<エペソ人への手紙 3章 要約>
パウロが語る福音は、彼が考え出したものではなく、神から教えられたことを、彼はこの章で証言しています。
エペソ教会が、パウロの苦難を見て落胆することがないようにとパウロは言います。自分がキリストのために受けている苦難は、同じ苦難を共にするエペソ教会にとっての栄光であると、彼らをはげまします。
彼らが、御霊に支配され、内なる人が強められるように、そのことによって、神の栄光がさらにほめたたえられるようにと彼は神に願います。
<エペソ人への手紙3章 解釈>
- 1 Ⅰ パウロに啓示された神の奥義
- 2 Ⅱ 神の奥義を異邦人に知らせることがパウロの使命
- 3 Ⅲ エペソにある教会の霊的成長のために祈る
- 3.1 考察1 神から「救い」が与えられた。これは、計り知れない恵み。 この絶大な価値を、私たちはもっと自覚しよう。
- 3.2 考察2 神に仕えるために、困難を経験する信者を見て落胆してはならない。 かえって、友人がキリストのために戦う姿から、励ましを受け、確信を得よう。
- 3.3 考察3 迫害や困難にあっても耐える信仰は、御霊によって支えられているから。落胆する状況にあるとき、御霊の働きが豊かにあるように祈ろう。14-21節(パウロがエペソ教会の霊的な強めを、神に祈ったことから考えられること)
- 3.4 考察4 キリスト者の人生は、神の支配の内に歩む人生。 自分が自分の人生をコントロールするのではなく、御霊に自分の人生を支配していただく歩みをしようではありませんか。
Ⅰ パウロに啓示された神の奥義
3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。
3:2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
Ⅰ―1 1章と2章に、神の奥義について書いた。
それを読めば、私がどのように神の奥義を理解しているかがわかる。
パウロは、異邦人をキリストに導くために神にとらえられた人でした。
彼が異邦人に福音を伝える使徒になったのは、彼の願いではなく、神が彼を使徒にしたからでした。
このことは、初代キリスト教会では皆が知っていたことで、エペソ教会の人たちも知っていました。
パウロは、神からの啓示によって「キリストの奥義」を知りました。
その奥義は、1章と2章に書かれています。
それらを読めば、パウロがどのように神の奥義を理解しているかがわかります。
ですから、パウロはこの手紙の1章と2章を読んで、神の奥義を理解するようにと、エペソ教会の信徒たちに勧めています。
★エペソ1章と2章に、パウロが理解した神の奥義が書かれている。
私たちも同様に、この章から神の奥義を知ることができる。
3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
1-2 隠されていた神の奥義が、キリストの出現によって世に知らされた。異邦人も「御国を相続する」ことが知らされた。
神の奥義は、キリストが復活されて後、使徒たちや預言者たちに啓示されました。しかし、旧約の時代は、イスラエルの民だけに啓示が与えられました。
しかも、預言者だけに、神は語られました。
しかし、キリストによって啓示された神の奥義は、異邦人とユダヤ人が共に神の国を相続するというものです。
★キリストが到来する以前は、ユダヤ人にだけに「御国を相続する約束」が与えられていた。ところが、キリストの復活以降、異邦人たちの中からも「御国を相続する者たちが起こされることが、啓示されたのです。
Ⅱ 神の奥義を異邦人に知らせることがパウロの使命
3:7 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
Ⅱ―1パウロは、神の恵みによって使徒とされた。
使徒として一番ふさわしくない自分に、この務めが与えられた。
パウロが使徒とされたのは、神の力が彼に強く働きかけたからでした。
そのために、彼の心は全く変えらえました。(7節)
★パウロは、自分が使徒として一番ふさわしくない者だということを深く自覚していました。このことは8節で「小さい」というギリシャ語に、「最も」という言葉を考えだして付け加えていることからもわかります。
パウロが謙遜だから、このように書いたのではありません。
彼は、自分が使徒として、一番ふさわしくない者であったことを自覚していたから、このように告白しているのです。
救われる以前の彼は、キリスト者を迫害し、多くのクリスチャンを捕らえて殺していました。
