第1テサロニケ5章「いつ再臨がいつ来も用意ができている生き方をしなさい」

主は再び来られる

5:1兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。
5:2主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
5:3
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。

Ⅰ 主の再臨は、平和な日に前ぶれなく起こる
テサロニケの人々は、パウロたちからキリストの再臨について十分に教えられていました。(1)
主は、人々が平和だ安全だと言って、不信仰になり油断をしている時に、何の前兆もなく突然来られます。
そして、主が再臨される時、キリストによる罪の赦しを受けていない人は、1人残らず、彼らの罪がさばかれて、永遠の滅びに定められます。(2、3)

4章の13~18節では、「再臨が来る前に死んだ信者たちはどうなったか」について説明がなされました。5章では、「再臨を待ち望んでいる信者たちは、どのように生きるべきか」についてパウロは教えます。

5:4しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
5:5あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。
5:6ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
5:7眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
5:8しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。

Ⅱ 再臨のために備えが出来ている生き方とはどのようなものか
信仰、希望、愛を持って、落ち着いた生活、不品行をさけ、神の使命を果たす
テサロニケの人々は救われ、神の子(光の子、昼の子)とされています。
彼らは、主の来臨について、前もって知らされています。(5)
ですから彼らは、未信者たちのように、主の再臨にあわてふためいたり、滅ぼされたりすることはありません。(4)
なぜなら、主の再臨に備えて、主に忠実な生き方をすることができるからです。
ですから、未信者たちにのように、主の来臨などないと思って、不品行、遊興にふける生き方をしてはいけません。(7)神から与えられた信仰と愛にとどまり、救いの確信を持って、自分自身を聖く保ち、神の使命を果たす生き方をしましょう。(6、8)
主の来臨に備える生き方は、具体的言えば4章に書かれた、不品行をさける、兄弟に悪を行わない、働いて落ち着いた生活をする、自分の使命を果たすことです。

5:9神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
5:10主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
5:11ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Ⅲ 主の来臨について不安を持つ必要はない。テサロニケの信者の救いは確定している。
だから、徳を高め合って前進しなさい。
パウロもテサロニケの信者も、救われるかどうかの心配する必要はありません。
神は、私たちをご自身の怒りが下る対象としてではなく、ご自身の贖いにより救われる者として定められたからです。(9)
主が私たちのために死んでくださったのは、主の来臨の時、それ以前に死んだ信者も、そのとき生きている信者も、主と共に永遠に生きるためです。(10)
再臨の時には、救いが与えられる確信をもって信仰に励みなさい。
困難にくじけることなく、互いに励まし合って信仰の戦いを戦い抜きなさい。
互いの徳を高め合いなさい。
そのために。互いに教え合い戒め合いなさい。(11)

教会への具体的な勧め (一連の光輝く勧め)

5:12 兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
5:13 その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。

主に忠実な指導者に尊敬を払なさい。彼らの訓戒に従いなさい。
教会の中に平和な関係があるように務めなさい。
主の教えによって教会を指導し、教会のために労を惜しまない信者や教師を尊敬し愛すべきです。彼らは、信徒を正しく導くために厳しく戒めることもあるでしょうが、主からの勧めを伝えているのですから、彼らの指導に聞き従うべきです。(12)

主によって指導する側と指導される側の間に平和な関係が保たれていることが重要です。このことにより、主の教えが受け入れられ実行されやすくなるからです。聖徒たちの徳を高めることは、再臨の準えにもなることだからです。(13)
また、教える側も自分の欲のためではなく、主に従って正しく働いている必要があります。

サタンは、常に教会が機能しなくなるように働きかけます。信仰の不一致ではなく、日常の些細な食い違いで、教会の平和が乱されてはいけません。

5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

自分勝手に信仰する者を戒めなさい。落胆している者を励まし、信仰の弱い者を助けなさい。
自分勝手に歩む者をいましめ、正しい生き方をするように注意しなさい。
また、迫害や困難、不幸な出来事で落胆している信者を励ましなさい。
信仰の弱い者を教え励まし助けなさい。彼らの弱さに対して寛容でありなさい。彼らを追い出すのではなく、忍耐強く教え励ましなさい。

