目次
11章2:行いによる義認と信仰義認のちがい
- 「行いによって義とされる者」は、完全に聖い行いによって神を満足させなければならない。
- 「信仰によって義とされる者」は、キリストの義を着ることによって、罪人でありながら神に義人と見なされる人である。
11章3:信仰による義認は、どのようになされるか?
- キリストが信じる者の義を保証することによって。
だから信じた者は、死後罪のさばきから完全に解放される。ローマ8:33 - キリストの義か私たち転嫁されることによって。私たちは罪人のままで神に義と見なされる。
わたしたちの義が証明されたからではなく、私たちは不義のままで義と認められる。使徒行伝13:38
11章13、14:信仰による義と行いによる義は両立しない
- 大多数の人々は、義とされるために「信仰」と「行い」の両方が必要だと思う。
しかし実は、この2つは両立できない。一方を立てれば他方を排除する相反関係にある。 - 使徒パウロは、「行いによる義」を排除した。そして「信仰による義」を説いた。
彼は、自分がそれまで積んだ神への功徳を「ちりあくた」だと言い放った。
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのも のを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つこ とができる、という望みがあるからです。ピリピ3:7-9
- アブラハムも、信仰によって義とされた。ローマ書4章に説明あり
アブラハムは、主の約束の実現を信じる信仰を義と認められたのだった。
彼は聖い生活を送っていたが、それでも神に義とされるには不十分であった。
11章:16義認についての聖書の教え
- 信仰の義は、自己の功績を見詰めることを止め、
神のあわれみと神の完全により頼むことによって与えらえる。 - 人は神の憐みのゆえに、義とされ救われる。義とされる理由は人間の功績にはない。
神は人間のうちに徹底的に義が欠けているのをご覧になる。神は、義とする理由を人間の内に見出すことができない。そこで、ご自身の内にその理由を持たれた。つまり、神が彼らを憐れんで恵みを与えるという理由である。 - 御霊によって新生した後も、信者が励む行いによって義認が保持されるのではない。
キリストの義をいただいたゆえに義が堅持されるのである。
11章17:義認についてのパウロの教え
- パウロは、「義認は行いによらず、ただ信仰による」と説いた。
- 彼は、「律法による義認」と「信仰による義認」の違いを説明した。
「律法による義」は、良い行いという条件付きで与えられる義。
「信仰による義」は信じることによって与えられ、行いを必要とせず価なしに与えらえれる義。 - 律法によっては誰一人義とされない。
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキ リスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜ なら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。ガラテヤ2:16
- パウロは信仰のみによる義を説いた。
義は、100パーセント神の憐れみによる。行ないの助けは必要がない。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからで す。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。ローマ10:9,10 - なぜパウロは信仰のみによる義を語ったのか?
行いによる義は、結果として神の怒りを買うことになるから。誰一人完全に聖い行いはできないから。
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。ローマ3:20
律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。ローマ4:15
11章21:義認は神と人との和解 神に罪を赦されること
- 人間の不義が神との間を割き、神をわからなくしている。
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。イザヤ59:1,2
- 罪は神との分裂。キリストによって回復されるまでは、人は神に敵対している。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことで す。ローマ5:9,10
11章22:義が罪の赦しであることを示す聖書箇所
- キリストが、人と神に和解をもたらした。
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
2コリント5:18,19
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。2コリント5:21 - ダビデも行いではなく、神に罪を赦された者の幸いを証言している。
ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。
「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。 主が罪を認めない人は幸いである。」
ローマ4:6-8 - 律法によって義とされることがなかったすべてのことが、キリストを信じる者には義とされる。
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。使徒13:38,39 -
信仰によって義が与えられることは、信じられないほどの恵みである。
ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じら れないほどのことである。使徒13:40,41
11章23:義とされることは、キリスト義のを転嫁されること
- キリストの義が転嫁されることによって義とされる。
- われわれはただ義の仲立ちによってのみ神の前に義とされる
- 人はそれ自身において義なのではない。キリストの義がその人に転嫁され、その人は義とみなされる。
- キリストの義にあずかることによって義とされる。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。2コリント5:21
- キリスト1人の従順がわたしたちに転嫁され義とされる。
1人の人アダムの不従順によって始まった神との隔絶や罪、死が、1人の人キリストの従順が(彼が十字架にかかり罪の赦しのわざを完成させたことによって)キリストを信じる全ての人を義とする。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。ローマ5:19 - ヤコブが兄になりすまし長子の権を得たことと、私たちがキリストの純潔にかくれて義を得ることは類似している。
ヤコブは長子の権利がなかったが、兄の服装を着て父のもとに生き、兄になりすまして長子の祝福を得た。われわれは長子であるキリストの純潔のもとにかくれて、神の義を得る。