目次
第1篇1章 神認識と自己認識の関係について
- 神を認めること無しに、本当の自己認識はない。
我々の賜物はすべて神から与えられているから
我々の生存は神に決定権があるから - 我々は、自分についての悲惨や自分に対する不快感を抱かなければ、神を渇望することはない。
- 自己について無感覚な状態、つまり自分の賜物に満足し、
己の悲惨な状態について無知である限り、神を求めることはない。 - 自分についての真の知識(自己認識)が、神を求めさせ、神を発見させる。
真の自己認識は、神の完全さ、神の清さと自分を比較した時にわかる自分の姿で、
それは悲惨な罪に汚れた自分を知ることである。
- 自己について無感覚な状態、つまり自分の賜物に満足し、
- わたしたちの義の基準はゆがんでいる。悪をゆるす。
正しい自己認識を持つために、神と自分を比較しなければならない。- 神の完全な義を思いめぐらすなら、
自分が誇っていた正しさが偽善であったことがわかる。 - 神の無い世界の知恵、権力、力が役に立たないことがわかる。
- 神の完全な義を思いめぐらすなら、
- 聖徒たちは皆、神の前に愕然とさせられる経験を持つ。
昔の聖徒たちは、神に出会い己の汚れ、無力を知らされ愕然とさせられた。
自分の罪に下される神のさばきを恐れた。例:ヨブ、アブラハム、エリヤ - 神を知らない限り、自分の卑しさや汚れについて愕然とさせられることはない。
だから、教理を教える順番は、まず神を認識させ、その後自分について認識させる。- 神の存在を認めさせる。神の定めた義の基準を知らせる。
(悪を一切ゆるすことのない高い基準) - 神の基準で測った時の自分についての判断を論じるこれは不完全な自分を認識すること。
神の自分に対するさばきを恐れる気持ちを生じさせ、信仰へと心を備えることになる。
- 神の存在を認めさせる。神の定めた義の基準を知らせる。
第1篇3章 神についての知識は、人間の精神の内に生まれつき入れられている
- すべの人は神の存在を意識している。神を拝みたい傾向を持つ。
証拠: 神の無い国家、家は1つも存在しない。
創造主を知らぬ者たちは、獣や木の前にひざまずき拝む(偶像礼拝) - すべての人に宗教に向かう傾向がある。宗教を作った者もその例外ではない。
宗教は、ずる賢い人が無知な人をだますために作ったもので、
作った本人は神など意識していないという説は間違いである。
- 神を認識し、拝む傾向は生まれながらのものである。
忘れようとしても、忘れることのできない生来のものである。 - 宗教がなくなれば、人間は獣と同等である。
人間はあらゆる不幸に直面しなければならず、彼欄人生は不安である。
神を礼拝することだけが、彼らに不死への希望を抱かせるからである。
第1篇4章 この知識は無知と悪意によってもみ消され、ゆがめられている
- 全ての人に宗教の種が植えられているが、彼らは思うままに神を空想して作り上げる。
迷信に苦しめられる者もあるが、神の裁きはまぬがれない。
なぜなら、迷信は、彼らの高慢と虚栄をベースとして成立しているからである。 - 人間の妄想によって作り出された神に従って犠牲をは払っても、神への功績にはならない。
- 彼らの愚かさは言い逃れができない。
偶像を作って拝むことは、自分の分を超えて神を知ろうとする欲望だからである。 - 彼らは、生来備わっている感覚を消し去ろうと努力するにもかかわらず、
死後に神の裁きの時が来ることを恐れる感覚をぬぐい去ることはできない。
- 彼らの愚かさは言い逃れができない。
- どのような神であっても、一生懸命仕えていれば良いと考えるが、それは誤りである。
神とは、1つの不変な規範をもっておられる方である。各人が好き勝手に神の規範を変えることはできない。自分の都合に合わせて、裁きの規範を軽くすることができないことに彼らは注意を払わない。 - 彼らが神のことを考えるのは、神のさばきを恐れる時だけである。
- 神に近くあると思われたくて、わずかの犠牲を払えば、天国に入れる宗教を求める。
- 神と和解する(罪をゆるしてもらう)ために無価値な儀式を行う。このことでゆるされたと安心する。
そして悪いことに、儀式によって安心した彼らはますます自分の欲望を追求して生きる。
第1篇5章 神についての知識はこの世界の創造と統治によってわかる
- 神の寛容を経験する時(祝福される時)は、こう考えよ。
これは前触れであって、もっと素晴らしいものが、後の世に与えられる為に取って置かれていると考えるべきである。 - 敬虔な者が不正を受け、侮辱、非難され、
邪悪な者がかえって成功し罰せられることがないのを見る時は、こう考えよ。
もう1つの生(死後の命)があって、そこで彼らの不正が罰せられ、義は報われるのだと悟るべきである。 - 自分の身に起こった奇跡は、偶然に起きたことではない。神の計画による。
- 各人が自分勝手に神を作り上げる。
エピクロス派は、神はいないと結論した。 - 創造において、神はご自身を現わしておられるが、私たちは神を認めない。
- 創造において神はご自身を現わしておられるが、それは私たちがそれを見て神を理解するからではない。
神を認めない私たちに、言い逃れをさせない為である。 - 雨を降らせ実を実らせるなどの、各種の恵みにより、神はご自身を知るようにと、人々にその存在を示している。
しかし、神を認めない者を、彼らのなすがままに放置される。 - 私たちは、神が造られたものを観察することによって、神を認めることはできない。
私たちは世界を観察して、神的なものを感じるやいなや、真の神を無視して、自分が空想した神を立てる。 - 神が、私たちのために行っているわざも、曇らせたり、ねじ曲げたりして、「ただの偶然だった」「私が賢かった」と判断する。そして感謝を、神に帰すことはない。被造物(人、お金など)に感謝する。
- 創造において神はご自身を現わしておられるが、それは私たちがそれを見て神を理解するからではない。
第1篇6章 神を知るためには、天地を観察するだけでは不十分で、聖書が必要である
- 神の創造のわざを知るだけでは、我々は真の神認識に至ることはない。神のことば(聖書)が必要である。
天国に入るためには、神を創造主として知るだけでは不十分である。神をあがない主、仲保者として知る必要がある。 - 真の神認識は、神が定めた教理を知ることによる。
神のことばを尊び受け入れるところに現れる。 - 真の神認識は、神に服従することから生まれる。
完全で欠けることのない信仰が生じるだけでなく、正しい神認識も生まれる。 - 正しく神を知ろうとするなら、聖書を調べることである。
御ことばから、はずれた神理解は、人に受け入れられ、金儲けができるかもしれないが、そのような信仰を持っても、天国には入れない。 - 天変地異、地震、津波、嵐などを経験しても、人間の精神は無能なため、真の神を認めることができない。
御ことばなしに、神についての誤った理解を正すことはできない。