5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。

悪をされても、悪によって報復してはならない。
信仰に反対する者たちによって、損害を受けた事があったと思われます。
しかし、悪を行った者に対して、悪によって彼らに反撃してはいけません。
かえって、自分に悪を行った人に対して、善を行いなさいとパウロは言います。それによって、悪を働いた人たちは、自分のした悪を恥じることになります。
悪をもって悪に勝利するのではなく、善によって悪に勝利するのがキリスト者の生き方です。
また、兄弟姉妹だけでなく、自分の周りにいるすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさいとパウロは勧めます。

5:16 いつも喜んでいなさい。

 良い時も、困難な時もいつも喜んでいるように
これは、「いつも喜ぼうと決心する」とか、「小さなことを喜べる習慣を付ける」というような勧めではありません。
この勧めは、命を失う危険が迫っていても喜びなさいという意味です。
ですから、この喜びは世の人が考える「喜び」とは全く違います。
これは、キリスト者だけが持つことができる「喜び」で、この喜びは、状況に左右されない喜びです。

これは、「キリストの御わざを喜ぶ」ことです。
キリストが自分のために死んでくださって救いを与えてくださった。
「キリストの愛」を自分が受けていることを喜ぶという喜びです。

この喜びは、神の摂理を信頼して困難な時も平安を保つことを含んでいます。
どのようなことも、神の赦しなしに起きることはありません。
そして、神はすべての事を信者の益としてくださいます。
ですから神は信者に困難を送る時には、逃れる道を用意してくださっています。
神が信者に起こる全ての事を、悪いことも含めて、信者の幸いと救いのために益となるように働かせてくださるのです。
このことを知っているから、信者は喜ぶことができるのです。

5:17 絶えず祈りなさい。

絶えず祈る
困難に直面するときや不幸な出来事が起こる時、信者の心は騒ぎます。
このようなとき私たちは、自分の必要を神に知っていただき、神の御心を知って、それに従うために祈りに導かれます。祈ることにより信者は平安を与えられます。(ピリピ4:4-7)

この祈りは、自分の願い事を神にかなえてもらうための祈りではありません。
この祈りは、「神の導きに従う心」を持ってする祈りです。
神のみこころに自分の意志が一致することを願う祈りです。

5:18 すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

神の摂理を思って、すべてを感謝する
信者の人生で神が支配しておられない領域は一切ありません。
神の赦しなしには髪の毛1本が落ちることもありません。

神は信者の人生の全てを支配し、全てを働かせて信者の益としておられます。
ですから、自分にふりかかるすべての出来事を、嬉しいと思えることも、また悲しく思われることも、感謝することができるのです。神の摂理を知って、神に信頼し、困難な時であっても神のなさりように感謝して生きるように神は望んでいます。

5:19 御霊を消してはなりません。

堕落して神を悲しませてはいけない
不品行や堕落、不道徳によって、内に住む御霊を悲しませてはなりません。
それは、神から与えられたの恵み(愛)を無駄にすることです。
神は選んだ者に光を与え、彼の心を新しくして、神を知ることができるようにして、その信仰を保たせておられます。

しかし、それでも人間は堕落しやすく、欲望に対して弱い者です。
ですからパウロは、欲望に気をつけなさい、
自分に与えられた神の愛に対して、応答して生きなさい。
神の恵みを無駄にするような生き方をして、神を悲しませてはいけません。

5:20 預言をないがしろにしてはいけません。

聖書の教えに従って生きる
この当時は預言とは、直接神からの啓示を人々に語ることでした。
しかし、「神からの啓示のことば」を書きとめた「聖書」が完成してからは、預言とは、「神の言葉を解き明かす」ことになりました。つまり、聖書を解き明かして、神のみこころを知らせることが、今の時代の預言です。

「預言をないがしろにしない」とは、聖書から教えられることに従って生きるということです。聖書を知れば、「自分の考え」と「神の考え」との違いに気がつきます。その時に、自分の持つ価値観を、聖書の教えよりも正しいものとしないことです。聖書の教えに自分の考えを合わせていくことが、ここで言われている「預言をないがしろにしない」ことです。

5:21 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

良く吟味して、正しい教えと間違った教えを見分けなさい
どのような教えも「正しい」と思って受け入れるのではなく、まず吟味しなさい。そして、間違った教えは退けなさい。

