第1テサロニケ2章「神に選ばれたテサロニケの人々、テサロニケでのパウロの牧会」

Ⅰテサロニケに対する確信

2:1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。

Ⅰ-1.テサロニケは神が産み出した教会である
パウロの宣教はテサロニケで大きな実を結びました。
宣教は強い迫害の中でなされました。
しかも、激しい迫害のために、パウロたちはテサロニケに長く滞在するとができませんでした。
(3週間くらい)
それにもかかわらず、テサロニケに模範となる教会が生まれたのです。
これは主がなさったことです。

テサロニケの信徒たちは主によって救いに選ばれていました。
主は、彼らを救うためにパウロを彼らに送ってm福音を語らせたのです。
その結果、パウロの宣教が無駄に終わることはなく、教会が誕生しました。
「テサロニケは主によって生み出された教会である」との確信を、パウロもテサロニケの人々も持っていました。(1)

Ⅱテサロニケでの伝道の様子

2:2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。
2:3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。

Ⅱ-1.私たちはテサロニケで大胆に福音を語った
ピリピで迫害に会い、捕えられ、むち打たれて後、釈放されたパウロはテサロニケに向かいました。ところがピリピからユダヤ人たちがやって来てテサロニケでもパウロたちを苦しめました。
しかしパウロたちは、激しい迫害の中にあっても、恐れることなく大胆に福音を伝えました。(2)
パウロが語った福音は、「だましごと」ではありません。自分たちが真理であると確信しているので、勧めたのです。また、パウロたちは、テサロニケから利益を得ようとして語ったのでもありません。(3)

2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
2:5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。

Ⅱ-2.人ではなく、神を喜ばせるために語った
伝道者は、神から宣教の務めを任された者です。
伝道者は、神の務めを忠実に果たさなければなりません。
神は人の心を見抜かれます。働き人の不純な動機を神は知っておられます。
パウロたちは、神に喜ばれる働きができるように願い伝道をしました。(4)
パウロは、金持ちや権威ある人を喜ばせて、彼から利益を得ようしたり(へつらい)、自分の欲望をかなえるために人を説得した(むさぼりの口実)ことはありませんでした。(5)

2:6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
2:7 それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
2:8 このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。

Ⅱ-3.威張らず、母が子を育てるように愛した
パウロたちは、使徒としての権威を主張して、威張ることはしませんでした。(6)、反対に、信徒たちの母であるかのように優しく接し、彼らの信仰を成長させるために努力しました。
信仰を持ったテサロニケの人々を守るために、自分の命を犠牲にしても良いとまで思ったのです。(8)

2:9 兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。

Ⅱ-4.あなた方に経済的な負担をかけなかった
パウロたちは、信徒たちから献金を受けませんでした。自分たちの生活は、自で働いて支えました。
これは、迫害に苦しむ信徒たちに経済的な負担を負わせて、彼らを苦しめないためです。

2:10 また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことは、あなたがたがあかしし、神もあかししてくださることです。

Ⅱ-5.責められることがない生活をした
パウロたちは、信徒の模範となるように振る舞いました。このことは、パウロだけが思いではなく、テサロニケの信徒たちも認めている事実です。(10)

2:11 また、ご承知のとおり、私たちは父がその子どもに対してするように、あなたがたひとりひとりに、
2:12 ご自身の御国と栄光とに召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

Ⅱ-6.父が子に対するように教えた
信徒たちに対して、母のように優しく接したパウロでしたが、父のように厳しく戒める一面も持っていました。
信徒が神に喜ばれない歩みをする時には、権威をもって教えました。
パウロは、ひとりひとりを導きました。彼らの過ちを戒め、悔い改めた者には慰めを与え、励ましました。(11,12)

テサロニケ人への賞賛の言葉

2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。

1.あなたがたの信仰を喜ぶ
テサロニケの人々は、パウロの伝えた福音を「神の言葉」であると受け入れました。福音を聞いた人々に神の恵みが注がれたからこそ、信じることができたのです。ですから、パウロはテサロニケでの宣教の成功を神に感謝しています。
そして、伝えられた「神のことば」は、信じた人の内に働いて、彼らの信仰を成長させ続けています。(13)

2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。

2.あなたがたは神の民に加えられた。
イエスも預言者たちも迫害を受けた。あなた方も彼らと同じ迫害を受けたのだ。
テサロニケの教会は、同国人からの迫害を受けることによって、「同国人であるユダヤ人から迫害を受けるユダヤの諸教会と並ぶものになった」とパウロは言います。
つまり、テサロニケが受ける苦しみは「誇り」であるのです。
ユダヤの教会を迫害したのは、律法に熱心なユダヤ人たちでした。
テサロニケの教会を迫害しているのも、ユダヤ人たちです。(15)
神に従わないユダヤ人たちは、旧約の預言者を殺し、イエスを十字架につけました。
今は、異邦人たちが救われないように働きかけています。彼らの罪は重いです。
彼らは神の厳しいさばきを受けます。(16)

2:17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので、――といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、――なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。

3.テサロニケを訪問しようとしたが妨害された
パウロはテサロニケに行こうと2度試みましたが、2度とも反対者たちに妨害されて行くことができませんでした。

2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

4.あなたがたこそ私たちの誉れ喜びである
パウロはテサロニケの人々に与えられた信仰を喜んでいます。
主イエスが再臨され神の国が実現する時、テサロニケの人々を主の前で誇ることができると、彼らを高く評価しています。