彼は、クリスチャンたちを迫害する思いに燃えて、ダマスコに向かう途中、神の光に照らされて、イエスが神であることを知らされたのでした。
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 また、万物を創造した神の中に世々隠されていた奥義の実現が何であるかを明らかにするためです。
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠のご計画によることです。
Ⅱ―2 使徒として一番ふさわしくないパウロに与えられた使命は、異邦人たちに神の奥義を知らせることだった。
パウロの務めは、キリストがもたらす恵みを異邦人に伝えることです。
自分たちの考えをはるかに超えて素晴らしい、キリストによる救いを異邦人に知らせることです。(9節)
キリスト以前の時代には隠されていた、神の奥義の実現(救いや天国など)がどのようなものかを知らせるためです。
神の奥義の実現については1.2章に書かれています。
要約すると、キリストへの信仰によってユダヤ人も異邦人も御国を相続するということです。
神の知恵は、人間の知恵を遥かに超えて深いものです。ですから、この奥義を人間は知らなかったし、天使ですらも知らされていなかったのです。
★神の奥義は、キリストの到来で明らかに知らされるようにと、神はあらかじめ(永遠の昔から)定められておられたのです。
3:12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
3:13 ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。
Ⅱ―3 キリストによって、私たちは大胆に神に近づけるようになったのです。
ですから私の苦しみを見て、落胆することがないようにお願いします。
キリストによって、信者は神のさばきを恐れる必要がなくなりました。
神と信者の断絶は解消されました。
ですから、キリストの到来によって、信者は大胆に神に近づくことができるようになったのです。
エペソの信徒たちに神の奥義を伝えたためにパウロが受けている苦難は、パウロが伝えた福音が本当であることの証拠です。パウロは自分が伝える福音に確信をもっています。事実、彼は天国を見たのです。
だから、自分の命の危険を犯してまでも、人々を救うために、パウロは戦っているのです。
ですからパウロの苦しみを見て、エペソ教会の人たちは信仰を持つことを恐れたり、止めたりしてはいけません。
「私の苦難を見て疑うのではなく、かえって神への確信を強めなさい」とパウロは励ましています。
パウロの投獄によって、エペソの信徒たちが動揺しないようにとパウロは願っています。
★パウロが受けている苦難は、この福音が、命をかけてでも守り通す価値のある確かなものであることの証拠です。ですから、パウロの苦難は信じる者たちの栄光なのです。
Ⅲ エペソにある教会の霊的成長のために祈る
3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
Ⅲ―1信者たちのことを父なる神に願う。
神が、信者についての全てを備えてくださる方だから。
パウロは、教会が霊的に強くなることを「父なる神」に祈り求めています。
教会に、すべてを備えてくださる方は、父なる神だからです。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
Ⅲ―2 御霊の力強い働きによって、信者の「内なる人」が強められるように祈る。
御霊が力強く働きかけて、あなたがたの心の王座をしめてくださるように。
その結果、あなたがたの内なる人が強められるようにと祈っています。
御霊の働きが、信徒の中に食い入るまでに深く関わり、信徒を支配するようにと祈られています。
注)原語では、内なる人の「中に」となっていて、内なる人に「ついて」でもなく内なる人の「ために」でもない。これは外から加えられる力が、人間の内に入り込んで、内なる人のただ中に食い入り占有するまで、という意味がこめられている。(新聖書注解より)
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
Ⅲ―3 「キリストの内住」が与えられるように祈る。
信仰によってキリストがあなたがたの心の内に永遠に住んでくださるように。注)「住むようになる」は定住する、永遠に住むという意味。
御霊は信者に降るだけではなく、信者の内に永遠に住まわれます。
