イエスはモーセよりも偉大
3:1 そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。
3:2 モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。
3:3 家よりも、家を建てる者が大きな栄誉を持つのと同様に、イエスはモーセよりも大きな栄光を受けるのにふさわしいとされました。
3:4 家はそれぞれ、だれかが建てるのですが、すべてのものを造られた方は、神です。
3:5 モーセは、しもべとして神の家全体のために忠実でした。それは、後に語られる事をあかしするためでした。
3:6 しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。
イエスはモーセよりも偉大である。
- 神が、肉体を持って地上に現れてくださった。それがイエスです。
その方が十字架にかかり死ぬことによって、私たちの「罪の捧げもの」となってくださいました。このことが2章に書かれていました。 - イエスは、使徒としての役割を果たされた。
イエスの告白した内容(信仰)は、神について完全な啓示である。
(イエスが使徒と言われている) - イエスは、大祭司である。
人間と神の間をとりなし、天国に入れる働きをする大祭司。(1節)
モーセはイスラエルを導いた預言者。イエスについてあかしするために働いた。
イエスはモーセよりも偉大です。私たちはイエスのことを考え、イエスに栄光を帰さなければなりません。このように、書かれている理由は、当時、ユダヤ人たちの中に、モーセのことばを信じ、イエスの告白を否定する者たちが多かったためではないかと思われる。(1-3節)
モーセは、イスラエルの民が神に従うために、忠実に働いた神のしもべに過ぎません。彼は、イエスが現われるまでの間、立てられたしもべであって、イエスによって告白される福音が、正しいことを証明するために遣わされていたのです。(4,5節)
イエスは信じる全ての人の王 6節
しかし、キリストは神の子(人となって生まれた神)であり、キリストが語った福音を信じて、神の民となる人全てを、治める王であられるのです。
その民は、すべての民族から集められ、キリスト以前、以降の期間に渡り、信じた全ての人の王となられるのです。(6節)
イエスは、信じた人(神の家)を忠実に治められる 6節
モーセの与えた律法では人の罪を完全に赦すことはできませんでした。しかし、キリストが成されたあがないは、完全に人の罪を赦すことができます。
キリストこそ、天地創造の神、キリストによって罪が完全にゆるされる、このことに確信を希望を持つ者たちが、神の民、つまり神の家です。そして、神は「神の家」である確信する者たちを忠実に治められるのです。
<1節から6節についての考察>
このことは、大きな希望と安心を私たちにもたらせてくれます。
救い主イエスが、私を忠実に治めてくださる。信じたとしても、私たちは多くの過ちを犯す者です。しかし、神が内在され、私たちの生涯が神に喜ばれるものとなるようにとの目的をもって、導いてくださる。救い主イエスは、ご自分を罪びとのための大祭司として、任命した父なる神に対して、忠実に働かれます。
このことは、私たち信者となった罪びとにとって、大きな励ましです。
イエスが神から受けた使命に忠実であられるので、私たちの不忠実な歩みを、ある時は、抑制し、悔い改めさせ、誤った道から引き戻し、最終には天国に入れてくださるからです。
律法に違反することを恐れて、生きる生き方は終わりました。
律法の解釈を変えれば罪を犯すことができる、律法に書かれていなければ、その罪は容認される、これがそれまでのユダヤ人の生き方でした。
だから、イエスが来られたとき、律法学者たちの義の基準が間違っていることを、イエスは何度も指摘し、彼らと議論されたのです
しかし、新しい神に従う生き方は、信じた人は神に喜ばれる生き方がしたいと心が変えられています。それでも、何度も失敗するのです。
しかし、もはやすべてがゆるされた上の歩むことができます。
しかも、神の大いなるささえがあり、危険から守り、最終的に堕落することなく導く、神の働きを受けながら、神に従う生き方を努力できるのです。
この恵みを可能にしてくださった方こそ、救い主であるイエスです。
ですから、私たちは大いに救い主イエスに感謝し、従っていこうではありませんか。(6節)
心をかたくなに、してはならない
3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。
3:9 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みて証拠を求め、四十年の間、わたしのわざを見た。
3:10 だから、わたしはその時代を憤って言った。彼らは常に心が迷い、わたしの道を悟らなかった。
3:11 わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」
