。
パウロは使徒としての権利を誰よりも要求できた
しかし、その権利を用いないで、無報酬で働いた
12-17
9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちは この権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとし てなのです。
9:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。
9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
1.報酬を受けずに働いた理由は、彼が語る「福音」時、を聞く人たちにさまたげを与えないためだった。12
コリント教会に関わった他の教師たちは、この権利にあずかっていました。
彼らは、教会から報酬を受けていました。
そうであれば、パウロは、なおさらのことその権利を用いても良いはずです。なぜなら、パウロの伝道で、コリント教会が誕生したからです。パウロはコリント教会の霊の親です。
しかし、パウロは自分のもっている権利(教会から報酬を受ける権利)を用いませんでした。それは、彼が「福音」を語るとき、聞く人たちに少しもさまたげを与えないためでした。彼が自分の利得のために語っているのではなく、純粋に聞く人たちの益のために語っていることを理解してもらうためでした。
2.しかし、これは決して楽な生き方ではなかった。12
使徒としての権利を用いず、教会からの報酬を受けないで働くことは、決して楽ではありませんでした。自分の暮らしを支えるために働きながら、伝道しなければならないからです。事実パウロは「すべてのことにおいて耐え忍んでいる」と告白しています。
3.しかし、教会から報酬を受けずに働くことがパウロの誇りだった。15
報酬を与えられて当然の立場にありながら、無報酬で福音宣教の働きをすることができること、このことをパウロは報酬だと言います。パウロは、この権利を行使することを誇りとしています。「この権利が奪われるくらいなら、死んだほうがましだ」とまで言っています。
宣教の働きは、パウロの誇れることではない
彼は神に強制されて働いているから
しかし神は、無報酬で働く特権(報酬)を彼に与えてくれた
16-18
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。
1.パウロは、神から宣教使命を強制的与えられた。宣教は彼が果たさなければならない義務だった。それをしなければ罰が与えられた。
パウロにとって、福音を述べ伝えることは、どうしてもしなければならないことでした。
宣教は、神がパウロに課した義務だったからです。
神の命令に従わなければ、彼に罰が下されるのです。ですから、パウロは「福音を宣べ伝えないなら、わざわいに会います。」と言っています。
2.旧約時代の預言者たちも同様であった。神は彼らに使命を与えた。
もし、彼らが神の命令に背いたら、彼らは殺された。
これは、旧約時代の預言者たちが、神の命令に従わなかったとき、神から刑罰を受けたことと同じです。
つまり、パウロには神から福音宣教という使命が与えられ、彼がこの務めを忠実に果たさないなら、彼自身が神によってさばかれるという立場に置かれていたのです。
3.宣教は選択の余地が与えられない彼の義務。だから、その成果を誇ることはできない。宣教は全く神の熱心による神のわざ。自分は強制されて用いられたにすぎない。宣教の成果の全てを神に感謝しなければならない。
ですから、福音を述べ伝えることは、彼の誇りにはなりません。なぜなら、この務めは、彼が望んで始めたことではないからです。
神の計画にもとづいて、神から宣教の命令が彼に下り、宣教師としての立場が与えられ、行っていることだからです。宣教は彼がしなければいけないことで、宣教するかしないかの選択をする権利は、彼にはないからです。ですからパウロは、自分の働きを誇ることはできません。それらは神の働き、神の熱心の結果だからです。
4.パウロに委ねられた使命は、やりたい、やりたくないなどの人間の意志を超えて与えられた。それは、絶対に果たさなければならない仕事だった。17
パウロには、宣教の使命が与えられていました。この使命は、やりたいとか、やりたくないなどの、パウロの個人的感情が入ることを一切ゆるさない、絶対に果たさなければならない使命でした。彼には選択の自由は与えられていませんでした。
