ガラテヤ人への手紙 第1章「別の福音にだまされるガラテヤ教会の人たち」

あいさつとしての祈りのことば
1-3節

 使徒となったパウロ、およびパウロの周りにいる兄弟たちから。
ガラテヤの諸教会に神の栄光がありますように。
自分が使徒となったのは、人間からでたこと(パウロの願いや計画から始まったこと)ではなく、また人間の手を通したこと(誰かにに教えられてなった)のでもなく、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。パウロは、神によって立てられた使徒である自分の身分を明らかにします。そして、この手紙は、神の意志を伝える使徒からの手紙です。

キリストのみわざをたたえる4節
パウロの福音理解がここに要約されている。
この世は罪による腐敗で堕落しています。私たちは生まれながら神と敵対していて、自分の思いに従って生きています。そして、私たちの思いは罪によって歪められており、必然的に神に反抗するため、この世に悪が満ちるようになりました。
この節には、キリストが何のために死んだのかが、簡潔に書かれています。

キリストが死んだ1つ目の理由は、私たちの罪を赦すためです。(罪のためにご自身をお捨てになった)
つまり、ご自身が信じる者の罪のためのいけにえとなって死ぬことにより、信じる者への神の怒りをなだめて天国に入れるためです。
もう1つの理由は、信じる者を悪の支配から解放して、神の支配下に入れるためです。(今の悪の世界から救い出す)

別の福音を伝える者、信じる者たちに警告する
6-10節

あなたがたが、こんなにもはやくかき乱す者たちに影響されて、ほかの福音に移っていくのに驚いている。6-7
ガラテヤ教会にエルサレムから教師たちが来て、彼らの信仰をかき乱しました。ガラテヤの人たちは、パウロが宣べ伝えたのとは違う「ほかの福音」を受け入れるようになっていました。
「ほかの福音」といっても、パウロが伝える福音の他にも別の福音があるのではありません。神の福音は1つです。ですから、パウロの後から来た教師たちが、キリストが成就した福音を変えてしまおうとしているだけです。
(彼らの福音は、真理ではありません。違った福音です。)

別の福音を宣べ伝える者はのろわれよ。8-9
わたしたちであろうと天のみ使いであろうと、パウロたちが宣べ伝えた福音に反することを教える者はのろわれるべきです。
自分たちであっても、天のみ使いなどの、誰もが権威を認める存在であっても、神の福音に反することを宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。その者の言うことを聞いてはいけません。

ガラテヤ教会の人々は、パウロが宣べ伝えた福音を信じることによってキリスト者になったのでした。しかし彼らは、偽りの教師たちが自己宣伝する権威を信頼し、彼らのたくみな言葉にだまされてしまったのです。ガラテヤ教会の人たちは、パウロから聞いた「はじめの福音」に立ち帰らなければならないのです。

人の歓心を買う思いは私にはない。そうであれば私はキリストのしもべとは言えない。私はキリストのためにガラテヤ教会の罪を責める。10
パウロには、人からの賞賛を得たいという思いはいっさいありません。彼はただ、神からの賞賛を得るために、また神のみこころを成すために働いています。そして、たとえガラテヤの人々から反感を買ったとしても、彼らの罪を見逃すことはしません。なぜなら、キリストの福音の光を輝かせなくする、いっさいの試みを認めるわけにはいかないからです。もしパウロが今なお、人からの良い評判を得ようとして、ガラテヤ教会の罪を責めないなら、自分自身をキリストのしもべであると言う資格がないとまでパウロは断言しています。

自分(パウロ)は、直接神から召命を受けた。
自分が語る福音は、人から教えられたものではない。
神からの直接啓示によって知らされた。
これらの証言によって、パウロは自分が「使徒」であることを証明した。
1章11節から2章10節

私が語る福音は、イエス・キリストの啓示によって受けた。11-12
パウロが語る福音は人間によるものではない、つまり人間が考えだしたものでも、人間から受けたものでもありませんでした。つまり、誰かから教わったものではないと言うことです。ただ、神から啓示を受けて知ったのです。このことを証明するために、パウロは、自分が使徒とされたことの経緯を以下に話します。

使徒となった経緯を説明する。13-24
私は律法を守ることに人一倍熱心で、キリスト教会を滅ぼそうと、熱意に燃えていた者であった。
私は熱心なユダヤ教徒で、自分と同族で同年輩の多くの者にくらべて、はるかにユダヤ教を学んで知っており、先祖からの伝承(律法)を人一倍熱心に実践する者でした。ユダヤ教に対する私の熱心は、キリスト教徒たちを迫害して、教会を滅ぼそうとするほどでした。

