要約
エリシャの元で働いていた預言者が死んで、妻と2人の息子が残された。しかし、貸主が来て、息子が奴隷に売られそうになっていた。そして、彼らの家には油のつぼが1つほか残っていなかった。エリシャは隣人からつぼをたくさん借りてきて、密かに、つぼに油を注ぐように言った。油は全部のつぼに注いだ時止まった。妻は、その油を売って負債を返済し、その後も暮らしていくことができた。
エリシャはシュネム人の裕福な女を憐れんだ。彼女がエリシャをもてなし部屋を用意してくれたからだ。彼女に子がいないこと、夫も年をとっていることを知ったエリシャは、男の子を授けた。しかし、ある日その子が死ぬ。女は子供をエリシャの部屋に寝かせて戸を閉じ、誰にも気づかれないようにして、エリシャの元に駆けつけ、彼に懇願した。エリシャはゲハジを遣わすことにするが、女はエリシャと一緒に帰らなければ納得しない。ゲハジは言いつけ通りにするが男の子は生き返らない。そこで、エリシャが男の子と2人だけになり、主に祈って彼の上に身を伏せることを繰り返すと、男の子は生き返った。女はエリシャの足もとにひれ伏しおじぎをした。そして子供を抱き上げた。
ある人がパン20個と1袋の新穀を持ってきた。エリシャは食べ物を増やし、100人の人が食べて、それらはあり余った。
観察
1.エリヤとエリシャの違い。
○エリシャは、日々出会う人々の必要を満たす預言者。
彼に関わる人々の問題(死、病気、借金など)を、エリシャは主の奇跡によって解決している。
そして、彼はとても憐れみ深く、人々を愛していた様子がうかがえます。自分から「何をしてほしいか」と尋ねています。預言者とは、偉くて、遠くにいる存在のように思いますが、彼はそうではなかったようです。
しかし、主を信じない者に対しては、厳しい態度をとる預言者でした。ヨラムがモアブとの戦いについて預言を求めた時の態度から、それはわかります。(2列王記3:14)
○エリヤは、主に反抗する王や偶像と戦った預言者。
彼は、アハブ王やイザベルと戦い、バアルの預言者たちを殺しました。
2.エリヤ、エリシャ、イエス、共通の奇跡をしている。
食べ物を増やし、死人を生き返らせ、このない女に子に子供を授けています。ですから、新約聖書に出てくるイエスさまの奇跡は、何も彼から始まったことではないのです。すでに過去の預言者たちが同じような奇跡をしているからです。ですから、私たちは、新約の奇跡は十分信じることができる事実なのです。実際には起こらなかったとするなら、聖書全体を否定することになるからです。
3.主の奇跡は、そのことが起きると信じる者の前でだけで起こされている。信じない者は奇跡に立ち会わせていない。
子供と2人だけになって、エリヤは祈りました。そして生き返らせました。母親もゲハジも部屋に入れることをゆるしませんでした。主の奇跡は、そのことが起きると信じる者の祈りによって実現します。そこに、疑う人がいると妨げになります。これはイエスが故郷では多くの奇跡をなさらなかったこと、会堂管理者の娘を生き返らせたとき、イエスをあざけった隣人を、部屋に入れなかったことからもわかります。
4.女はエリシャにだけ懇願した。エリシャしか、助けることができないと知っていた。
子供が死んだ時、女は夫にも隠し、ゲハジが尋ねても適当にあしらって、まっすぐエリシャのところに行きました。子供の命を救える人はエリシャしかいないと知っていたからです。
適応
女は、子供が死んだ時、夫にも相談せずに、ただエリシャに願いました。そして彼女の選択は正しかったのです。弟子のゲハジでさえ、エリシャの言った通りにしたけれども、子供を生き返らせることはできませんでした。
私たちも、病気のときには、医者ではなく、まず主に癒やしを求めるべきです。私たちは、特に生死に関わる病気において、医者に頼る傾向があるのではないでしょうか。命を支配しておられるのは主です。ですから、クリスチャンは、主の御心であれば癒やされることを心にとめた上で、必要な治療があれば受けるというスタンスが重要です。
主を信じる人と信じない人では物事の捉え方に大きな違いがあります。神を信じない人は、目に見える現象だけから判断し、人間ができる方法にしか頼ることができません。私たちは出来事の背後にあって全てを益と働かせておられる主を知っているのですから、主を信じない人の助言を聞き過ぎではいけません。神が命のかぎを握っておられます。ですから、究極的には神に頼ることが私たちのとるべき態度です。
エリシャは、心優しい預言者でした。自分の周りにいる人々の必要を満たそうとする預言者でした。そして、彼には主の霊がとどまっていたので、彼の祈りに、主は答えられました。エリシャの近くにいた人たちは幸いであったと思います。
ところで、私たちには、エリシャのような、いや、エリシャに遙かに勝る助け主がいてくださいます。それはイエス・キリストです。この方は、エリシャのように私たちの弱さを憐れんでくださるお方です。私たちを憐れんで、ご自分の命を犠牲にされるお方です。
また、エリシャは、女が口を開かなければ、なぜ困っているかがわかりませんでした。しかし、キリストは私たちが祈る前から、私たちの本当の必要をご存じで、神にとりなしの祈りをささげていてくださるお方です。(ローマ8:26)私たちには、このように憐れみ深い神が内住してくださって助けてくださっています。ですから心から感謝しようではありませんか。
イエスの奇跡を信じられない人がいます。食べ物を増やしたり、ラザロを生き返らせたり、病気を治したり、とても信じられない記事がたくさんありあます。だから聖書は昔の人が書いた愚かな書物だと結論する人がいます。
しかし、エリヤもエリシャも同じような奇跡をすでにしていました。ですからイエスの起こされた奇跡は、特別なことではないのです。むしろ、旧約の預言者たちがした奇跡を読むとき、私たちはイエスがなさった奇跡も本当に起こったのだと確信が持てます。奇跡を否定する信仰には、何の力も希望もありません。そして、それは救いに至る信仰でもありません。