「罪とは、天地を創造した神を礼拝しないこと」ローマ人への手紙1章

ローマ書1章 「人間の罪と、罪に対する神の怒り」

ローマ書1章では、「罪」とは創造主を知らない、創造主に感謝をしないことだということ。
この「罪」がこの世の悪の原因であることを説明します。

<ローマ書1章 解 釈>

真理をはばむ人々の不敬虔と不正に対して神は怒っている

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。ローマ1:18

神についての真理を、不信仰の思いから否定する人々は、神のさばきを免れることはできません。誰であっても、キリストによって明らかにされた神についての真理を否定する人々の不敬虔(この世界の創造主を拝まない不信仰)と、不正(神を敬わないことから生じる悪)に対して神は怒っておられます。このことを神はパウロに啓示されたのです。

神は、人間にご自分の存在を知らせておられる

なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。ローマ1:19

神は、御自身の存在を人間に明らかにしておられます。では、神はどのようにして人間に、神の存在を知らせておられるのでしょうか。

  1. 自然や被造物を通して、神はご自身の存在を人間に明らかにしておられます。
    被造物たちが、それぞれに必要な機能を身につけている様子や、美しく飾られている様子を見る時、私たちは、これらの被造物をお造りになった神の存在を意識せざるをえません。
  2. 人間が生まれつき持っている良心によっても、神を意識せずにはおれません。
    私たちは罪を犯した時に、「良心のとがめ」を感じます。そして神の刑罰が下ることを恐れます。
  3. 神を礼拝したい本能が私たちの内にあることによっても神を意識せざるをえません。
    キリストを神として認めない人であっても、何らかの拝む対象を必要とします。このことは、人間が動物と違う点です。人間は、神という認識を欠いて生きることができないのです。このことからも、神が人間を創造されたことがわかります。

神の存在は知らされている。知らなかったと弁解できない。

神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造された時から、被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。ローマ1:20

神は完全に正しい方、悪を罰せずにはおられない方、永遠の昔から存在し、この世を創造され、この世を支配しておられることを、私たちは認めることができます。ですから真理(神の啓示)を否定する人たちは、神を知らされていなかったとか、神を知らなかったという弁解は許されません。

人間の罪(原罪、SIN)とは何か。

彼らは、神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったからです。ローマ1:21

原罪とは、この天地を創造した神を神として拝まないこと、感謝もしないこと。

  1. 神(God=天地創造の神)を知っていながら、神として認めない。
  2. 神の真理を、人間が考え出した偽りの話と取り代える。
    (神は阿弥陀仏、西国浄土、呪文の言葉、神話など)
  3. 創造主によって造られた物を拝み、それに感謝する。(偶像礼拝)

原罪(SIN)が引き起こす、さまざまな罪(SINS)

1.偶像礼拝

彼らは、自分たちは知者であると主張しながら、愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、はうものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだをはずかしめています。彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、はうものに似たかたちと替えてしまいました。そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだをはずかしめています。ローマ1:22-24

創造主から離れ、思いはむなしくなり、愚かな心は暗くなった人間は、創造主の代わりに、創造主によって造られたものを拝むようになりました。これが偶像礼拝といわれる行為です。
例えば、人間を神として拝む(菅原道真:大宰府天満宮 徳川家康)、
動物や自然を拝むことです。(きつね:稲荷大社 へび 長寿の大木)

人間が創造主ではなく被造物を拝むようになったので、神は人間の心を彼らの欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、この世にはたくさんの神々が存在します。

2.性的堕落

そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだをはずかしめています。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。ローマ1:24-27

創造主への不信仰は、性的な堕落をもたらします。彼らは神の裁きを恐れることなく、自分の欲望を満たすために、神の戒めを破って性的快楽を追求するようになりました。例えば同性愛や姦淫、強姦、乱交などです。

3.道徳的堕落

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。ローマ1:29-32

神を知ろうとしないので、神は彼らを良くない思いに引き渡されました。
そのために、人間は神が禁止していることをするようになりました。      

悪意、ねたみ、殺意、争い、うそ、悪たくみ、そしる、神を憎む、高ぶり、無慈悲など、これらが神の定めによれば罪であることを人間は知っていながら、悪を行っています。

彼らの良心はそれが罪であって神の怒りを買うことを知っています。しかし彼らは自分が悪を行うだけではなく、不正を行う人たちに賛同するという二重の罪を犯しています。なぜなら、彼らを罰することは、自分たちをも罪に定めることになるからです。そうなれば、自分たちの欲望を満たすことができなくなるからです。

考察1 この世に犯罪や争いは絶えない。
その原因は「人間に生まれつき備わる罪の性質」

この世界に起こる罪の根源は、人間が創造主を神として拝まなくなったことに原因があると聖書は語っています。

罪の原因が、社会のしくみや教育の問題ではない証拠に、法律が整備され、教育が行き渡っているのに、犯罪が無くなるどころか、以前には聞いたことがなかった恐ろしい犯罪が増えています。
ですから、真の原因は、創造主との断絶によって始まった「人間が生まれつき持っている罪の性質」です。

