目次
15章2:私たちの能力は神から与えらえたものである
- 自分の持つ善いものは神から来ている。
それは自分の功績で得たのではなく、神の憐れみによって与えられた。(クリュストモス)
15章3:私たちの行ないは、汚れているけれども、私たちは神から報いを受ける
- 善い行ないをしたとしても、私たちは無益なしもべにすぎない。自分の能力を誇れない。
なぜなら、私たちは主から与えられた務めを果たしたに過ぎないからである。しかも、私たちの行ないは不潔に満ちているからである。だから、神から感謝されるのではない。 - 神の寛大にも、ご自分が成させた良い行いに、報いを与えてくださる。
神はご自分が成す能力と機会を与え、私たちに成させた良い行いを、神と私たちとの共有のものとしてくささり、「われわれのもの」と呼んでくださる。それだけでなく、私たちに報いまで与えてくださるのである。 - 善い行ないは、神の恵み。その誉れのいっさいを神に帰するべき。人間に誉れを分けてはならない。
その理由は、人間から出るものは完全に聖くはなく、何らかの汚点があるらである。神は行ないうちにその汚れを認めるからである。
- それでも善行ないは、行う者に神から報酬が与えられる。
それは、行ないが報いに価するからではなく、神の恵みが行ないに価値を与えるからである。
15章4:天で私たちが受ける報いは、
神ご自身が、ご自分のわざに栄光を与えることである
- 天での報いは人の功績の結果ではない。神が御自身のわざに栄光を与えるのである。
私たちの労苦の報いは、この世のみならず天において与えられる。神は、御自身が信者に与えた賜物を、天で誉れを受けるようにしてくださる。天での報いは人の功績の結果ではない。神が御自身のわざに、御自身の栄光を与えるのである。
15章5:良き行いは、その始まりから完成まで、全て神のわざである
- 『キリストは「救い」を与えるだけでなく、その「完成」も成してくださる』これが私たちの信仰の土台。
この土台に立たない限り、キリストに正しい基礎を置いているとは言えない。
キリストは救いを与えただけで、その完成は私たちが自力でするのだろうか。そう考える人はキリストに正しい基礎をおいていない。キリストは私たちの義となり、私たちの完成も成してくださるからだ。なぜなら、キリストは私たちが義を得るのを助ける為に与えらえたのではなく、私たちの義となるために与えられたと聖書は言うからである。
キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられま した。1コリント1:30 - われわれの内に功績はない。義はキリストの内にある。
私たちはキリストの義に継ぎ合わされた罪人にすぎない。
われわれは愚かであり、罪人である。キリストがわれわれの義となり知恵となってくださっている。キリストが持ついっさいの良きものにわれわれは預かっているにすぎない。
15章6:聖書から、人間の功績が報いを与えるという説に反対する
- 信じた時、行いによらず信仰によって義とされ天の御国を継ぐ者とされた。
キリストは私たちを義とする道を開いただけではなく、私たちに義を与えた。私たちは信じた時、義とされ、天国を継ぐ者とされた。 - 信じた時、救いの機会が与えられたのではない、その時すでに救いを得たのだ。
信者は、善い行ないをして報いを与えられる機会を得たのではなく、すでに報いが与えらたのである。あなたは、キリストの成した功績にあずかるようにされたからである。
15章7:私たちの功績は神の恩寵による。信者の自由意志によるのではない
- 自由意志の功績を固守する人は、間違っている。
信者の良き行ないは、神の恩恵の実りである。信者が自由意志を働かせることによって、信者の内に良い行ないをする功績があると主張することは、石から油を取るようなことで、不可能であり間違っている。 - 私たちの功績は神の恩寵によってあたえられたものである。
われわれは功績を誇れない。それらは神の賜物だからである。すべての功績は神の恵みが与えられなければできない。 - パウロもこのことに同意している。
信徒がする良い行ないは、神があらかじめ備えたものである。そのことを実行するために信徒はキリスト者として創造され、その働きに召された。だから自分の功績を誇ることはできない。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:10