エペソ書 2章「神の怒りの下にあった者が、神の憐みを受けて救われた。救いの絶大な価値に感謝する。キリストによって、人と神との敵意、異邦人とユダヤ人の敵意は廃止された。」

<エペソ人への手紙2章 要約>

この章では、神の怒りの対象であった罪びとが、神の憐みを受けて救われること。
神は救うだけではなく、信じた後の良い行いも備えていること。
キリストによって異邦人とユダヤ人の平和が実現し、共に教会を建て上げる者とされたことを語る。

<エペソ人への手紙2章 解釈>

Ⅰ 神が永遠の昔に計画された「救いの計画」
私たちはどのような状態から、どのようにして救われ、どのように歩むのか。

2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

Ⅰ―1救われる前は「神の怒りを受ける」存在であった。
ここでは、私たちが生まれながらに「死んだ者」「神の怒りを受けるべき者」であると言われています。私たちは罪の性質を、教育や環境によって身につけていくのではありません。私たちは罪人として生まれるから、罪を犯すのです。(1節)

この世を支配しているもの、神に従わない人たちの中に働いているものはサタンです。生まれながらの人は、サタンに従って歩んでいます。(2節)

サタンに動かされて、罪の欲望をかなえる人は、神の裁きを受けるしかありません。エペソの信徒たちも、救われる以前はそのような者でした。(3節)

これが1節にある、「罪と罪過の中に死んでいた者」という状態です。
ところが、人間は、この絶望的な状態を自力ではどうすることもできません。

2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

Ⅰ―2神は罪人をあわれんでくださった。救われたのは、ただ恵みによる。
ここには、救われた者にそそがれた神の慈愛が語られています。
サタンに動かされて欲望のままに行い「霊的に死んでいた」罪人を、神は愛し、救いを与えてくださいました。(4節)
神の裁きを受けて当然な者を、キリストの死と復活の効力が有効な者とし、罪をゆるしてくださいました。(5節)そして天国で永遠に生きる者にしてくださいました。(6節)

2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

Ⅰ―3それはキリストの慈愛を人々が賛美し感謝するため。
救いは、神から与えられました。ですから「恵み」であると言われます。
なぜ、神はご自分に反抗する者に、救いを与えたのでしょうか。

それは、人間に神の素晴らしさを認めさせるためです。
キリストの人知を超えた愛を、人々に賛美させ感謝させるためです。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

Ⅰ―4救いは神からの賜物。行いで得ることはできない。
私たちにできることは信じることのみ。だから自分を誇ることはできない。
救いは自分から始まったことではありません。神から与えられたものです。
自分に価値があったから救われたのではありません。神にさばかれて当然な罪人を、神があわれみ、救いを与えてくださったからです。
神は人が信じることによって、救われるように定められました。
このことは、私たちが救いを得るために、自分の側からはいっさい貢献することができないことを意味します。

救いが「行いによらない」で、「信仰による」と定められた理由は、誰をも誇らせないためです。救われる理由のない者に救いが与えられるのなら、誰も救われた自分を誇ることができないからです。(9)

2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

Ⅰ―5神は私たちの設計者、私たちは神の作品。
救われたときすでに、「信じた後の良い行い」も用意されている。
私たちは神に造られた作品です。神は、霊的に死んでいた私たちを新生させ、以前とは全く違う、新しい生き方をする人に変えてくださいました。

私たちが救われたのは、神が用意してくださった良い行いをするためです。
ですから、私たちを救ったときに、神はすでに私たちの人生に計画を持っておられます。そして私たちが、神が計画された良い行いにを実行するように導いてくださるのです。(10節)

Ⅱ あらゆる民族から構成される「神の民」が集められている

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

Ⅱ―1神の国と無縁の異邦人が、キリストによって神の民とされた。
エペソにある人々は、生まれによるならば「異邦人」でした。「異邦人」とは「神の国とは無縁な人」という意味です。また、彼らは、律法を守って体に割礼を受けるユダヤ人たちから、割礼のない無割礼の人と呼ばれていました。(11節)

信仰を持つ前の異邦人たちは、天地創造の神の契約から除外されていました。そのため彼らは、天国に入る望みはありませんでした。(12節)