ですから私たちが一番に取りかかるべき課題は、政治や社会の変革ではなく、「人間の罪の問題」を解決することです。

考察2 罪は、創造主なる神との断絶から生じた。
神との関係を回復することが、私たちにとって一番重要なこと。

1.創造主を拝まないことは罪

「殺人」や「盗み」は罪であり、罰を受けて正当だと誰もが思います。

しかし、「創造主を神として認めない」ということは、罪だと考える人はいないのではないでしょうか。
しかし、実はこの天地を創造された神がおられるので、自分たちで違う神を作って拝むことは、神に対して罪を犯しているのです。このことを軽く考えてはいけません。

2.人間の善行は、神の前では正しくない。

創造主を神として拝んでいない人々の中に、人格的に優れていると見られる人が多くおられるかもしれません。彼らは、謙遜で柔和であり、困っている人を助けることに労を惜しまないかもしれません。

たとえ人々が彼らの行いがすばらしいと思っても、彼らの行いを神は「正しい」と認めておられません。なぜなら完全に聖い動機、聖い行いでなければ神に受け入れられないからです。神は完全に聖い方だからです。そのような行いができる人間は、この世に存在しません。

 「善人はいない。1人もいない。神を求めるものはいない。」

これが、人間についての神の考えです。
そして、人間の罪を神は見逃すことができない。罪は必ずさばかれることになると聖書は教えています。この世で裁かれず隠れて行った罪も全て、私たちの死後、天において裁かれるのです。

3.私たちは絶望的な状況にある。
しかし神は救いの道を用意してくださった。

私たちは絶望的な状態にあることを知らなければなりません。

しかし、あわれみ深い神は、私たちが滅び行くのを見捨てることはしませんでした。神は、イスラエル民族を選び、彼らに御自身を現わされました。そのことが旧約聖書に書かれています。また旧約時代の預言を、イエスの誕生と死、復活により実現して、滅び行く私たちのために救いの道を用意してくださいました。ですから、イエスを主と信じて、天地創造の神との関係を回復する人たちには希望があります。

考察3 パウロはローマの信徒たちに福音を伝えた。
福音は、世の人には愚かに聞こえるが、この福音によってしか救われない。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。ローマ1:16,17

福音は信じる人の心に神の啓示を伝えるだけでなく、彼らがそれを受け取ることができるように働きます。救いは人間の力ではなく神の力によって実現します。みことばも次のように言っている通りです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。1コリント1:18

このようにして与えられた信仰は、その歩みもまた人間の知恵や力によるのではなく、神の力によって保たれて成長します。このような信仰を世はおろかだと馬鹿にします。なぜなら、その始まりから完成までの全てを神に頼るからです。しかし、パウロはこれこそが、神が彼に啓示した福音であり、この福音によってしか人間は救われないと証言します。だから自分は、福音を信じること、福音によって生きることを恥としないと語っています。

私たちもそうです。福音のことばは、それを信じない人にとっては愚かであっても、この福音のことばによってのみ信じる人々が起こされます。これが、神が定めらえた救いの道だからです。ですから私たちは、人々にどう思われようと、福音を恥とせずに伝えなければなりません。

考察4 パウロは、ローマの教会を教えるだけでなく、彼らの信仰から励ましを受けたいと願った。宣教師、教師も信者たちから励ましを受ける。その姿勢を忘れてはいけない。

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。ローマ1:11,12

パウロは、主イエスから直接教えられた使徒でした。教会では、最高の権威を与えられていました。しかし、彼は自分が訪問したときローマの教会からも励ましを受けたいと告白しています。ローマにいる信徒1人1人も、自分と同様に神によって召され、聖霊を受けた人たちであることを知っていたからです。ここに、互いの信仰を尊敬する交わりを見ることができます。

宣教師や教師たちの中で、自分だけが真理を知っており、赴任先の人々の無知を正すことが自分の務めだと自負している人たちがいます。彼らは、赴任先の宣教地で信仰している人たちの中に、神の召しによって呼び出された人、御霊を受け神の真理を理解している人がいるということを忘れています。実は、赴任する宣教師、教師たちも、御霊に満たされた宣教地の人々から教えられ、彼らから賜物を受けて成長することができるのです。

宣教しなければならない地は、クリスチャン人口が少ないところです。
この当時のローマもそうでした。彼らは家の教会で信仰を守っていました。

しかし、パウロはローマにある教会の信徒たちに真の信仰があることを聞いて、対等な交わりを望みました。このような姿勢が、宣教地に赴任する宣教師や教師たちに必要であることを、この聖書個所から知ることができます。

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