2編2章1/
神から独立した人間固有の善は存在しない
- 人間が最高に造られた時でさえ、「神の形」似せられて造られたにすぎない。
人間は固有の善をもつことによってではなく、神にあずかることによって祝福を得る存在である。
聖書は、人間が最高の栄誉の頂点に立ったときも、「『神の形』にかたどってつくられた」ということ以上の価値を人間に与えていない。 - 人間に限界があることは、私たちにとって益である
人間に限界が定められていることは、神に栄光を帰するために益である。もし、神にゆるされていることを超えるなら破滅することを、私たちが学ぶためにも有益である。 - この議論を極端にきらう人がいる。
けれども、これは宗教においては必然的なものであり、われわれにとって最も有益なものである。
2編2章4-6/
神と対等に働く、人間独自の自由意志を認めた古代の教師たちは誤った
- なぜ彼らは、「神が介入しない人間独自の自由意志」を働せる能力があることを認めたのか。
- 第1に、他者からの批判を恐れたから。
- 第2に、善を意志し実行することに、人々が怠慢になることを恐れたから。
- 彼らが自由意志について教えたこと。
- 人間には自由意志ある。神と人がともに働いて、物事が進んでいく。(神人共働の考え方)
- 人間は、善も悪も選択できる意志を持つ。人間には、どちらも選択する意志の力がある。
- 彼らの教えが間違っている理由。
- 人間の意志と神が共に働いて物事が進むなら、結局は人間の意志次第ということになる。
なぜなら、たとえ神が意志したとしても、人間の同意なしには何事も起きないからである。 - 人間は善も悪もどちらも選択もできる能力を持っているわけではない。
人間には限界がある。そのことが善であると知っていても選択できないことがある。
また、そのことが悪いとわかっていても、止める選択ができない時がある。
人間には自由意志があると聞くと、人間は自分の意志の主人でどのような選択もできる能力があると考える。しかしこれは間違っている。
- 人間の意志と神が共に働いて物事が進むなら、結局は人間の意志次第ということになる。
2編2章8/
人間の意志は罪に惹かれいて、自由に神の御心を選択できない。
- 人間の意志は御霊なしでは自由ではない。
それは情欲(罪の思い)に従うために、善悪を自由に選択できないことが生じる。 - 人間は罪が入ったことにより、善悪を自由に選択する能力を失った。
人の心は罪の思いに従う。全ての人が罪人である。そこで、罪を犯す選択をしてしまうことが生じる。
人間は、いつでも善を選択できる能力があるとは言えない。聖霊が与えられて、意志が自由にされた後でも、主から離れて自分の選択で善を行ったとは言えない。 - 理性は低次のこと(政治、科学など)について理解するが、高次のこと(神)について理解できない。
理性はあるが、損得によって、人間に罪を選択させるよう導くことがある。また理性は神を理解できない。理性は罪に対する神の刑罰を恐れない。そのため理性も人間の意志を正しくコントロールできないことが生じる。 - 良心はあるが、それは彼らに善を選択させるまでの力はない。
人間は罪を犯したとき、良心の呵責を感じる。それは、自分が罪を犯したことを認めているからである。
しかし、彼らは罪を止めることができなかったり、罪のつぐないから逃れるために、嘘をついたり、罪を隠し続けたりする。
2編2章12,13章/
人間の意志は神の御霊を受けて、はじめて自由にされる。
- 人間は霊的賜物を失った。恩寵のみがそれを回復する。
人間は、罪が入ったとき霊的賜物を失った。そのため意志が自由に善を選択することができなくなった。
しかし、神からの恩寵を受けた者、キリストを信じ聖霊を与えられた者は、その能力が回復される。 - この恩寵は、神から与えられる超自然的な賜物である。
この賜物(御霊=神の霊、神の臨在)は、生まれつき全ての人は持っていないもの。
これは、神から与えられる。だから、与えられた人は本当にラッキーなのだ。
2編2章18/
御霊なしでは、神の奥義は「おろかだ」と思う。
- 「神を知ること」「われわれに対する神の慈愛」「神の定めに従って、どのように生きるべきか」
これらを、理性によって知ることはできない。 - 生まれたままの人間には創造主のことは理解できない。これは御霊によって認められることであるから。
天地の創造主キリストのことである。理性にとっては「おろかなこと」としか思えない。
「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じ る者を救おうと定められたのです。」1コリント1:21
2編2章19-21/
神が「神の奥義についての理解」を人に与える
キリストや使徒たちのことば
- イエス・キリストの証言
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父 です。マタイ16:15~17