5.パウロの受ける報いは、無報酬で福音宣教が出来ること。18
聞く人に、少しもさまたげを与えないで伝道できること。
福音を述べ伝える義務が与えられ、神に強いられて務めを果たしているパウロに、いったいどのような報いがあるのでしょうか。
それは、福音宣教において報酬を求めないで述べ伝え、パウロが当然持っている使徒としての権利を十分に用いないという報いです。
つまり、宣教において、福音に少しでもさまたげを与えることなく述べ伝えることが出来るという特権です。
パウロは、人の救いのために、どのように対応したか
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある 者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは 律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためで す。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
キリスト者としての自由を持つパウロだが、その自由は他者の益のために配慮して実行した。
パウロは救われて、律法や偶像、迷信、異邦人への偏見などから解放されました。それらには、もはや束縛されない自由をもっています。
しかし、彼は多くの人々を救いへと導くために、伝道の対象がどのような人かに応じて、彼の信仰に反しない限り柔軟に対応しました。つまり、自分の持つ自由を、他者の信仰の益となるために、時には制限し、また時には柔軟に用いたのです。
1.ユダヤ人にはユダヤ人のようになった
パウロは、タルソ出身のユダヤ人です。
ユダヤ人であってキリストを信じる者として、自分の同胞であるユダヤ人たちに伝道しました。
2.律法の下にある者には律法の下にある者のようになった。
パウロは律法の束縛から解放されました。この自由は決して妥協できないものです。しかし、律法によって救いを得ようとするユダヤ人たちに伝道するとき、福音の中心的な真理が守られている限りにおいて、彼も「律法の儀式」を行うという柔軟な態度をとっています。その例が次のようなものです。
- ギリシャ人のテモテに割礼を受けさせる
(エルサレムのユダヤ人たちにパウロを信頼させるため)使徒16:3 - 諸教会からのささげものを持ってエルサレムに入ったとき、
誓願を立て、エルサレムの神殿で頭を剃り、身を清めて宮に入った。
(ユダヤ人たちに律法を守って正しく歩んでいることを示すため)使徒21:23-26
3.律法を持たない人(異邦人)には異邦人のようになった
福音の真理を保った上で、どうでもいいことに関しては、柔軟な態度をもって対処しました。パウロは、彼らと同席し、彼らの食べる肉を食べました。
- パウロは、異邦人から離れて食事をするペテロをしかった。
4.弱い人々には、弱い者のようになった。
(偶像の力を全く否定できていない信仰の弱い人)
偶像の力を恐れて、偶像にささげられた肉を食べることができない人の前では、いっさい肉を食べなかった。
救われた後も、偶像ののろいを恐れるキリスト者たちの弱い良心を傷つけないために、パウロは彼らと同じようにしました。
彼らの前では肉を食べませんでした。それは、彼らに偶像と関わる機会を与えないため、彼らに罪を犯させないためでした。パウロは、他の信者の信仰の益のために自分の自由を制限しました。
すべてのことを福音のためにしているパウロ。23
パウロは、自分は完成した、すべてを得たなどとは思っていませんでした。
彼自身未完成であり、完成を目指して前進し続けていたのです。
自らの務めを全うするために、天での栄冠を得るために、自分を強いて神に従わせ、戦い続けているのだと告白しています。
空を撃つような働きをしないように
神から栄冠を受けられる働きをしなさい
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするので す。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです
賞を受けられるように、焦点の会った戦いをすることを勧める。24-26
キリスト者の歩みを競技にたとえて説明する。
1.神から賞を受けられるように走りなさい。
天において神からの賞賛が与えられるように働くことが重要です。私たちが生きている時間には限りがあります。