5:22 悪はどんな悪でも避けなさい。

悪から離れなさい
自分を悪に引きずり込む恐れがあると思われることからは、離れることです。
これは、人との付き合いや仕事など、生活のすべてにおいて適応すべきことです。

5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

祈り
信者に始められた良いわざを完成させることは、神の働きです。
神は信者を救い、聖化し、完成に至らせます。
神は真実な方、ご自分が約束したことを果たす方だからです。(23)

ですから、信者は自分の無力を知りつつも、神が守ってくださり、主が再臨される日には責められることのない者にしてくださることを確信して歩むことができるのです。(24)

5:25 兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。
5:26 すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。
5:27 わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。
5:28 わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

最後のあいさつ
パウロたちのためにも祈ってほしいと言っています。また、この手紙を教会の皆に読み聞かせてほしいと強く願っています。
「神のことば」は、信者たちの間で共有され、伝え続けられるべきものです。それにより、人々が神を知り、キリスト者としての歩みを確かなものとすることができるからです。

第1テサロニケ5章 考察 

いつも喜び、たえず祈り、すべてのことを神に感謝するキリスト者の生き方
どうして、困難な時にも平安を保つことができるのか

人生には、健康、お金、家族などについてのさまざまな問題が起きます。
テサロニケの信者たちは、迫害のために苦しんでいました。
しかし、パウロは、彼らに対して「いつも喜ぶように」と勧めています。
では、なぜキリスト者は、困難な中にあっても喜ぶことができるのでしょうか。

自分に注がれた神の愛を思い起こすことによって、
自分に約束されている天国での永遠の喜びを思い起こすことによって、平安を保つことができる

それは、キリスト者には「神を喜ぶ」という特権が与えられているからです。 
キリストは死に打ち勝って勝利されました。信じる者に天国への門を開いてくださいました。
もはや信者にとって死は恐ろしいものではなく、永遠に喜べる世界への旅立ちの時になったのです。

神は、神に反抗する自分を選んで、救いを与えてくださいました。
キリストが自分のために死んでくださったのです。
そして、天国で永遠に生きるようにしてくださったのです。
このことを思う時、自分に与えられた神の愛に感謝が絶えません。

この感謝と喜びは、信者がかかえている問題に関係なく、信者の心に存在します。
ですから、さまざまな状況に心が揺さぶられても、信者の心の奥深くには、いつも「変わらない喜び」があるのです。

神の摂理を思い起こすことによって、平安を保つことができる

そうであっても、私たちは弱さがあるために、いつも平安で喜んでいることができないのも事実です。そこでいつも祈ることが必要となります。祈りは、問題が起きたときに、その問題を神に申し上げて神に知っていただくことです。自分に必要なことが与えられるように神に祈ることです。

常に神との対話を絶やさず。神に信頼して、問題を神にゆだねることです。
これがピリピ4章4節でも言われていたことです。

また、神にゆだねるためには、神に信頼して任せることができなければなりません。
そこで信者は、「神の摂理」を思い出す必要があります。

神はすべての被造物を支配しておられます。キリスト者に偶然はありません。
信者の身に起きる出来事はすべて神の赦しのもとに神から送られてきた事です。そして、神の信者への愛は非常に大きいので、神は幸も不幸もすべてのことを働かせて、信者の幸いと救いのために益に転じるのです。これが神の摂理です。

神は、命を与え、救いを与え、聖化し、完成させる方です。
これらすべてを、あらかじめ神は設計されています。
ですから、私たちが突然の出来事に意気消沈している時も、神にとってはそうではありません。神はあらかじめそのことが起こることを知っておられるからです。そして、そのことが起きる前から、神は解決の道を備えておられるからです。この真理を知る時、信者の心は大いに慰められます。

神と、いつも対話することによって、平安でいることができる

神を喜び、たえず祈り、感謝する。
これらは別々のものではなく、互いに結びついています。

ですから、私たちは、どのような状況の中でも、主を喜びましょう。

自分の問題を神に信頼してゆだねましょう。
問題を自分で抱えるのではなく、神に訴え、神が解決してくださることを願いましょう。
神は解決の道をすでに備えていてくださいます。

このようにして、信仰から来る困難の中で、平安と喜びをもって歩んでいきましょう。

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