<5章全体の要約>
キリストへの信仰に律法を加えることによって、救いが完成すると考えたガラテヤ教会の人々。彼らは天国を相続できなくなる危険な立場にあることを警告する。また、律法は人間の努力ではなく、御霊によって守られることを教える。
ユダヤから来た教師を追い出しなさい
救いの条件に、律法を入れてはならない
1-12
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
律法を守るによって救われようとしてはならない。
キリストの自由にとどまりなさい。律法のくびきを負ってはならない。
救われる前のガラテヤの信徒たちは、律法によって罪を判断される者でした。
そして、悲しいことに、その律法によれば、彼らは確実に滅びに定められるしかありませんでした。その彼らのために、キリストは身代わりとなって、彼らの罪の生贄を神に捧げてくださいました。その結果、彼らは律法によっては、もはや罪に定められない特権を与えられました。
これが「キリストが与えてくださった自由」です。ガラテヤの信徒たちは、この自由の立場にとどまらなければならないのです。
ですから、ユダヤから来た教師たちにだまされて、もう一度、自分から律法の重荷を負うようなことになってはいけません。
せっかく、キリストによって与えられた自由を、彼らは失ってしまうからです。
5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。
救いのためにキリストを100%頼りにしなければならない。
少しでも律法頼るなら、キリストはあなたにとって無益となる。
キリスト者が。割礼を「受ける」か「受けない」かは、どうでもいい事柄ではありません。この儀式の背後に、律法を重んじる信仰が結びついているからです。
パウロは、この教えに真っ向から反対しています。
そして、もしあなたが救いを得るために律法に頼るなら、あなたは、キリストによる罪のあがないを無益にすることになると、パウロは言います。
5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。
律法を信仰にプラスするなら、あなたは救われない
救われるために律法を守るのであれば、律法全体を行わなければなりません。
人間に、そのようなことは不可能です。ですから信仰に加えて、律法を救いの条件にするなら、誰1人救われないことになります。
5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
律法によって義と認められようとすることは、信仰によって義とみされることを否定することです。その人はキリストを必要としません。
このような人は、信仰によって救われるという、神の恵みが適応されない人です。
5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。
(御霊によって ギリシャ語ではin spirit)
キリスト者とは、義とされ天国を約束された者です。
私たちは、御霊により、信仰によって、天国を熱心に待ち望んでいます。
行いにより、律法により義を得ようする人達に対して反論している。
信仰が愛の行いを生み出し律法を全うさせる
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。(この愛はアガペー=神の愛)
聖霊を受け、キリスト者とされた人、キリストの内住を持つ人にとって、
割礼を受けるかどうかは、大事なことではありません。
それよりも、神の愛によって、人格や生活に見える形で現わされていく信仰(良い実を結ぶ生きた信仰)があるかどうか、このことだけが大事です。
5:7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。
5:8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。
ユダヤ人教師たちの勧めは真理ではない
ガラテヤの信徒たちは、正しい信仰を保っていました。しかし、ユダヤから来た律法主義的教師たちが、彼らを混乱させました。パウロは、「彼らの教えは、神から出たものではない」と断言します。
5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。
わずかのパン種が、粉全体を発酵させてふくらませます。それと同じように、偽りの教えは、はじめは少人数であっても、教会員に広まって、教会の信仰を変質させます。
5:10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。
偽りの教えを広める者は、誰であろうと神のさばきを受ける
ガラテヤ教会の人たちが、自分の意見に同意してくれるとパウロは確信しています。パウロの期待通り、ガラテヤ教会はパウロの期待を裏切らなかったはずです。