<第1テサロニケ2章 考察>

 

Ⅰテサロニケ教会の誕生から宣教の仕方を知る  1-4より

Ⅰ-1.宣教は神のわざ 神の導きを第一として宣教すること

宣教は「神のわざ」です。
人間は神の計画を実現するために、神によって動かされている器に過ぎません。
パウロのテサロニケでの宣教を見る時に、このことが良く分かります。

パウロはアジヤに向かおうとしていましたが、夢によってマケドニヤに行くようにと啓示を受けました。
ところが、マケドニヤは迫害の激しい地でした。
パウロは長く滞在することが出来ず、弟子たちに後を任せてアテネに逃れました。
このような困難な状況にありながらも、テサロニケの人々はキリストを信じ、教会が形成されたのです。
しかも、彼らはその地方の模範となるような信仰を持つまでに成長しました。

テサロニケ教会の誕生を調べる時、人間の計画によるのではなく、神の導きによってなされる宣教が、良い結果を生じさせることがわかります。
ですから私たちは、神の導きと計画を知ることを第一として、宣教を進めなければなりません。そうするなら、神は伝道者をご自身の選びの民に遣わされます。その結果、私たちが予想もしなかった霊的祝福を得ることができます。
救われると思えなかった人が救われたり、家族の反対に会いながらも固く信じる人が起されたりするのです。

Ⅰ-2.反対者に会っても大胆に福音を語ること

神の導きによって、宣教することは重要です。
しかし、導かれた場で福音を語る時、福音が大胆に語られなければ救われる人は起されません。
人は福音を聞くことなしに救われることはないからです。

伝道者の使命は、たとえ反対者がいたとしても、福音をあますところなく伝えることです。
自分の命を左右できる権力者がいる前であっても、彼らを恐れてはいけません。
人を喜ばせようとする宣教は「わらの仕事」です。
そのような宣教からは本当の信者は生まれません。

先人たちを見てください。バプテスマのヨハネ、旧約の預言者たち、ルター、カルバン、スポルジョン、彼らは人の機嫌を損ねることを恐れず、大胆に真理を語りました。彼らは常に命の危険と隣り合わせでしたが、それによって働きを止めることはありませんでした。

彼らがいてくれたおかげで、私たちは福音を知ることができ救われることができています。
ですから、宣教においては、どのような時にも福音を曲げることなく大胆に語ることが必要です。

Ⅱパウロの信者への接し方から、牧会の在り方を学ぶことができる

Ⅱ-1.パウロは母のように優しく、父のように厳しく接した

パウロは使徒としての権威を主張して信者を自分の奴隷のように扱うことはありませんでした。
むしろ、母のように優しく接し、彼らの成長を助けました。(7)
しかし、信者が道を外した時には、父のように厳しく戒め、立ち帰るように勧めました。
また、彼の助言により悔い改めた者を慰めました。(11,12)
パウロは信者1人1人について良く知っていて、これらのことを行いました。

Ⅱ-2.牧会者は「母なる面」と「父なる面」の両方を合わせ持つ必要がある

私たちは、パウロのテサロニケ教会での振る舞いから牧会の在り方について多くを学ぶことができます。
彼がしたように、母の優しさと父の厳しさを持って牧会することが重要であることを教えられます。

「母の優しさ」とは、信徒の成長のために、忍耐を持って接し、時には自らが犠牲を払うことであると言えます。
「父の厳しさ」とは、信仰において誤りは赦さないことだと言えます。
つまり、信仰から外れた者を戒め教えることです。
「父のように」とはまた、悔い改めた者を慰めて群れに戻すことでもあります。その際、権威をもって他の信者を説得し、悔い改めた者と和解させることです。

このように「優しさ」と「厳しさ」の両面を持って牧会することによって、健全な教会を建て上げることができます。
優しさだけでも、厳しさだけでもダメなのです。どちらに偏っても健全な教会はできません。

Ⅱ-3.正しい牧会は、牧者が神に信頼し、服従する時にのみ可能である

このことは、牧会者が「神にのみ信頼する時」可能になります。
牧会者が人を恐れるなら、人の機嫌を取るようになり、誤りを指摘することができなくなります。
つまり父なる側面が失われます。

また、「牧会者が自分を神に従わせている時」のみ正しい牧会は可能です。
神よりも自分に頼る牧会者は、自分の権威を保つために、信者を支配します。
彼らの関心は、信者の成長ではなく信者の服従です。
その結果、教会は、神の教会ではなく、牧会者が自由にできる私物となってしまします。
ですから牧会者が、何よりも神に一番の信頼を置き、自ら神の支配に服従する時のみ、正しい牧会はなされ、健全な教会は立ち上がります。

私たちは、パウロの牧会から学んだことを実際に適応しなければなりません。
牧会者たちも、自分が正しいバランスを失っていないか、神に信頼して牧会がなされているか自己吟味することは非常に重要です。
また、信者たちも教会が正しいバランスを保って牧会されているかどうかをチェックする責任があります。
そして誤った方向に導かれているならば、正しく修正する努力をしなければなりません。

このようにして、牧会者、信徒の双方が神に喜ばれる教会を立て上げる努力をする時、健全な教会が建て上がると信じます。

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