神の啓示によって異邦人の使徒として召された。15-16
これは、私が生まれる前からの神の選びのご計画によることであった
生まれた時から私を選び分け、異邦人たちにキリストを宣べ伝えさせるために、私を召してくださった神が、私のうちに御子キリストを啓示してくださって、私は使徒となったのです。

神の啓示を受けてからも、すぐには使徒たちに会わなかった。16-24
パウロは救われて後、エルサレムとは関係なく、自分で伝道していたと思われます。アラビヤ地方で2年ほど、それからダマスコに戻るがすぐに逃げなければならず、救われてから3年したころエルサレムを訪問して使徒に会い15日間滞在し、その後シリヤ、キリキヤ地方で伝道しました。パウロのうわさはエルサレム教会に届いていました。

彼らは、パウロに会ったことがありませんでした。しかし、「教会を迫害していた者が、今はキリストを宣べ伝えている」ということを聞いていました。そしてユダヤの諸教会は、キリスト者を迫害するほど神に反抗する魂をも、神は立ち帰らせることができることを知って、パウロのことで神をほめたたえていました。

<ガラテヤ人への手紙1章 考察>

 

考察1 「今の悪の世から救い出す」 4節のところから、
キリストは、私たちを何から救い出すのかを考える。

 堕落した人間の本性によって、この世は悪の支配にある
救われた者は、この世から分離される。彼らは新しい生き方をする。

この世に悪が満ちているのは、人間が神と断絶した結果である。

この世に悪が満ちているのは、人間が神と断絶した結果です。

アダムとエバは、神の戒めを疑い、神の命令にそむきました。その時から、生まれて来る全ての人は、善悪の判断を神に聞いて従うのではなく、罪によって歪められている自分の判断に従うようになったのです。

神は、私たちを今の悪の世から救い出すために、ある人々に聖霊を送って、彼らを生まれ変わらせます。このことによって、新生した人を、罪の支配から解放し、神の支配の下に入れます。救われた人が、善悪の判断を自分の考えによるのではなく、神によって教えられて生きるためです。

人間の本性は生まれながら悪。修正しようがない。だから新生が必要なのです。


あなたは、このことが悲観的過ぎる考えだと思いますか。
ではなぜ、イエスは「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われたのですか?

新生とは、古い人が死んで、新しい人が生まれることです。

私たちの古い人、つまり生まれたままの本性は罪であり、腐敗が全ての領域に及んでいるため、改善によっては、もはや天国に入ることができない。
だからこそ、「新生」が必要だとイエスは言われたのです。

ですから、生まれたままの本性を葬り去って、神から与えられる「新しい心」で生きる新生によってしか天国に入る道はないのです。

そして、新生した人たちは、外から見たら依然と変わらないようですが、彼らの魂は、信じた瞬間から神の支配の下に移されています。

彼らはこの世に住んでいますが、この世から分離されています。彼らは、この世が提供する快楽や、今まで楽しんできた罪を、楽しいと思わなくなります。

そして、神に仕えることや、神を知ること、神のみこころを行うことを、求めるようになります。彼らは、新しい人生の目標のために、今までと違う歩みをするようになります。これが、新生した人の歩みです。

もし信じた後も、罪を楽しみ続ける人がいるなら、その人が告白する信仰は、あやしいものです。自分の利益のために「不正」や「うそ」を用いることや、「快楽」「不品行」をひそかに楽しむこと、「人生の目標」「楽しみ」などが、救われる以前と変わらないのであれば、その人の信仰には問題があると言わざるをえません。

考察2 福音を述べ伝える人にとっての、重要な心構えを教えられた。8-10節より

人からの歓心よりも、神が栄光を受けられることを望む。
神の栄光を曇らせるいっさいの試みに対して戦う。

人間は、生まれながら神との関係が途絶えているために、神よりも自分が栄光を受けようとします。つまり、神の栄光を曇らせようとするのです。
その一つの例が、人間の修行や努力によって、義が得ようとすることです。
この方法は、この世で歓迎されます。ガラテヤ教会に入り込んだ教師たちは、律法を行うことによって義とされる道を説きました。

しかし、パウロの宣べ伝えた福音は違います。パウロは、人間には、神が満足される完全な義を獲得することが不可能だと説きました。さらに、天国に入ること可能にする義は、神に自分の罪をゆるされることによってのみ得られることを説きました。神が良しとされる義は「行い」によるのではなく、「信じる」ことによって与えられる、これが、パウロの説いた福音です。