御霊の内住によって、信者は神の奥義について、キリストの愛についての知識が与えられます。
その結果として、神のさまにまで満たされることができます。(17,18節)
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
Ⅲ―4 異邦人たちも、ユダヤ人に劣らずキリストの奥義や愛を深く知り、
御霊に満たされる者になるように祈る。
聖霊の働きかけによって、あなたがたは愛に深く根差して生活し、愛に基礎を置くように。(17節)
異邦人たちも、ユダヤ人に劣ることなく、キリストの奥義を深く知ることができるようにとパウロ祈ります。(18節)
人間の理解を遥かに超えたキリストの愛の大きさ素晴らしさを、異邦人が知ることができるように。(18)
神が与えてくださる豊かさによって、あなたがたが満たされるように。(19節)
これらのことを、神がエペソ教会の人に実現してくださるようにと、パウロは神にささげます。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。
Ⅲ―5 上記の祈りが、私たちの願いをはるかに超えて答えられることによって、神の栄光がたたえられますように祈る。
私たちの願いや思いをはるかに超えて、神は私たちに恵みを与えることができるお方です。パウロは上記に祈った祈りを、神がかなえてくださるようにと願ります。
これらの祈りが、かなえられることによって、さらに神がほめたたえられますようにと、パウロは祈ります。
<エペソ人への手紙3章 考察と適応>
考察1 神から「救い」が与えられた。これは、計り知れない恵み。
この絶大な価値を、私たちはもっと自覚しよう。
考察1-1「救い」は神から与えられた賜物。人間の決心や努力によらない。
パウロはこのように理解していた。(エペソ1章から言えること)
私たちは救われたこともっと感謝するべきです。
救いは、天地が造られる以前からの、神の計画によって与えられるからです。
神はあなたを選び、神が定められた時が来て、あなたは救われたのです。
このようにパウロは理解していました。(1章と2章から)
考察1-2 各人の「救い」には、「務め」が定められている。
パウロは救われたとき、救いを受けただけではなく、異邦人に伝道する使命が与えられました。(エペソ2:8-9)
私たちも同様です。私たちも、救われたときに「救い」だけではなく、神のための「務め」が与えられるのです。
神は、神の計画を完成させるために、各人に違った賜物を与えておられます。
ですから、信者は、自分に与えられた賜物を知ること、そして自分に与えられた賜物を用いて奉仕する責任があります。
神は彼らの心に働きかけて「思い」を与えてくださいます。(ピリピ2:13-14)
さらに神は、彼らの環境に働きかけて、彼らが「ある事」をしなければならない状況を備えられます。(エペソ2:10)このようにして、クリスチャンは神の使命が何かを知らされ、実行することになります。
考察1-3 神に従う人生に、困難はつきものである。
しかし、救われた人は「将来天国で与えられる永遠に続く幸い」に比べれば、「今の一時的な困難」は取るに足りないことだと思う。
パウロには、自分の困難を悲しむ気持ちなど、全くありませんでした。
彼は、キリストのために受ける苦難を誇りとしていました。( )
パウロは、「救われて、神のために奉仕できる」ことは、「満ち足りて長生きする」よりも、はるかに素晴らしいことを知っていました。
ですから、彼は牢獄に入れられている時に、自分のために祈ってくれと頼んでいません。そうではなくて、エペソ教会の信者たちが、キリストのために自分が受けている苦難の激しさを見て、信仰を持つことに落胆してはならないと助言しています。キリストのために受ける苦難は、それだけの犠牲を払っても価値があることだからです。なぜなら、キリストは、信者に永遠の幸せを与えてくださる方だからです。
ところが、ある人々は、困難な出来事によって、簡単に動揺させられてしまいます。神の自分に対する愛に疑いを抱いてしまいます。それは、彼らが与えられた恵みの偉大さを理解してないからです。ですから、私たちは、自分に与えられた恵みの立場をもっと深く知り、もっと神に感謝しょう。
考察2 神に仕えるために、困難を経験する信者を見て落胆してはならない。
かえって、友人がキリストのために戦う姿から、励ましを受け、確信を得よう。
考察2-1信仰者の困難は、その信仰が命をかけてでも守る価値があることの証拠。だから、それを見ている人は、元気を失うのではなく、かえって信仰の確信を持つようになれ。
