へブル書4章「キリストが与える安息に入るように」

4:1 こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。
4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。

福音を聞いても信仰に至らなければ救われない
救いのチャンスはまだ残されています。

イスラエルの民は、神の約束(カナンの地に入る)を信じられなかった為、神が与えると約束してくださった地に入ることができませんでした。
それと同様に、私たちも、キリストの福音を聞かされていても、それを信じて従わなければ(信仰と結びつかなければ)救われず、神のくださる安息(天国)に入ることはできません。また、その人に何の益も生み出しません。

4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。

救いのための神のわざは完了している。
神の福音を聞いて最後まで信じる者が、救われて安息に入ります。
神は、創造のわざをすべて終えて休まれています。救いのみわざも完成してくださっています。

イスラエルの民は、荒野で神の奇跡を見ながら不信仰になり、約束の地に入れませんでした。ましてや、神であるイエスの死と復活を見、使徒たちの証言を聞いてもなお、信じないなのであれば、そのような者は神が約束された安息(天国)に入ることはできません。

4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。

福音を聞く機会が与えられたなら先延ばしにせず、「今日」信じよう。
出エジプトしたイスラエルの民は、不信仰のために神の安息に入ることができませんでした。しかし、神は人が救われる機会を、今も与えておられます。まだ救われるチャンスが残されています。

アブラハムに現れてくださった神が、再びダビデに現れて悔い改めの機会を与えました。神は私たちに、今も救いの機会を与えておられるのです。ですから信じる機会が与えられれば、時を逃さずに「今日」信じなければならないのです。心をかたくなにして、神を疑い不信仰になってはいけません。

4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

ヨシュアが与えた安息はこの世の安息。霊の安息ではない。
ヨシュアはイスラエルの民をカナンの地に導き、民に安息を与えました。しかし、これはこの世での安息であり、神の国に入るための霊の安息ではありませんでした。ですから、民は律法を守り、生け贄を捧げることで、罪を赦していただかなければなりませんでした。完全に罪を赦されるという「安息」に入ることができなかったのです。

4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。
4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

キリストが与える真の安息にはいるべき
私たちはキリストが与えてくださる安息に入るように努めなければなりません。

キリストが神であることを疑って不信仰になり、天国に入れない者になってはいけません。
神のことばは、人の心にある考えや計画を鋭く判別して、それが良いことか悪いことかを明らかにすることができます。

私たちは神の前に、隠すことができるものは1つもありません。心の中にある悪い思いですら神はご存じです。このような神に対して、自分には罪がないと弁明しなければならないのです。そうであるなら、神に裁かれない人は1人もいません。

4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

キリストは、私たちの弱さに同情してくださる
そのままで、大胆に神に近づき、恵みをいただこう
しかし、幸いなことに、私たちの罪を裁かないではおられない「義なる神」と、私たちの間の関係をとりなす大祭司の役目を果たす、キリストがおられるのです。

キリストは肉体を持ち、罪を犯さなかったこと以外は、私たちと同じようになられ、地上の生涯を歩まれました。さまざまな試みに会われ、病気や困難など私たちが地上で経験する苦しみがどのようなものかを良くご存じです。
そして、私たちの弱さについて同情してくださる方です。

ですから、私たちは弱さ苦しみを持っているから神の助けを期待できないと思うのではなく、そのままで大胆に神に祈り求めていこうではありませんか。

4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

神に大胆に近づこう
クリスチャンであっても、弱さを覚え、罪を犯すことがあります。
そこで、遠慮して、なかなか神のもとに行くことができない場合があります。

なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。

私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが求められています。不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。

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今から約2000年前、キリストは預言されていた通り、死んで3日後に復活し、ご自身が神であることを証明されました。神がおられるのですから、その方を無視して生きることは、神があなたを造られた目的を知らずに生きることを意味します。どうか、神を知り、神に生かされる確かな人生を歩んでください。そのために、聖書を学び、神について、自分について、知ることを始めませんか?