ですから、自分たちの限られた力と時間を有効に活用して、人を地獄に引き入れようとするサタンと戦わなければなりません。
2.冠を受けるためにあらゆることにおいて自制するように。
競技者ですら、朽ちる冠を得るために、あらゆることにおいて自制するのであれば、なおさらクリスチャンは、価値のある朽ちない冠を受けるために、自制できるはずです。パウロがしたように、他者の信仰の益のために、自分の当然の権利を犠牲にすることができるはずです。
3.確実に敵(サタン)を打つ戦いをするように。空を打つような無駄な戦いはしないように。
敵に対して確実にダメージを与えるような霊的戦いをしていくことです。
それには、私たちが何を撃退する必要があるのかを知り、そのために、どのように戦えば良いのかを知る必要があります。これを見誤ると、自分たちの時間や労力を浪費するだけで、サタンに対して何の打撃も加えることができない、無駄な戦闘に明け暮れてしまうことになります。
4.自己を神に従わせて、御心を実行していくように。
与えられた使命に自己を従わせることが大切です。
述べ伝えながら、自分自身が失格者とならないためです。
<1コリント9章 考察>
考察1 「未信者の救い」「救われた人の益」のために生きたパウロ。
これが、宣教をゆだねられた人の生き方。
異邦人に効果的に伝道するために、自分の権利を放棄した。
これは、聞く人たちに、彼が自分の利益のためにキリスト教を広めていると思わせないためです。彼が、伝道しているのは、純粋に聞く人たちの益のためであることを知らせるためでした。
異邦人の未信者に効果的に伝道するために、あえて報酬を受ける権利を放棄しました。
救われた信者たちのために、自分の自由を制限した。
パウロは、偶像に慣れ親しんで来た初信の信者たちの良心を悩ませないために、彼らとの食事では肉を食べませんでした。また、異邦人とは、同席して彼らが食べる物を何でも食べました。
このように、私たちは、キリスト信仰から与えられる自由を、状況に応じて、知恵を用いて、適応していくことが必要です。時には、兄弟姉妹の信仰の益のために、あえて自分の自由を制限する配慮必要だと言うことです。
特に、自分の軽々しい行為が、未信者たちが他のキリスト者たちを偶像礼拝に誘う理由を与える危険があるときは、注意する必要があります。
自分はキリストの体の一部。他の肢体(兄弟姉妹)とつながっている。だから、自分の偶像への対応が、他の信者の霊の戦いを困難にさせてはならない。
自分はキリストの肢体であり、未信者は自分を見てキリスト者を理解していることを知るべきです。自分は、他のキリスト者と1つ体なのです。自分が未信者の前で行ったことによって、他の信者の信仰の戦いが、さらに困難になることがありえるのです。このことを覚えて偶像への対応をしていくことが必要です。
考察2 これからの日本は、自活伝道(部分的でも)も視野に入れて、牧会に入るのが良いのではないかと考える。
日本の教会は、どこも超高齢化、子どもが極端に少ない。
日本のクリスチャン人口は、世界でも最低ランクです。
事実、どの教会も、高齢化が進んでいます。中心的な信徒の年齢層は70代後半から80代ではないでしょうか。そしてどの教会も子供が極端に少ないのです。このままでは、10年後の日本の教会は、絶滅の危機を迎えるのではないかと心配されます。
牧会に入る前から、自活の道を用意しておくことが良いと思う。
このような状況を見る時に、これからの牧師や伝道師を目指す人は、自営やパートタイムなどの仕事をしながら、牧会伝道することも採用していくべきではないかと思われます。
牧会を始める時点から、もしくは牧会に入る前から、仕事と牧会が両立できるライフスタイルを確立する、工夫と努力をしておくことは、知恵のあることだと考えます。
牧会に専念するスタイルは、これからの牧師、彼らの家族、また教会員たちに苦労を強いることになることが予想されるからです。
一番の問題は、教師が「正しい福音」を語っているかどうか。
教会の経済のために、福音が曲げられてはならないということ。
教会の経済を満たすために、福音を薄めて語り、非聖書的なミニストリィーを取り入れて教会員を集めるなら、神の怒りを受けます。教会の運営に責任を持つ人は、このことを自覚しておく必要があります。福音をゆがめて信徒を集めるくらいなら、自分たちも働いて、純粋な福音を語るほうが良いと考えます。
考察3 今の時代に預言者はいない。彼らにだまされてはならない。
