「罪の赦しがなければ、体のいやしはむなしい。中風のいやし」ルカによる福音書5章17-26節

イエスは不治の病をいやした。イエスの評判は全ユダヤに広まった。
人々は病気を治してもらいに集まってきた。

しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。ルカ5:15-16

  1. このときイエスは全身ツァラアトにおかされた人を、一瞬で癒した。
    癒しのことを口止めしたが、イエスの評判はユダヤ全土に知れ渡った。ルカ5:12-14
    人々はイエスの居場所を突き止めて、病人を連れてやってきた。
  2. このうわさを聞いたパリサイ人や律法学者たちも、イエスを観察するためにイエスのもとに集まって来た。

男たちが屋根をはがし、病人をイエスの前につり下ろした。

ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレム から来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエ スの前に、つり降ろした。ルカ5:17-19

  1. パリサイ人、律法学者たちがイエスが教えていた家の中にいた。5:17
    彼らは、イエスの間違いを見つけ出そうと必死だった。
    常にイエスについてまわり、イエスの言動を非難していた。
  2. イエスは神の力によって病をいやしていた。神の奇跡によるいやし。
    イエスのいやしは、神の奇跡によるいやしであった。5:17
  3. そこに男たちが「中風の人」を連れてきたが、人がいっぱいで入れなかった。
    彼らは、屋上に上がり、屋根をはがして病人を寝かせたまま、つり下ろした。
    当時の家は箱型で、50人くらい入るほどの大きさ。横に階段がついており、屋上に上がれた。
    屋上は、木枠をめぐらせ、木の枝や葉を敷き、その上に藁を混ぜた粘土を平にのばして乾燥させた。
    そうだから、比較的簡単に屋根がはがせたのだと思われる。

イエスは病人に罪の赦しを宣言した。
律法学者たちは心の中でイエスを非難した。

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。
ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよ う。」ルカ5:20-21

  1. 男たちと中風の人のイエスに助けを求める必死な信仰を見て、中風の人に「罪が赦された」言った。
  2. それを見ていた律法学者、パリサイ人たちはイエスを非難した。
    罪を赦すことができるのは神だけだ。このように言うことは神を汚す罪だと心の中で思った。

イエスは、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを証明するために、
中風の人の病をいやした。

その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、 家に帰りなさい。」と言われた。
すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。ルカ5:22-25

  1. イエスは律法学者たちが心の中で非難していることを見抜いておられた。
    イエスは神であるから、口にださなくても、人の思いがすべてわかる。
  2. 地上で罪を赦す権威を持っていることを証明するために、いやしの奇跡を行われた。
    「罪赦された」と言うことは簡単だ。
    赦されたことを誰も確かめることができないから、うそをついても誰にもわからない。

    しかし、中風で寝たきりの人に「立って歩け」ということはもっと難しい。
    その人が実際に歩かないといけないから。

    イエスはご自分が罪を赦す権威を持っていることを証明するために、中風の男を歩かせる奇跡を行われた。
  3. 中風の人は立ち上がって、神を賛美しながら家に帰った。

人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」と言った。ルカ5:26

  1. この奇跡を見た人々は驚いた。彼らは、神を敬い、恐れに満たされた。
    神の力、神の権威を目の当たりにして、彼らは畏敬の念満たされた。
  2. 中風の人のいやしは、マタイ9章1-8節、マルコ2章1ー12節にも書かれています。

人類に罪が入ったとき、人は死ぬようになった。全ての人が死ぬ現実。
このことは全ての人に原罪があることを証明している。

アダムとエバが神の命令に逆らってから、人間に罪が入った。とのときから、人間は永遠に生きることなく死ぬようになった。神が、罪を持ったままの人間が生き続けることがないようにされたからである。全ての人は必ず死ぬ。このことは、全ての人に罪(原罪)があることを証明している。