しかし、神は異邦人をキリストによる救いにあずからせてくださいました。
キリストを信じた異邦人は、キリストの血によって罪が赦されました。

救われる以前は神から遠く離れていた異邦が、救われて神の民に加えられたのです。異邦人がユダヤ人等しい立場を得て、天国を相続する資格を与えられたのです。(13節)

2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

Ⅱ―2キリストの十字架によって、神との平和が実現した。
キリストは人と神との間にある敵意を廃止されるために来られました。

律法は、神と人間を隔てるものです。律法は人間を罪に定め、神の怒りを下らせるからです。しかし幸いなことに、キリストによる十字架の贖いによって、信じる者は、もはや律法によって罪に定められない者なりました。
また、キリストはユダヤ人と異邦人の間にあった敵意をも廃止されました。
なぜなら、律法を与えられていたユダヤ人も、与えられていなかった異邦人も、キリストを信じることによって、キリストを王とする同じ国の民になったからです。
異能人とユダヤ人の間の優劣は取り除かれて、同等の立場が与えられるようになりました。(15、16)

2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

Ⅱ―3異邦人も、イスラエルの聖徒たちと同じ神の家族に加えられた。
キリストは救いのみわざを成就されました。十字架で死んで復活されました。それから、神の国から除外されていた異邦人たちに、福音が知らされました。また、神と近い関係にあったけれども、神の命令を守れないで苦しんでいたユダヤ人たちにも、「福音」が知らされました。(17節)

ですから、民族に関係なく誰であっても、同じ御霊によって神の子とされ、神を父と呼んで親しく交わることができるようになったのです。(18節)
以前は異邦人と呼ばれ神の国から除外されていたエペソ教会の人々は、今はイスラエルの聖徒たちと同じ民であり、神の家族なのです。(19節)

2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
2:22 このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

Ⅱ―4神の計画は異邦人とユダヤ人が共に教会を建て上げること。
あなたがたの信仰は、使徒と預言者(その当時の預言者)のことばを土台としています。そして信仰の一番重要な土台はキリストです。(20節)
キリストが信仰の土台となって、1人1人が組み合わされて教会が形成されるのです。(21節)
異邦人の信者たちも、御霊によって「神の宮」を建て上げているのです。(22節)

<エペソ人への手紙2章 考察と適応>

考察1 私たちは、生まれながら神の怒りを受けて当然であった。そのような者が救いを与えられた。救いの絶大な価値を心から感謝しよう。1-8節

聖書には、私たちの常識をくつがえす事実が書かれています。
その事実とは、私たちが「生まれながら罪人である」ということです。

それだけではなく、私たちは「神に敵対する者」であるのです。
罪の性質は成長の過程で悪い影響を受けたことによって、持つようになったのではありません。
罪は生来の性質です。

私たちが神に敵対している証拠は、私たちは皆、信仰の無い状態では、神のことに無関心で、自分たちの欲望をかなえることを第一に重要なこととして生きている事実です。また、神に全てを支配されることを嫌うという事実です。

1-8節からわかることは、私たちは、自分からは救いを求めることもなく、救いを得る能力もなかったという事実です。にもかかわらず、神は、ある人々に救いを与えてくださったのです。
滅ぼされて当然な者に、神が愛を注いでくださって救いを与えてくださいました。ここに神の愛が示されました。(  )そして、このことに、救われた私たちの感謝があふれます。こ
この世で一番高価な宝物よりもすぐれた贈り物を、救われた人は与えられたのです。しかも、神はその人が、霊的に死んでいて、神に敵対していたにもかかわらず、救いの恵みをお与えになったのです。これは、驚くばかりの恵みです。

救われた人は、自分に与えられた救いの価値をもっと知るべきです。
そして、もっと感謝しようではありませんか。
次の世で与えられるものを、大いに期待して生きていこうではありませんか。

考察2 救われた恵みを感謝し、自分に与えられる苦労を受けて行こう。

自分は霊的に全く死んでいたのに、神によって生かされたのですから、救いが与えられたこと、神に選ばれたことを、信者が誇ることはゆるされません。
自分に与えられた恵みを心から感謝する者は、救いにともなう労苦を、喜んで負っていく者になります。