3:12 兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。
今日、福音を聞くならば信じなさい 不信仰になってはならない
エジプトを出たイスラエルの民は、数々の神の奇跡を経験しました。神は彼らのために紅海を分け、ウズラやマナで彼らを養いました。
しかし、民は、金の子牛を作って拝み、水が苦くて飲めないことで神に文句を言い、ウズラやマナは食べ飽きたと言って神を怒らせました。
それゆえに神は、彼らが約束の地カナンに入ることを許しませんでした。彼らは荒野で死んでしまいました。
このことを、私たちは教訓として学ぶべきです。
福音を聞いて信じたのですから、不信仰になって神か神から離れるようになってはいけません。
福音を聞く機会が与えられたなら、時を逃すことなく信じることです。(15)
荒野で滅ぼされた民は、神を知り、神の奇跡を体験したにもかかわらず、神に信頼することができず、神に従うことができませんでした。そのために神の怒りを買ったのです。
キリストを信じた私たちも、心をかたくなにして、不信仰になるなら、彼らと同じように、神の怒りを買い、天国に入ることができない者になってしまします。
そのためにも、クリスチャン同士が、日々励まし合って、お互いの信仰を立て上げることは良い事です。(13節)
互いに励まし合い、各人が最後まで信仰の確信にとどまり続けるなら、キリストが与えると約束してくださったものを相続できるのです。つまり、罪の赦しにあずかり、永遠のいのちをいただくことができるのです。(14節)
へブル人への手紙3章 考察
考察1「最後まで信じ続ける勧めは、「聖徒の堅忍」の教理と矛盾しない
カルバン主義では、「聖徒の堅忍」という教理があります。救われた人は、途中に堕落することはあっても、最後には救いの状態を保つというものです。
これは、言い換えれば、最後まで信仰にとどまる人が、神に選ばれた聖人で、信仰を失くす人は初めから救われていなかったと言う意味です。
信仰を与えるのは神です。そして人の救いは、一方的な神の恵みによります。
人間の側の功績や能力、持って生まれた良い性格が選の基準ではありません。
さらに、最後まで信仰を保ちつづけることも、神の恵みによって成されます。
聖霊は、神に忠実に歩みたいという思いを与えてくださり、救われた人が何をして、神に喜ばれる歩みをするかをも用意してくださるのです。
今日の聖句では、最後まで確信に立つことが勧められています。
「最後まで確信を保つように」「不信仰にならないように」との勧めは、「聖徒の堅忍」の教理と矛盾しません。この言葉を聞くとき、聖人たち、本当に救われた人たちの心はおどります。
これらのことこそ、彼らが心から望み、全うしたいと願うことだからです。
考察2「今日」福音を聞くなら、「今日」信じよう
この章では「今日」という言葉がたくさん出てきます。
なぜなら、私たちは明日生きているかどうか、わからない存在だからです。
自分では、100歳まで生きると思っていても、突然の事故や、病気で、いつでも命を失う可能性がある存在だからです。
福音を聞く機会が与えられることは、本当に好運なことです。
ですから、今日、福音を聞くことができたなら、決心を先延ばしにせず、今日信じることが重要です。また、今日、自分の不信仰が示されたなら、今日悔い改めて、神との関係を回復することが重要なのです。
考察3 信仰を保つために、互いに励まし合うことは重要
3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
最初に信じた信仰の確信を、最後まで持ち続けなければなりません。
そのために、信者が共に集まり、信仰の交わりを持ち、励まし合うことが助けになります。
信者たちは、兄弟姉妹に問題が起こった時、神への信頼を失い、不信仰に陥る人を励まさなければなりません。
このような時こそ、神は良い方で、良いご計画をもっておられると信じる時です。共に励まし合い、キリストはすべてを益とされる方であることを思い出させなければなりません。
兄弟姉妹の誰かが、罪の誘惑に負けて、神が喜ばれない過ちを犯した場合、クリスチャンができる罪との戦い方を教えなければなりません。
聖霊によって罪の力に打ち勝つ奥義を知らせなければなりません。
信者たちが、一緒に聖書を開いて、神様について知る機会を持つことは、非常に重要です。
神を知ることによって、神に喜ばれる歩みとは何か、何を神が忌み嫌われるのかがわかります。
そのことによって、神が定めた決まりに従って、正しく信仰の歩みを進めることができます。
間違った信じ方、そこから生じる間違った歩みから自分を守ることができます。
これらのことは、不必要な努力や不安から私たちを解放し、安心して信仰生活を送るために大きな助けになります。
23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。ヘブル10章23-24節