偽りの教えを広めて教会をかき乱す者は、誰であろうと、神にさばかれます。
たとえ人々から評判のいい、人気のある教師であってもさばかれます。
5:11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。
5:12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。
救いは信仰のみによる 律法による救いを否定したパウロ
パウロは、福音を曲げる者たちを本当に嫌っています。
なぜなら、神がパウロに与えた使命は、彼に授けた福音を人々に伝えること、保たせることだったからです。
その使命を全うするために、彼は、命がけで反対者たちと戦っていたからでした。
御霊に従いなさい。そうすれば、教会に調和が生まれる。
13-26
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
自由な立場を、欲望のためではなく他者に仕えるために用いなさい
義の立場が保証されることは、信者たちに罪を犯す機会を与えることにはなりません。
信者たちは、律法の罪定めから自由にされた特権、神の子とされた特権を、自分の欲望を満たすためではなく、他者に仕えるために用いなさいと、パウロは勧めます。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。
「自己を愛するように他者を愛する」
神への愛を源として、この戒めを守りなさい。
「神を愛する愛」が、「他者への愛」の源泉です。神を愛する者は、その愛を「他者への愛」として現わします。きリスト者たちは、信仰を持たない時は、「自己愛」から「自己の利益」を追及する生き方しかできません。しかし信仰が与えられた後は、信仰が生み出す愛によって隣人に仕えるようになるのです。
5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
真理から外れたために、教会内に争いが生じていた
ガラテヤ教会に信者間の争いがあったようです。その原因は、彼らの信仰が真理から反れたためでした。肉の思いが勝って、自分の利益を優先していたからでした。
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
御霊によって歩みなさい。そうすれば肉の行いを制御できる。
御霊によって歩むなら、肉の欲望を決して満足させることはない。キリスト者が肉と戦う秘訣はこれである!
キリスト者の歩みは、この世の命が終わるまで続く霊と肉との戦いです。
キリスト者となった後も、肉の思いが生じて心に葛藤を覚えます。
未信者の場合、この葛藤に自分の力で立ち向かうしかありません。
しかし、自分の力で、自分に生まれつき備わる肉の思いを、完全に制御できる人は1人もいないと、聖書は何度も語っています。
心に沸き上がる罪の思いを、たとえ一時的に抑えるとはできても、完全になくすことはできません。これは日々、私たちが経験している事実です。
ところが、信者が罪と戦う方法は、上記とは全く違った方法です。
信者の内には御霊が宿っています。
ですから、信者は御霊に従って、罪を制御する方法が与えられています。
神から与えられた「御霊の思い」と、生まれつき信者に宿る「肉の思い」とは正反対です。
ですから、肉の思いをかなえることがないために、御霊の思いに従うのです。
これが、キリスト者が自分の罪と戦う秘訣です。
語句説明:17節の「自分のしたいと思うこと」は、キリスト者が望む善行
参考聖句:しかし、肉と霊が葛藤するため自分のしたい善を行えず、したくない悪をおこなってしまうのである。(ローマ7:15-19)
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
肉の欲望が生じさせる悪徳
信者であっても御霊に従わないなら、上記にある「肉の行い」をするようになります。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
御霊が生じさせる徳
しかし信者が、御霊に従うなら、御霊が生じさせる「徳」が信者の内に形造られます。
信者は、御霊が生み出す「徳」によって律法を守ることができるのです。
自分で得を生み出しているのではないことを、覚えておくことは重要です。
その行いは、自分の思いに従わず、聖霊の思いに従った結果、なされたことだからです。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
私たちは肉を十字架につけてしまったのです。
生きている間、肉の性質は残ります。それを消滅させることは不可能です。
しかし、キリスト者は御霊の支配の下にある者です。
