第2列王記5章「神は、ツァラアトに犯されたナアマンをいやした。そして彼はイスラエルの神を信じた。私たちも『罪』という不治の病を抱えている。この病をいやすのはキリストのみ。ナアマンのことから、私たちの『救いといやし』について考えた。」

要約

アラムの王に仕える将軍ナアマンは、ツァラアトに犯されていた。当時、ツァラアトは不治の病。人々が忌み嫌う病気であった。彼は、イスラエルから来た妻の召使いから、エリシャのうわさを聞く。そこで、王の許可を得て、イスラエルのエリシャのもとにやってきた。しかし、エリシャは戸口に出ることもなく、使いの者に、「ヨルダン川で身を7回洗ってきよくなりなさい」と言わせるだけであった。この対応にナアマンは怒って帰ろうとする。しかし、しもべの説得によって言われた通りに体を洗った。すると元どおりになっただけではなく、幼子のようにきれいになった。これを見たナアマンは、イスラエルの神だけを信じ、偶像を捨てると信仰を告白をする。ただアラムの王がリモンの神殿で祈る時、身をかがめることだけはゆるしてほしいと頼む。ナアマンの帰途、エリシャの弟子のゲハジは、ウソをついてナアマンから大金をもらう。このことにより、ゲハジとゲハジの家族にはツァラアトを病む者が絶えないことになった。

観察

1.エリシャは、ナアマンよりも権威ある者として彼に接している。(9-11節)
エリシャは、ナアマンがアラムで重んじられている将軍であることを知っていた。しかし、神の前に、将軍も平民もない。全ての者は神の支配の下にある。神に来る者は、神こそ全ての上に立てられた権威であることを認めなければならない。そして、神の前にへりくだらなければならない。だからこそ、彼に対してあえて高慢と思われる対応をした。

2.病をいやすために、ナアマンは、はずかしめられることを経験させられる。(10節)
エリシャが自分に会いに出てくることさえしなかったこと。使いの者に伝言させたこと。敵の地で、裸になり体を洗うことを命じられたこと。それも1度ではなく7度も洗うことを命令されたこと。これらは彼にとって屈辱的なことであった。彼が予期していた対応と全く反していた。彼としては、エリシャが出てきて彼のために祈り、手を置いていやしてくれると期待していたからである。

3.ナアマンがエリシャの命令に服従した時、一瞬にして完全に病がいやされた。(13-14節)
今まで誰もいやすことができなかった彼の病が、一瞬にして、それも完全にいやされた。これが、神のいやしの特徴である。しかもこのいやしは元の状態に戻っただけではなく。幼子のようにすべすべの肌に回復したというのである。神のいやしはすごい。

4.ナアマンは、イスラエルの神が、彼をいやしたと悟った。(15節)
ナアマンは、エリシャの元に引き返し、「イスラエルの神のほかに神はいないと知った」と語った。そして、どうか贈り物を受け取って欲しいと頼んだ。これは、イスラエルの神が彼をいやしたことを悟ったからだ。

5.ナアマンは、イスラエルの神だけを礼拝すると信仰の告白をしている。
アラムの神「リモン」は拝まないと決心している。(15,18節)
不治の病のいやしを経験したナアマンは、いやしを喜んだだけでは終わらなかった。このことは、彼にイスラエルの神への信仰を目覚めさせた。彼は、この方以外に神はいないと知った。そして他の神(偶像)はいっさい拝まないと告白するに至った。

適応

適応1、ナアマンは不治の病に苦しんで、イスラエルの神に助けを求めた。
全ての人は、「罪」という不治の病を抱えている病人。「罪」が私たちを苦しめていることに気づくことが、いやしを求めてキリストに来るきっかけとなる。
罪が人間関係を破壊し、心の平安を奪い、本当の意味で私たちを不自由にしているのです。このことに気づくことが、信仰を求める入り口です。このことに気づかせることが伝道です。果たして、私たちの伝道はこの目標に沿ったものでしょうか。吟味する必要があります。
適応2、私たちの病「罪」のいやしは、私たちが神の前に謙遜になることを通してなされる。
ナアマンは、アラム王国で高い地位にある将軍で、丁重に扱われて当然であるとのプライドがあったけれども、エリシャは彼のプライドを見事にへし折りました。神に自分の病をいやして頂くためには、自分が神よりも上の権威を帯びていてはならないからです。神の前にへりくだる者しか、神に愛されず、神の恩寵をいただくことができないからです。
私たちも同様です。自分のプライドを捨てて、神の前にへりくだり、いやしを求める者でなければ、神からのいやしを期待することはできません。それには、自分の罪の現実を知る必要があります。自分がいかに病んでいるか、この病を自分ではどうしようもできないでいることを、知らなければなりません。完全に聖い神の目に写る、自分の本当の姿を、自己弁護することなく、ありのままに認める必要があります。そうでなければ、病(罪)からの解放はありません。
適応3、神の約束を信じて従う時に、私たちは「罪」という病からの解放を経験する。
ナアマンは、エリシャの言葉に自分のいやしを賭けました。そして、言いつけ通りに実行しました。その結果、彼の病は、いやされました。
私たちも、イエス・キリストからの約束をいただいています。「信じる者は永遠の命を得る」「罪がゆるされて天国に入る」という約束です。私たちは、この約束に人生を賭けたのです。聖書に示されたことに従って信じ、その結果、救われました。神の約束はまだ完全には実現していません。私たちには、まだ病(罪)から完全に解放されていません。そのために、生きている間は、さまざまな問題が生じます。しかし将来、天に召される時には、私たちは病(罪)は完全にいやされて、永遠の喜びの世界に入ることになります。
適応4,キリストを信じることは、偶像をいっさい排除することである。
ナアマンは、イスラエルのほかに神はどこにもおられないと知ったとき、他の神々への礼拝を止める告白をしました。
私たちも、キリストを神として信じるのなら、他の神々への礼拝はできません。また、もしあなたに、キリストよりも頼りにしている、または権威を置いている物や人があるならば、それらはあなたの偶像です。アイドルやアニメ、ゲームなどを楽しむことは、悪いことではありません。しかし、もしそれらがあなたの第一に求める喜びであり、信仰と両立できなくするならば、それらはあなたの偶像です。あなたは、キリストがあなたにとって最高に信頼でき、最高に価値のあるお方であると告白できますか?この告白ができることが、本当の信仰です。そして、このように告白できる人は、自分にとって偶像になりうるものから、あえて距離を置くように心がけます。それらが自分を支配しないように注意を払います。あなたは、どうでしょうか?

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