目次
16:1信仰によって義とされる教理は、善い行ないを廃することにはならない
- 「信仰」と「良い行い」は結びついていなければならない。
カトリックは行いがなければ信仰もないと教えるが、私たちは信仰が良い行いを生じさせると考える。
カトリックは、義とされる信仰には行ないが必要だと教える。しかし私たちは、義とされることは、行いによるのではなく、キリストに信仰を置くことによるとする。私たちはキリストを信じるとき、キリストから良い行いのためのいっさいの力を受け取る。つまり、良い行いはとキリストへの信仰は結びついているのである。 - 義認、聖化、栄化は不可分の働き。神は救ったものに永久的に働く。
義とすること、聖化すること、贖うことは、永敵で不可分に結びついている。キリストは、義とするだけではなく、義とした者に知恵を与え、聖化し、贖う。キリストは人を救っただけで、その後のことは人間に任せたのではない。キリストの恵みは、それを受けた者の上に永久に続く。
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。1コリント1:30 - 義認と聖化は不可分に結びついている。信じるなら、この両方が与えられる。
キリスト信仰において、義とされることと聖化は不可分であって、両方とも信者に与えられる。だから、一方がないなら他方もないのである。
16:3神の憐れみと栄光への思いは良い行ないを駆り立てる
- 聖書は良い行いを勧めている。しかし、その目的は、神が誉めたたえられるためであった。
聖書には、善き行ないを勧めるが、行ないの報いについは語っていない箇所がたくさんある。
聖徒たちが良い行いをする目標は、人々が自分たちを見て、神をたたえるためであった。神の憐みを受けたのだから、聖い行いをしなさい。それがあなた方の礼拝です。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え 物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。ローマ12:1あなたがたの良い行いを見て、人々が神をあがめるようにしなさい。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。マタイ5:16 - キリストが与えてくださった恵みを思い起こせば、良い行いが刺激される。
キリストから受けた恵みを思い起こすなら、私たちは善を行ないをしたいと思わざるおえなくなる。
つまり、恵みによって行ないが刺激される。 - 反対者は、この教理が人を怠惰にすると言う。
律法を守って功績を積むことで、報いが与えられるとする人たちは、私たちの教理が人を怠惰にすると言って非難する。なぜなら、行いに対する報いをもって信徒を励まさないからだ。 - ところが神は、律法主義者たちが賞賛するような奴隷的な服従を禁じている方である。
神は、自ら進んで主に与えることを喜ばれる方である。
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。2コリント9:7
- 聖書の「良い行いに応じて報いを受ける」の個所を理解するときに覚えるべきこと。
聖書には「各人が行ないに応じて報いを受ける」とある。この言葉は、「キリストの功績のみによって義と見なされるのであって、私たちの自身の行ないの功績によって義とされるのではない」という前提のもとに理解しなければならない。神の憐みを知らないところには、本当の神への礼拝はない。神の憐みの前提に立つ時のみ、礼拝は成り立つからだ。
16:4信仰による義認は罪を助長することはない。かえって罪を恐れさせる
- 自分ではつぐなえない罪を赦された者は逆戻りしたいとは思わない。かえってさらに罪を恐れるであろう。
キリストの血潮により、自分では払いきれない罪のが赦された。このことを思い起こすなら、罪を犯すことをもっと恐れるのではないだろか。ソロモンはこのことを下記のように告白している。
私は着物を脱いでしまった。どうしてまた、着られましょう。足も洗ってしまった。どうしてまた、よごせましょう。雅歌5:3 - 反対者たちは、罪に対する認識が軽い。私たちの罪は重い。
そのつぐないはキリストの血潮に頼るしかない。
反対者たちは、人間のする行為で神をなだめることができると考えている。しかし、私たちの罪は重い。その程度のつぐないではつぐないきれないのである。したがって、キリストの血潮による罪の赦しに私たちは頼るしかない。これが結論である。