ペテロはイエスを、「救い主キリスト」だと告白した。イエスは、その理解をあなたに与えたのは、天の父なる神だと語った。つまり、神にについての正しい理解を与えるのは神だという意味。わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。ヨハネ6:44
たとえ、私たちがキリストについて聞いたとしても、私たちの内なる教師である御霊が人々の心を開くのでなければ、私たちは何も悟ることができない。神が引き寄せ、神の御霊によって教えられた者でなければ、キリストを神だと認めることはできないという意味である。預言者の書に「そして、彼らはみな神によって教えられる」と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。ヨハネ6:45
キリストは、神についての知識は、神によって教えられると証言しています。そして、教えられたものは、みなキリストのもとに来て、キリストを神と認めるようになると言っています。 - バプテスマのヨハネの証言 (イエスの宣教のための道備えをした人)ヨハネの弟子たちが、人々がイエスに集まるのを心配してヨハネにが語った。
「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授 けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」ヨハネ3:26しかし、バプテスマのヨハネは弟子たちを戒めた。ヨハネ3:27,28
ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である。』と私が言ったことの証人です。
私から人が離れて行っても、それでいいのだ。イエスが神であり、イエスの道備えをするために、私は召されているのだから。この理解は、弟子たちにはできなかった。ぜなら、神についての悟りは神が与えるものだからである。ヨハネも、神についての理解は天の父が与えると告白している。
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使徒ヨハネの証言 (イエスと一緒に伝道した弟子。イエスの復活を目撃した。)
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。ヨハネ1:12,13この方とは、イエス・キリストのこと。キリストはご自分が創造した世界に来られた。しかし多くの人々はキリストを受け入れずに、十字架にかけることに賛成した。しかし、彼らの中にキリストを信じた人もいた。これらの人々は神によって起こされた人である、という意味。
使徒ヨハネは、神の御霊によって照らされない限り、人間は神を理解できない。つまり、神の御霊が与えられなければ人間はキリストを神と告白できないと証言している。そして、キリストを信じる人々は、神によって起こされると証言している。 - 使徒パウロの証言 (復活したイエスから直接教えられた弟子)
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊 のことは御霊によってわきまえるものだからです。
1コリント2:14
神の奥義は人間の知恵や理性では理解できない。ただ、御霊の啓示によってのみ、明らかにされ、神の御霊が照らさなければ、人には「おろか」としか考えられないという意味。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてく ださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け 継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知 ることができますように。エペソ1:17,18
パウロは、神についての理解をあなたがたに与えてくださるようにと、神に祈っている。これは、生まれつきの人間に備わっている能力ではなく、神からの賜物だからだ。パウロは、キリストを神と告白する理解は神からの助けがなければできないことを告白している。聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。1コリント12:3
イエスを神だと言うだけであれば、誰でもできるでしょう。しかし、イエスを自分の人生の主人として迎え、イエスの教えに従って生きるとか、イエスのために生きること誰にでもできることではありません。
パウロは、このことは人間にはできない。聖霊によらなければできない。人間に神からの特別な恩寵が与えられなければできないことだと証言しています。
- イエスが、信者たちに聖霊が与えられるのを待ちなさいと指示したこと
キリストの復活後、信者たちはおびえて隠れていた。イエスは、「聖霊」がくだるのを待つように指示された。そして、彼らに聖霊くだったのち、彼らに力が与えられた。彼らは死を恐れず信じる者、イエスのことを伝える者に変えられた。
このことは、人間の意志や決心だけでは信仰を保ち続けることはできない。迫害に耐え、力強く伝道するためには、聖霊が与えられなければならないことを意味している。