信仰のために迫害を受ける人を見ると、私たちは元気を失います。
キリストへの信頼を失い、信仰を止めるべきではないかと考えます。
特に、迫害の強い国や時代に生きる信者たちは、このことを経験します。
しかし、パウロは「自分の苦難を見て落胆してはならない」と13節に書いています。
死の危険を犯してまで伝道を続ける信者の姿は、その信仰が確かなものであることの証拠です。つまり、この信仰によって必ず天国に入るということです。
ですから、働き人の困難を見て、私たちは信仰への確信を深めるべきです。
考察2-2 パウロの苦難は、神が異邦人を愛していることの証拠。
私たちの苦難は、救われていない人に対する神の熱心の証拠。
パウロの困難は、神が異邦人の救いを強く願っておられることの証拠です。
なぜなら、神は、異邦人の救いを実現したいために、働き人に非常な困難を通らせてでも、福音を述べ伝えさせておられるからです。
私たちも同様です。神が救いをあきらめておられないからこそ、私たちに困難を通らせてでも、失われている人々へ福音を届けさせておられるからです。
私たちの伝道における苦労は、神の熱心の現れです。
ですから、救われる人が少なくても、反対者に攻撃されても、自分に与えられた務めをしっかりと果たしていくべきです。
考察2-3 私たちもパウロのように、神に従うことによって困難な状況を経験しても、他の信者を励ますことができるように戦いたい。
私たちも、迫害や困難に会う時、パウロのように困難を経験します。
パウロのがエペソ教会に対して、「自分の苦難は彼らの栄光なのだ」と言ったように、私たちの苦難も、神に従って戦う他の信者たちを、大いに励ますことになることを信じます。
ですから私たちは、神から与えられた信仰の戦いを、困難にあっても、将来与えられる栄冠から目を離すことなく、勇敢に戦い抜こうではありませんか。
考察3 迫害や困難にあっても耐える信仰は、御霊によって支えられているから。落胆する状況にあるとき、御霊の働きが豊かにあるように祈ろう。14-21節(パウロがエペソ教会の霊的な強めを、神に祈ったことから考えられること)
パウロはエペソ教会の信徒たちが、霊的に成長できるように神に祈りました。
また、彼らの「内なる人」が強められ、彼らが御霊に満たされた者になるように祈りました。
救われた人は、御霊の内住を持つ人です。
そして彼らの信仰を強め、迫害にあっても信仰にとどまり続けるようにさせるのは、神の御霊です。
ある人がキリスト者として、神に忠実に生きるとき、その人は必ず、迫害や困難に会います。
私たちの意志は変わりやすいものです。
このようなことで落胆し、信仰を捨てることも起こりえます。
キリスト者の歩みは、この世の流れに逆らって生きることです。
この世は、サタンが支配している場所です。
ですから、信仰を持たないほうが、だんぜん生きやすいのです。
しかし、信仰から来る困難にあっても、信仰を保ち続ける人たちがいます。
実は、信仰は、人間の意志によって保たれるのではなく、御霊の働きによって、保たれ強められているのです。
ですから、私たち信者は、落胆する状況にあるとき、神の御霊が豊かに働いて、自分の信仰を固くしてくださるように祈りましょう。御霊が、私の「内なる人」を強くしてくださって、困難に耐え、困難に打ち勝つ知恵と力を与えてくださるように祈りましょう。
考察4 キリスト者の人生は、神の支配の内に歩む人生。
自分が自分の人生をコントロールするのではなく、御霊に自分の人生を支配していただく歩みをしようではありませんか。
パウロはエペソ教会の人たちが、御霊によって「内なる人」が強められ、彼らの上に神の支配が満ちるようにと祈りました。19節
キリスト者の人生は、神の御霊の支配の中を歩む人生です。
自分の知恵や自分の計画によるのではなく、御霊の知恵、御霊の導きによって歩む人生です。
ですから、私たちは御霊に支配される者になりましょう。
このことを可能にするのは、自分ではなく、神です。
ですから、御霊が自分に豊かに働きかけてくださるように祈りましょう。
そして、自我が御霊の働きを妨げることがないように祈りましょう。
自分の願いを優先して、御霊の導きを無視してはいけません。
私たちは、自我が勝って、苦労することがないようにしたいものです。
信者は、神にゆだねて歩むことが、一番安全で、幸せだからです。
20節に書かれているように、神は、私たちの願いを、はるかに超えて、私たちに豊かに与えることができるお方だからです。