神からの言葉は、聖書に書かれている。聖書から教えられよ。
預言とは、人が神のことばをあずかって語ることです。
旧約の預言者たち、パウロなどもそのような人です。
しかし、聖書がすでに完成した現在、神は聖書によって預言を与えています。聖書がまだ完成していない頃のように、神が人間に見えたり聞こえたりすることによって、ご自身が直接人間に語りかけることは終わっています。
誰も、「これが神のことばです」と語ることはできません。
ですから、現代の預言者と自称する人たちは「にせ預言者」です。
彼らは自分の利得のために神を利用する人たちで、欲の強い人たちです。
その証拠に、このような人たちの中に、贅沢な暮らしぶりや、金銭の不正、女性問題が発覚して転落していく人たちが多くいます。
私たちは、自分を預言者だと言う人たちを警戒しなければなりません。その人たちの言葉を神の言葉として受け取ってはいけません。彼らはにせ使徒、にせ預言者だからです。
考察4 空を撃つような健闘ではなく、神に喜ばれる、効果的な宣教をするために、私たちはどうすればいいか。
自分に与えられえた状況、能力を用いて伝道する。
無駄な健闘を避けることです。聖書は、福音宣教の前進のために効果的に自分の時間と労力を使ように勧めています。
自分の立場、自分に与えられている状況や能力を考え合わせ、どのような働きが自分に委ねられているかを神に問うことです。神はきっとあなたにふさわしい働きへと導いてくださいます。
敵はいったい何かを知り、効果的な方法を用いる。
ところで、私たちの宣教を妨げている敵(原因)は何か?
- 日本が戦争を犯した罪を十分悔い改めていないから。
- 多くの日本人が、教会で楽しんだ経験がないから。
- 神社や寺の霊力が宣教をさまたげているから。
- 仏壇や墓の世話などの先祖礼拝の責任があるから。
- リバイバルが来ていないから。
これらの原因を除くために教会でなされていることをあげてみた。
- クリスチャンたちは集まって、戦争で犯した罪のための「悔い改めの祈り」をする。私も参加したことがありました。
- 寺や神社に行って、そこに住む悪霊を追い出す祈りをする。
- 食事会や楽しい行事をたくさん企画して、外部の人に教会で楽しく過ごしてもらう。楽しく気持ちよく過ごすしてもらうことが目的なので、その際の説教は、罪やさばきの話しはしないで、励ましやなぐさめの話しだけをする。
- 信じないで死んだ人も救われているかもしれない。セカンドチャンス論を話す。キリストを信じさえすれば救われるとして、その人がもともと持っている宗教について、教会は関与しないし干渉しない。
- 日本にリバイバルが来ることを、神に叫び願う。
ところが、このような宣教が、無駄な健闘なのです。こんなことをいくらやってもサタンに何のダメージも与えることはできません。その証拠に、日本の教会が上記の努力をしてきたにもかかわらず、、クリスチャン人口は減少し続けています。サタンは無駄な健闘で疲れ果てているクリスチャンたちを見て微笑んでいることでしょう。
上記のことではないとすれば、
何が宣教をさまたげている本当の敵(原因)は何か。
それは、人間が生まれつき持つ「罪の心」です。
自分の人生に、絶対的な権威を働かせる「神」を認めたくない心です。
自分が自分の人生の主人でありたい心が、福音を信じることを不可能にしているのです。
生まれつき備わる自己中心の心を変えること、これが福音宣教です。
この目的を達成するためにどのように宣教していけばいいのかを考えるのです。
知恵を尽くし、力を尽くして効果的に伝道していく。
これがサタンの頭を打ち砕く効果的な戦い方です。
そのためには、「福音」を知らせることが、一番効果がある。
このことを、神は信者たちにゆだねておられる。
教会に人を集めるために工夫することは良いことです。
しかし、来てもらって楽しんでもらうだけではだめなのです。
その時に、はっきりと福音のメッセージが語られなければなりません。
彼らに自分の罪を知らせ、悔い改めの道を説く。これが神が教会にゆだめておられる使命です。
信者はみな、魂を勝ち取る働きに召されている。
互いに協力して、サタンに対して効果的な攻撃をしていくことができる。
しかし、このことを牧師1人に任せていてはいけません。1人1人の信徒にも宣教の働きがゆだねられているからです。信徒たちが協力して、サタンに対抗して宣教する。このことをサタンは一番恐れているのではないでしょうか。