イエスは、まず中風の人に罪のゆるしを宣言され、その後病をいやされた。
私たちにとって、罪の赦しが一番重要である。病のいやしはその結果として起こりうる。

1、「罪の赦し」は「病のいやし」よりもはるかに重要
私たちは、「罪のゆるし」よりも「病のいやし」を求めます。
しかし、全ての人は原罪を持っており、その罪を死後さばかれる運命にあります。
実は、私たちにとって「病のいやし」よりも、はるかに重要で緊急に必要なことは「罪のゆるし」です。
なぜなら、人は、病をいやされても、いつか必ず死ぬからです。そして死後、神の裁きの座に立たなければならないからです。
しかし、罪を赦された人は、たとえ病がいやされることなく死んだとしても、神のさばきを免れることができ、天国で永遠に生きることができるからです。

2、いやしは罪のゆるしの結果として起こること。いやしにこだわってはならない。
いやされないことも、自分になされる主の最善と受けとる人の中に、私たちは神の奇跡を見る。

病のいやしは、罪のゆるしの結果です。起こることもあるし、起こらないこともあります。
だから、いやしにこだってはいけません。いやされても、いやされなくても、主が自分に与えてくださる状況を受け取ることが重要です。
主が自分に対してなしておられることが、自分にとっての最善だと信じて、主を賛美しつつ生きることが、クリスチャンとしての生き方です。
そして、くじけやすく勇気のない私たちですが、主がこのように生きることを可能にしてくださると信じることです。主はきっと私たちの信仰に答えてくださいます。
病の中にありながらも、心くじけることなく、主を賛美し、感謝して生きる人を見るとき、私たちはその人の中に、確かに主が奇跡を起こしておられることを見るのではないでしょうか。そして、私たちもまた、主のすばらしさを賛美するようになるのではないでしょうか。
ちょうど、中風の男のいやしを見た人々が、主をあがめ、主を恐れたように。

イエスには罪を赦す権威がある。他に道はない。
イエスに必死ですがる者の信仰を主は喜ばれ、その者の罪を赦してくださる。

イエスはご自分に人の罪を赦す権威があると言われました。
そして、赦しを宣言するだけではなく、実際に病をいやすことで、ご自分の権威を証明されました。
このとから、イエスには罪を赦すことができると、私たちは知るべきです。
イエスを信じる者、イエスに助けを求めて来る者の罪を、イエスは赦してくださいます。
ちょうど、中風の人を連れてきた男たちが、他人の家の屋根をはがしてまでも、イエスに近づこうとしたようにです。このような信仰を主は喜ばれるのではないでしょうか。

イエスにしかいやせない。何としても自分の病(罪という病)をイエスにいやしていただきたい。
このような思いに主は答えてくださるのではないでしょうか。
他の方法でもいいのではないか。他の神々でも十分ではないか。イエスでもためしてみようか。
このような信仰には主のいやしを期待することはできないのではないでしょうか。

「神のいやし」は今も起こる。私たちは、第一に主にいやしを祈る。しかし、医学も一般恩寵として主が私たちに与えたもの。必要であれば用いることは、御心にかなうことである。

イエスは、主の力で病をいやしておられました。イエスのいやしは神の奇跡によったのです。
ですから、不治の病とされていた病気が、一瞬でいやされています。(ツァラアト、盲人ほか多くの病)
現代も、信仰者に対する、主の奇跡的な病のいやしは起きます。
ですから、信者は病のいやしを、まず主に頼り祈るべきです。

しかし、このことを極端に進めて、医学をいっさい用いない信仰者がいます。
医学は、神が一般恩寵として人間の命を守るために備えてくださっているものです。
それを、いっさい用いないとか、適切に用いないことは、神に与えられた命を軽々しく扱い、いたずらに捨てることになり、神のみこころに対する不従順です。

病をいやす方は主です。ですから、私たちは、根本的には主にいやしを求めます。
しかし、必要であれば、医学をも用いていくことは、神のみこころにかなうことであると思います。

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