肉の思いによって支配されることがない者です。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。
御霊によって生きると知るだけでなく、実践せよ。
「御霊によって生きる」原理を知っているだけで、その原理を実行することがないならば、実質のない信仰です。ですから信者たちに、「御霊に導かれる歩み」を実践するようにとパウロは勧めます。
<ガラテヤ人への手紙 考察と適応>
考察1 神に喜ばれる良い行いは、御霊が生み出す。
御霊のない人の行いは、神を喜ばせることはできない。
聖書が教える奥義とは、「御霊が結ぶ人格の実」によって良い行いができるということです。
ですから、まずは御霊を頂いて新生していることが最重要なことになります。
ですから信者は、行いを変えれば、彼らの心が良くなるのではありません。
信者の心が聖霊によって新しくされた結果、良い行いをすることができるようにされるのです。
正しい教えを信じなければ、神に喜ばれる良い行いをすることができない。
しかし、御霊をいただいていても、御霊に従わなければ罪を犯します。
事実、ガラテヤ教会は新生したキリスト者たちの集まりでしたが、教会内に争いがありました。(15、26)
その原因は、彼らが間違った教えを信じ、御霊に頼る信仰を失っていたからでした。ユダから来た教師たちが、救いの条件に人間による行いが必要だと、彼らを説得し、彼らの肉の思いが刺激されたからでした。
では、何が正しい教えで、何が違った教えなのでしょうか。
1.正しい教えは、信仰の初めから完成まで全て、御霊=神によって成就するという教えです。
御霊によって、信仰が生み出され、御霊によって良い歩みが生み出され、御霊によって完全に清い者とされて天国に入る。
これが、聖書が私たちに教えている真理です。この教えを伝える人が正しい教師です。
2.間違った教えは、信仰の始めから完成までの、どこかで人間による功績を混ぜ込む教えです。
もし、ある教えが、人間の努力だけで救いを獲得すると教えるのであれば、私たちはそれが間違いだとすぐわかります。しかし、問題なのは、救いの条件の一部に、人間の功績が加えられる場合です。ユダヤから来た教師が、救われるために律法を守る必要があると説いたのと同じ場合です。
そうであるなら、結局は救いを決定するのは、御霊ではなく人間になります。
このことは、イエスのことばや聖書全体が示していることに反します。
この立場にある教師たちは次のようにいいます。
神は人間を高く評価し、ご自分と等しく見ておられるため、人間の意志や行いに介入することはない。救われるかどうかを決めるのは、人間の決定による。
適応:教会は正しい教えを伝えなければならない。
教会は、聞く人に、御霊が与え得られるために説教しなければならない。
そのために、御霊によって救われ、御霊によって行い、御霊によって完成に至る
福音を伝えなければならない。
考察2 御霊の実が、教会の一致をもたらす。
御霊に従うキリスト者は、人格や生活に良い実を実らせます。
彼らに内住する御霊が、彼らを治めてくださるからです。
ですから御霊に従うキリスト者たちが集うなら、当然一致が生まれます。
ところが、現実はこのようにうまくは行きません。
なぜでしょうか。それは、教会の中に御霊を持たない人や、御霊に従わない人が混じっているからです。
御霊を持たない自称クリスチャンは、御霊の思いに反抗します。
彼らは、今も、自分の願いを実現するために生きているからです。
また、御霊をいただくクリスチャンでも、御霊に従わないことがあります。
教会は、このことにどのように対処したらいいでしょうか。
第1に、教会は、御霊により「新生」したクリスチャンだけを教会員にしなければなりません。
御霊を持たない人は、この世の知恵、この世の価値観を教会に持ち込みます。
その結果、彼らは聖書が教える真理に反対します。聖書は御霊によって書かれた本です。聖書の正しさが否定されることは、御霊である神を否定することです。
このような教会が、御霊に従えないことは明らかだからです。
第2に、教会は、教会員に、御霊に従うように勧めなければなりません。
新生したキリスト者であっても、御霊に従わなくなる時に、問題を起こします。
教会は、御霊によって天国が保証されていることを教会員に教えると同時に、
御霊に従って生きることをも、しっかりと教えなければなりません。
考察3 私たちの信仰は、御霊を持つだけでなく、御霊による良い実を実らせる信仰であるべき。13-15
御霊をいただいていても、御霊の働きが、信者の生活に現われない信仰は価値のないものです。
良い行いは、救いの条件ではありません。
しかし、御霊をいただく真のクリスチャンであれば、行いに変化が現われます。
内住の御霊が、彼らに働きかけておられるからです。
私たちは、御霊をいただくだけではなく、良い実らせるクリスチャンでありたいものです。