神は、ご自分が救った人たちに、「人が愚かと思う福音を伝える」という使命を与えておられます。
ですから、もし、あなたが、人から賢く思われたいとか、好かれたいと思っているなら、あなたはキリストのしもべとして、ふさわしくありません。

キリスト者とは、ガラテヤ6章14節に言われているように、「世は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた」人です。
パウロが、神によって使徒とされたことによって、この世は、彼を役に立たない者とみなした。これが「私が世に対して十字架につけられ死んだ」の意味です。
さらにパウロ側も、律法学者としての地位や名声、この世の富に対して全く魅力を感じなくなった。死んだ人のように、それらに反応しなくなった、それらを喜ばなくなった。これが「世が自分に対して十字架につけられて死んだ」の意味です。
パウロを筆頭として、キリストのしもべとして、福音を伝えるのにふさわし人は、このような人です。

私たちが知ることができた福音には、キリストの真のしもべたちの多くの血が流されていることを忘れてはなりません。
バプテスマのヨハネ、ペテロ、パウロ、使徒たち、ルター、カルバンなど。
世が、総力をあげて福音を抹殺しよう、ゆがめようとすることに対して、彼らは断固として抵抗し、命がけで真理を次の世代に伝えてくれたのです。
彼らの働きがなかったら、私たちは、今もなお、中世の時代のように、霊的な暗黒の状態にあって、真理を知らず、解放されることがなかったでしょう。

私たちも、同様です。召された人には使命が与えられています。
私たちは、その使命を果たすために、困難をも覚悟しなければなりません。
与えられた恵みの深さ、広さ、高さ、大きさを深く知って神に感謝しましょう。
そして、自分が担うべき重荷を、喜んで負って行こうではありませんか。

それらは、将来与えられる幸いに比べれば、とるにたりない労苦だからです。
しかも神は、私たちの限界を知っておられ、逃れる道も用意していてくださるからです。

考察2 救いは神から与えられた。各人がする良い行いも神が与えてくださる。
だから、他者と自分を比較することは無意味。
自分に与えられた働きを神に忠実に行っていく。このことだけが重要である。8-10節

 信仰は神から与えられた賜物です。神が私に聖霊をそそいで信じる心を起させたことによって、信仰は始まったのです。
そして10節からわかることは、私たちが救われた後にする神のための良い働きも、神から与えられるということです。信じた人がする良い行いを、私たちが救われる以前から、神はあらかじめ定めおられるからです。

ですから、自分に与えられた賜物に不満を持ったり、他の人よりも優れた働きをしたいと願うことは罪です。神は各人を目的をもって召しておられ、各人がする働きは違うからです。
私たちとしては、何よりも、救われたことを大いに感謝するべきです。なぜなら、これがもっともすばらしい賜物ですから。
その上で、神の目的に沿って、自分に与えられた賜物や機会を神のために有効に働かせていくことでだけです。そして、救われた人がする良い働きの機会は、神があらかじめ用意していてくださっています。

神は、それぞれの環境に働きかけて、救われた人が神と人とに喜ばれる働きができるように導いてくださいます。ですから神のご計画に任せて、神から与えられる歩みをしていきましょう。

これがキリスト者の幸いな歩みです。このような歩みができることが、神の御手の中で安息して生きるクリスチャンの特権です。

考察3 キリストは平和を実現する。教会は天国のひな型。
キリストを信じるとき、立場の違いはあっても一致が実現する。14-22節

ユダヤ人と異邦人の間には断絶がありました。
ところが、両者がキリストを信じたとき、民族の隔てが打ち壊され、皆が「神の民」になり、互いの平和が実現しました。

このことと同様に、信仰を人生の柱とするとき、立場が違い、生まれが違う人々が1つにされます。救われた人は皆、神の家族の一員になるからです。お互いの立場を超えて、調和と一致が生まれます。

救われた人々は、神をあがめるという共通の目的のために力を合わせ、キリストを中心とした共同体が形成されます。それが教会です。

キリストにある一致は素晴らしいものです。天国とは平和が満ちている世界です。この世において救われた人たちが1つになり、共に集う教会は、天国のひな型と言えます。私たちがこの素晴らしい交わりを体験できますように、また1人でも多くの人がこの幸いな交わりに入れられますようにと祈ります。

 

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