人間が義とされるために何もできないと聞くことは、人間にとって、屈辱的なことです。自分たちの尊厳をおとしめられることです。
ですから、パウロが説いた福音は、人からの好感を得ることを期待するなら、語ることはできません。

しかし、パウロは、違った福音を語って、人々から好感を持たれていた教師たちと戦いました。
なぜなら、彼らの説く教えでは、人は救われないからです。

パウロは、人からの支持や尊敬よりも、神からの「良い働きをした」という評価が重要だとしていました。
この姿勢は、福音を宣教する人にとって、基本とする姿勢です。
福音を述べ伝えることにおいて、人の顔色をうかがわない、たとえ聞く人が気を害したとしても、福音の全てを語る。パウロから、今一度、これが正しい伝道者働き方であることを教えられました。

なぜ、パウロが信じた後、誰にも会っていないことをここまで主張しなければならなかったのか。

パウロは、自分が神の啓示を受けた後、使徒たちに会わなかったことを、事細かく説明しています。
3年後に、ケパに会いにエルサレムに行きましたが、短い滞在で、これは彼が行く道の途中に立ち寄ったと思われ、訪問の目的は、教えを受けるためではなく、パウロが教える福音が正しいことの確認のためであったと思われます。
2章には、14年後に再びエルサレムへ訪問して使徒たちに語った時に、彼の語る福音に使徒たちは何一つ付け加える必要がなかった。つまり、パウロは完全な福音を語ったということが述べられています。そして、神がみわざをなして、パウロを異邦人の使徒としてくださったことをユダヤ人教会が認めたことが書かれています。

なぜ、パウロは自分が誰からも教わっていないことを証明する必要があったのでしょうか。

それは、彼が「誰からもキリストの福音を聞いたことがなかったこと」を明らかにすることによって、彼が福音の知識を神からの直接的な啓示によって知らされたことを証明したかったからです。
つまり、自分は確かに神から直接の任命を受けた、「使徒」であることをガラテヤ教会に認めさせるためです。

パウロが1人の信者に過ぎないのか、それとも神に立てられた「使徒」であるかは、非常に重要な問題です。
信徒であれば、聞き従う必要はないからです。
しかし「使徒」であれば事情は違います。「使徒」は教会の教職の首位を占め、福音の真理及び教会の秩序の権威ある解釈者または監督です。

ですから、「使徒」であることを証明したパウロは、ガラテヤ教会が彼の指導に従わなければならないと言いたかったのです。

考察3 ユダヤから来た教師たちは、自分たちが慣れ親しんだ信仰の実践を異邦人に行わせた。彼らは、キリストが成就した新しい契約を理解していなかった。新しい契約に基づく信仰の実践を教えることができなかった。

ユダヤ人教会では、キリスト者になっても、律法を守り続けていました。
彼らは、律法に違反すると、不義となる恐れを抱いていました。

また、神にはじめに選ばれて信仰を与えられたユダヤ人民族を誇る思いと、神から遺棄されていた異邦人たちへの見下しの思いは、キリスト者となった後も、ユダヤ人たちに残っていました。彼らにとって、救いにおいての民族的な壁は取り払われませんでした。

ユダヤ人キリスト者は、異邦人と一緒に食事をすることはありませんでした。
しか、パウロは、全ての信者は神の国に属する民、ユダヤ人と異邦人の違いは、もはやなくなったと教えました。その実践として、パウロは異邦人と共に食事をしました。 

今の時代も同様です。教師たちは、福音にそって、信徒たちが実践できるように指導しなければなりません。
教会の伝統や慣れ親しんだ儀式を、聖書の教理に照らすことなく、無批判に正しいこととして、信徒に教えることは誤りです。

ですから、正しい実践をするためには、正しい聖書理解が欠かせません。
幼いころから教会に通う人や、1つの教会での信仰歴が長い人などは、自分たちが経験して来た教会の在り方に固執する傾向があります。
また、信者と言われる方の中には、聖書ではなく、自分の人生経験から導きだされた信念のほうを大切にする方がいます。しかし、神の思いは人間の思いとは違います。神の思いは人間の思いを遥かに超えて高く深いものです。(イザヤ55:8-9、ローマ11:33)

ですから、私たちはいつも、自分の経験や考えに信頼するのではなく、聖書が示す真理を第一にして、実践していきましょう。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?