Ⅰ 終わりの日についての預言
Ⅰ―1この世の終わりの日に、キリストが再臨する。
主は、イスラエルの山々の上に立たれる。
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2:2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
終わりの日に、キリストが再臨される。主は、エルサレムの山々の上に立たれる。
その時、神のことばは、エルサレムから全世界に発せられるようになる。
そして、あらゆる国々の民が、主を礼拝するためにエルサレムに集まって来る。
Ⅰ―2キリストの再臨の後、世界平和が実現する。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。
再臨の後に、神が直接、国家をさばき、国々の民をさばく審判が始められる。
そして、神は彼らにふさわしい刑罰を決定する。
神が治める王国が始まるとき、2度と戦争は起こらない。
もはや武器を造る必要はないために、人々は、仕事のために道具を作って役立てる。(4節)
このようなすばらしい未来が将来実現するのだから、今の内に悔い改めて神を信じよう。(5節)
Ⅱ 主の裁きの日についての預言
Ⅱ―1イスラエルは偶像を拝み、占いをして罪を犯している。
2:6 まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らの国がペリシテ人の国のように東方からの卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。
2:7 その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。
2:8 その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。
2:9 こうして人はかがめられ、人間は低くされた。――彼らをお赦しにならないように。――
イスラエルの民は、創造主を知らされているのにもかかわらず、他の神々を拝み、異邦人と結婚し、占いに頼っている。それなのに、国は豊かで栄えている。
Ⅱ―2主の再臨の日、偶像を拝んで自分を誇っていた者らは裁かれる。
2:10 岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。
2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。
2:12 まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。
Ⅱ―3彼らが地上で貯えた財産は取り上げられる。
それらは彼らを天国に入れるためには、いっさい役に立たない。
2:13 高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、
2:14 すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、
2:15 すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、
2:16 タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。
Ⅱ―4偶像はなくなる。全ての人が、キリストこそ神だと知る。
自分への裁きを逃れるために隠れる。
2:17 その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。
2:18 偽りの神々は消えうせる。
2:19 主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩のほら穴や、土の穴にはいる。
2:20 その日、人は、拝むために造った銀の偽りの神々と金の偽りの神々を、もぐらや、こうもりに投げやる。
2:21 主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避け、ご威光の輝きを避けて、岩の割れ目、巌の裂け目にはいる。
Ⅲ だから人間に頼るな、創造主に頼れ
2:22 鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。
人間はうらぎる、うそをつき、約束を守りません。ですから私たちは人間に頼る時、失望させられます。22節では、神を信頼して生きよと勧められます。この神は、人間が造った神々ではなく、天地を創造された唯一の神です。
神は正しい方、うその無い方、約束を必ず守る方です。
私たちは唯一の神、キリストを知らされているのですから、神の約束の実現を確信して、罪の満ちているこの世を生き抜いていこうではありませんか。
<イザヤ書2章 考察>
主の日は必ず来る。だからキリストを信じて救われることが緊急に必要なこと。
キリストが再び地上に来られ、生きている人と、死んだ人たち全てをさばく日が必ず来ます。ですから、私たちにとって一番重要なことは、この世で金持ちになるとか、成功するとかではなく、創造主を知って、キリストを信じ、救われることです。
肉体が死んでも、魂は永遠に生きる。問題は死後どこで生きるか。
はじめて聞く方もおられるかもしれませんが、人間の肉体は滅んでも、魂は永遠に生き続けると聖書は証言しています。そして死の瞬間に、キリストを信じた人には朽ちない体が与えられて天国で永遠に生き、信じなかった人にも滅びの体が与えられて、神のない世界で永遠に暮らすとイエスは弟子たちに語っています。
イエスは、神から全く離れた世界(地獄)があることを教えた。
地獄もそんなに悪いところではないと思う人があるかもしれません。しかし、イエスがそうではないと語っています。地獄に入るなら、片目を失くしても天国に入ったほうがいい、地獄の苦しみは永遠に続くとイエスは弟子たちに語りました。
「キリストは神ではない」「キリストはいらない」と信じているなら、
死後、天国に入ることを期待してはならない。なぜなら、天国はキリストが王である国だから。
「神はいない」、「神はいらない」と信じて生きている人も、生きている間は、神の保護の下にあります。その人がそれに気づかなくても、神に感謝しなくても、神はその人に必要な助けを与えておられました。しかし、その人が死ぬ瞬間に、神のその人に対する忍耐は終わります。
ですから、死後、神の憐みがいっさい届かない世界(地獄)に行くことは当然なことと言えます。もし、天国が神を否定する人でいっぱいになったら、そこはもう天国ではなくなるからです。
だからこそ、キリストを知ろう。生きている間にしかチャンスはない。
自分の罪の赦しをキリストに祈り求めよう。永遠の命をいただこう。
イザヤは来るべき神のさばきの日を預言しました。
私たちもこの知らせを重く受け止めて、自分と神との関係が切れているなら、悔い改めて神に立ち返りましょう。生きている間であれば、キリストの血による罪の赦しにあずかることができるのです。
天国での永遠の命を約束されることができるのです。もやは、死を恐れることは必要なくなります。
死は、神が王となられる国、涙も悲しみもない、罪のない世界で、病気になることのない、若さを保つ体で、永遠に生きることが始まる時だからです。
この世だけに望みを置いて、罪と死をおびえる人生から、次に来る世に希望を持ち、この世の命を超えた永遠の命の確信を持って生きることができるのです。
あなたにも、この幸いな信仰が与えられますようにと願います。
あなたも、キリストにある者とされることができますように。