神は永遠の決定により、ある者を救いに定めた。
この教えを無視することは、神に不正を加えるだけでなく、
人に損害を与えることになる。
- この教理が理解できなければ、救いの確信を持つことはできない。
なぜなら、自分の決心や行いによって救いを維持するのであれば、失格することもあるが、神が決定した救いであれば、神が信仰を守り、御国に入れるからである。 - この教理の無知が、我々に神へのへりくだりを失わせている。
神が取られるべき栄光を、人間に帰するようにさせている。 - この教えは聖書に基づくものである。
この教理を否定する者達は、聖書に明らかにされていること以外の知識、もしくは自分の感情によって、この教理を否定している。
人間の状態によらず、神の永遠の決定により救いは定められた。
- 善い行いができなかった人が神に選ばれている。
アブラハムは人格的に優れていた訳ではなかったが信仰の父となった。(彼は多くの失敗をしている) - 生まれる前に選びが決定している
エサウとヤコブは生まれる前に、何の善行もない時に、弟の選びと兄の遺棄は決定されていた。 - イスラエルが皆救われない。神に選ばれた子孫だけが、霊的イスラエル。(救われている)
アブラハムの子であってもイサクが継承し、イシュマエルは切り離された。
サクの子であっても、ヤコブが継承し、エサウは切り離された。
これらのことから、神は人の善行を予知して救いに選んでいない。
彼らには、選ばれるに価する善行は無かったからである。
救いは、人間の行いに一切関係しない神の決定によって与えられることがわかる。
神が「選びによる救い」を定められた目的は何か?
- 神だけが、ほめたたらえるためである。
もし、人間の行いが救いに少しでも貢献するのなら、神の恵みだけがたたえられることにはならない。神は人間の誇りを砕くために、あえて人間の常識をくつがえすことをなさっている。神は、ヤコブの長子ではなく、弟に相続権を与えている。また、先に生まれたイシュマエルではなくイサクに与え、マナセではなくエフライムを選ばれた。
この教理を聖句によって証明する。
「人間の良い行いを見て」神が救いに選んだのではない。エペソ1:4
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられ たのです。エペソ1:4,5
- 選ばれたのは世界の始まる前であるから、救いに定める時、神は選ばれた者の価値を考慮していない。
- 聖なる者(傷のない者)にするために選ばれたのであるから、選びは徳を生み出すもの。徳は選びの結果。徳があったから選ばれたのではない。
- みこころのままにあらかじめ定められていたのであるから、神のご計画によって選ばれたことは明らか。
これらのことから選びの根拠は、人間の側には一切ない。選びは、ただ神の選びと定めによる。選びの結果である「聖さ」を選びの原因をすることはできない。
「人間の善行を予知して」神が救いを定めたのではない。ヨハネ15:16
あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。ヨハネ15:16
良い行いを予知されたのであれば、私たちが神を選ぶことも神は予知されていたはずである。しかし、イエスは、私たちが選んだのではなく、神が選んだと言われる。神が救われる人が信仰を持つことを予知していたとすることは、イエスの言葉と真っ向から対立する。だから神が予知したとすることは間違いである。
この教理に対しての疑問に答える。
疑問1:全ての人を招いておきながら、少しの人しか救わない。そのような不公平な神はありえない。
- 神は、人に平等に恵み与えなければならないという規則に拘束されない。神は全く自由にできる方。
救いは神のご意志による。不平等こそが、神の恵みの価値を人間に知らしめる。このことを神は望まれた。 - 全ての人が救われない事実が、神がそのように定めておられることを証明している。
現在福音は多くの人に伝えられているが、信仰を持つに至る人はわずかである。 - 聖書の中に、神が福音の宣教を特定の人々に対して差し止めておられる事実を見る。
神はある地域の人への伝道を止めさせている。
パウロがアジヤに行くことを禁じ、ビテニヤ、マケドニヤへ行かせる。(使徒行伝)
疑問2:予定されていたなら、信仰を失うことはないのか?
- 信仰は獲得するものではなく、神の選びによって与えられるもの。
神が信仰を保持される。選ばれた者は信仰を全うする。
たとえある時期、信仰から離れたとしても、彼らは必ず信仰を回復する。
誰も自分で救いを得ることはできない。神の恵みによって信じる。だから、選ばれた者の救いは永久で確実である。なぜなら、選ばれた者の信仰が、私たちの想像を遙かに絶する神の力によって守られているからである。
もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人 イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。ローマ5:17
疑問3:予定されているなら、聖くなる努力も伝道する必要もないのではないか?
- 予定された救いが、人を怠惰にしたり、伝道を止めさせたりすることははい。
彼らは聖なるために召されたから、神に定められた善行に励むからである。私たちが選ばれたのは汚れを行わせるためではない。第1テサロニケ4:7
神が備えてくださっている良い行いに歩むべく造られた.。エペソ2:10
救いは選びで決定しているから、善行は止めるというのは神への冒涜である。信者の善行は選びから生じることを、私たちは証明した。選ばれた者は、神が備えてくださった良い行いに歩むように心が向けられる。もし、怠惰になる者がいるなら、その者は神に選ばれて信仰に入った者ではないからだ。
また、救いは誰が予定されているかわからないのだから、出会うどんな人に対しても、最善を尽くして伝道する。
疑問4:人間は神の協力者であって、救いは人間の同意がなければ起こらないのではないか?
- 救いは、神が「人の心のかたくなさ」を変えることによって始まる。
わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与 える。エゼキエル11:19
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16
その他多くの聖書箇所が、救いは神が始められるわざであることを指示している。そこには、人間の側の条件も、人間が成すべきことも何もない。救いは、ただ神の憐れみにより神の決定による。
疑問5:信じた後、不信仰になって死んだ者たちの場合をどう説明するのか?
