要約
アハブの死後、モアブが背いた。そこでイスラエルの王ヨラムは、ヨシャパテに援軍を頼む。ヨシャパテは心良く引受けた。エドムの王も参戦してモアブに上って行ったが、途中7日間回り道をしてしまい、水がなくなった。ヨラムは絶望する。しかしヨシャパテは、主のことばを求めた。そこで、彼らは、エリシャに会いに行く。エリシャはヨシャパテのゆえに、彼らに会い、主のことばを授けた。主は、水が湧き出てモアブの地を満たし、兵の乾きが癒やされること。そしてイスラエルの勝利を語った。モアブは翌朝、水が朝日で赤く染まっているのを見て、敵が相打ちした地の海だと勘違いし、分捕り物を取りに行った。そこで、イスラエルの兵に打ちのめされた。モアブの王は、戦況の不利を見て、城壁の上で長男を生け贄として焼き殺した。モアブのイスラエルへの怒りが頂点に達し、イスラエルは引き揚げた。
観察
1. 状況を見て絶望するヨアブ、状況よりも主のみこころを求めるヨシャパテ。
水がなくなったとき、ヨアブは「兵は渇いている。戦う力がない。モアブが攻めてきたらたら終わりだ」「主はモアブの手に渡すために、3人の王を召したのだ。」と落胆するだけでした。しかし、ヨシャパテは状況がどうであれ、主が勝利をもたらす方であることを知っていました。ですから主のことばを求めたのです。そして「水が与えられること」「戦いに勝利すること」預言が与えられました。主がそう言われたのですから、必ずそうなるのです。事実、その通り彼らは戦いに勝利しました。
2. 神は彼らの必要を満たされた。水を豊かにあふれるほど与えられた。
水がなく兵も馬も渇いていた。彼らに戦う力がなかった。神は、彼らが水を必要としていることをご存じで、水を湧き出させて彼らに与えました。ただ渇きをいやすだけの水ではなく、モアブの地を水であふれさせるほどの大量の水を与えられました。これは神の憐れみです。神はご自分の民の必要をご存じで、あふれるばかりに恵んでくださる方であるのです。そして、この水を神は用いて、イスラエルに勝利をもたらしました。
3. 神の奇跡によって勝利させる。これが神のなさり方。王たちを誇らせない為である。
イスラエル連合軍がモアブに勝利したのは、彼らの知恵や力ではありません。これは、主が起こされた奇跡によります。主はモアブの地を突然に水であふれさせました。雨も降らず風も吹かないのに、水がエドムのほうから流れてきたのです。水が赤いのを見たモアブが、同士討ちをした血だと勘違いして、油断して分捕り物を取りに出てきたところを、イスラエルの兵が打って戦いに勝利したのです。このように、王たちを誇らせないために、主はご自分の奇跡によって、勝利させます。同様のことが、ヨシュア、ギデオンなど多くの戦いの場面で起きていることを私たちは知っています。
4. モアブの王は、彼らの神「ケモシュ」への信仰から長男を焼き殺した。
モアブの神は「ケモシュ」です。神の怒りをなだめ、神を喜ばせて祝福を授かるために、彼らは、神への捧げ物として、長男を生きたまま焼き殺していました。これが彼らの礼拝でした。ですから、モアブの王が、戦況が不利になるのを見て、息子を捧げれば、神が戦いに勝利させてくれると考えたのだと思われます。
適応
クリスチャンの歩みは、未信者の歩みと同じであってはなりません。私たちは神を知り、神がすべてを治めておられることを知っているからです。困難な状況に至った時、ここに至ったことも神の導きによることを忘れてはいけません。そして、主にはこの困難を通った先に、すでにご計画をお持ちであることを忘れてはいけません。ヨアブのように、困難な状況に至らせた神を呪って、絶望するだけの者になってはいけません。信者のために、神が全てのことが働かせて益とすると聖書は言っているからです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
ヨアブは主のみこころなど聞かず、自分の判断で兵を出し、その結果困ったことになりました。それでも、神は水をあふれさせて兵の渇きを満たされました。水はあふれるばかり地に満ちたのです。これは神の豊かな憐れみによることです。
同様にして、神は、私たちの必要をご存じです。そして、私たちの一番の必要を満たしてくださる方です。このような方が内住してくださっていることを忘れてはいけません。困難な時にこそ、神は私の必要を知っておられ、満たされることを信じなければなりません。
水のない渇いたモアブの地が、翌日には水であふれていました。雨が降った訳ではありませんでした。これは神がなさったことです。そして神にとっては小さなことであると言われるのです。(18節)神は無からあらゆるものを生じさせることができるお方です。天地創造の時もそうでした。ですから人間にとって、絶望と思われる状況も、神が働かれれば一瞬にして変えられるのです。人生に起こるさまざまな困難に直面する時、この神に信頼し、神に頼むことができることは本当に幸いです。
モアブの王は、息子を焼き殺してもいいと思いました。そのことより神の怒りがなだめられると信じたからです。生きたまま焼き殺される苦しみは、想像を絶するものがあります。その断末魔の叫びをかき消すために、楽器が音高く鳴らされたそうです。なんと恐ろしいことでしょうか。
このように偶像礼拝(にせの神を造って拝むこと)は、人間の判断を誤らせ、罪を正しいことだと思うようにさせます。神の祝福を得るためにしていることが、かえって自分を不幸にする結果になります。ある食べ物を禁止する、大学に行くこと、結婚相手を自分で決めることを禁止する宗教があります。また、信者の時間や財産を教団のために全て捧げさせる宗教もあります。かといって神を信仰することがだめなのではありません。
誤った信仰(偶像礼拝)が人を不幸にします。キリストへの正しい信仰は、信者に喜び、希望を与え、永遠の命を与えます。ですから、正しく神を礼拝することが重要です。