- 彼らは真の信者ではなかった。
- 彼らはキリストに、心からすがる信仰を持っていなかった。
彼らは我々から出て行ったが、我々に属する者では無かった。もし我々に属する者であったなら、我々と共に留まったのである。1ヨハネ2:19
ここで言われている通り、彼らは初めから真の信者ではなかったのである。 - まことの信仰をもってキリストを受け入れる者は1人も滅びない。
わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせること です。ヨハネ6:39
- 彼らはキリストに、心からすがる信仰を持っていなかった。
- 彼らは一時的に神の照明を受けただけであった。
本当に照明を受けた者かどうかは、どのように信じているかを知ればわかる。
また、その人の信仰が結ぶ「実」を見ることによって見分けることができる。
選びは、再生をもたらす。神は選んだ者の心を新しくする。その結果、彼らは神に喜ばれるように歩もうとする。真の信者は、再生から生じる「御霊の実」を結ぶようになる。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。マタイ7:16-18婚礼の席に礼服を着ていなかった招待客は外に出された。マタイ2:11-13
この箇所は、主の聖さをまとわず、主の晩餐に加わる者を御国から排除されると取るべきだとカルバンは言っている。聖霊を受けて、心が新しくされた人は、聖い実を結びたいと思うのが自然。失敗しても、その度に悔い改めて努力することが選ばれた者の生き方。それを、汚れたままの状態で、そのことを悲しむこともなく主の前に出ることができるなら、それはその人が神に選ばれていなかったという「確かなしるし」になる。
この教理に矛盾すると思われる聖句について説明する。
- 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。1テモテ2:4
パウロは、テモテに王たちのために祈るように勧めた後で、この言葉を語っている。この箇所は、どのような地位にある人であっても、神が選んでおられる可能性があるのだから、彼らのためにも祈りなさいという意味である。 - ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。2ペテロ3:9
悔い改める全ての人に、罪の赦しが用意されているという意味。しかし事実は、ほんのわずかな人しか神の元に来ないので、救われる人は少ない。 - 「神が救われる人を少数にしていること」と「神が万人の救いを願うと言うこと」は矛盾しない。
神は人が求めるならば救いを用意されている。しかし、救われたいと願うのは救いに予定されていた人たちだけである。このように理解するならば、この2つのことばは矛盾しない。
結論:予定論は信者にとって絶大な価値がある。
だから予定論は説教されなければならない。
ある人々は「予定論は説教してはならない、隠しておくように」と言う。この教えを嫌う人がいるからである。しかし、信者にとって「予定論は宝」である。予定論は信者に安息を与える。
予定論を知ることで信者が受ける絶大な価値
- 救いの確信が与えられる。
信仰は自分で得たものではなく、神からの賜物であるから。神が自分の信仰を始められ、最後まで与え支えておられるから。天国に入る確信を持つことができる。 - 伝道するとき、大胆に福音を語ることができる。
救いは聖霊が心を開いてくださったときに起きる。伝道の際、彼らはもっと神に祈り頼るようになる。
伝道者の使命は、救われることができる情報(福音)を伝えることである。
人の機嫌を気にしすぎることなく、彼らは大胆に福音を語ることができる。 - 信者を謙遜にする。己を誇らず、神に栄光を帰すようになる。
彼らは、全てにおいてを神に栄光を帰するようになる。自分の救いですら、自分が始めたのではなく、神が与えてくださったのであれば、他の事柄においてはなおさらであるからだ。 - クリスチャンとしての成長を神に委ねることができる。失敗しても安息のうちに前進できる。
神が、自分に信仰を与えた。それだけではなく、私の信仰の成長と完成も神がなしてくださる。
そうであれば、私の行いが不完全だからと言って私の努力を神がさばくことはありえない。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。エペソ2:8私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:10
だからと言って、信者は怠惰になるのではなく、神のみこころを行うことに努める。なぜなら、
彼らは新生して内に御霊を宿しており、神に喜ばれたいという、救われる前にはもっていなかった新しい願いを持っているからである。
そして、たとえ失敗したとても、「救いを失う」とか、「神に嫌われる」「わざわいが起きる」などの不必要な恐れを抱くことから解放されている。失敗しても、安心して悔い改め、また前進することができる。 - 成長を他人と比べて落ち込む、あの人はすばらしいなどの評価から解放される
自分の努力(決心、行い)で聖化させようとする、間違った教えから守られる。- 自己成長が信仰の目標となるところに、「サタンのわな」がある。
自分の努力で聖化されたと思う者は、自分を誇り、他者を見下げるようになる。
これは、聖書が言う「悪い実」で、謙遜とはかけ離れた姿である。 - 自己成長も神のわざとするところに平安があり、正しい実を実らせる秘訣がある。
聖化においても、主が主権的に働かれるのであれば、私たちは何も誇れない。神がほめたたえられるべきである。その人は、すばらしいと人から言われることをしたとしても己を誇らず、ますます神に感謝し、神に栄光を帰す。これが、聖書が示す謙遜、「正しい実」である。
- 自己成長が信仰の目標となるところに、「サタンのわな」がある。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となら れるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。ローマ8:28-30
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも あらかじめ備えてくださったのです。エペソ2:8-10
予定論者は伝道しなくなるのではない。パウロ、カルバンなどを見よ。彼らがどれほど伝道に励んだか私たちは知っている。また、彼らは聖化されることにおいて決して怠惰ではなかった。
また、予定論だけが、私たちの救いを保証する。なぜなら、救いが神によって与えられ、保持されているからである。だからこそ、信者に救いの確信を与え、彼らが神のうちに安息できるために、予定論は説教されなければならない。