- 1 人間の不信実と神の真実、信仰による義認
- 2 ユダヤ人も異邦人も公平にさばかれるなら、ユダヤ人には特権はないのか?
- 3 ユダヤ人の特権は、罪を知らされ、救い主を待ち望むことができたこと
- 4 ユダヤ人は「救い主」を殺してしまった しかし、神は真実な方、約束を守る方
- 5 人間の不義、人間の罪が、神の正義、神の真理をきわだたせる
- 6 ユダヤ人のすぐれているところはない、すべての人が罪人である
- 7 神との関係を失って、神にとって無益となった人間の姿
- 8 善行によっては義とされない かえって罪の意識が生じる
- 9 行いによらず、イエスを信じる信仰によって義とされる
- 10 キリスト・イエスのあがないのゆえに価なしに義と認められる
- 11 神は、キリスト・イエスを罪のなだめの供え物として公に現わされた
- 12 イエスの十字架は、神の義と愛を示している
- 13 行いの誇りは取り除かれた
- 14 善行によるのではなく信仰によって義と認められる
- 15 この福音はすべての民族のためである
- 16 信仰による義は、律法が目標とする善行を生み出す
人間の不信実と神の真実、信仰による義認
この章では、人間の不真実と神の真実、すべての人は罪人であること。行ないによって、義とされないこと。信仰によってのみ、義とされることを説明します。
<ローマ書3章 解釈>
ユダヤ人も異邦人も公平にさばかれるなら、ユダヤ人には特権はないのか?
では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。3:1
- ユダヤ人に与えらえた特権とは何か?
パウロは、神のさばきについて、ユダヤ人と異邦人に何の差別もないことを1章、2章で説明してきました。そうであるなら、「神の民のしるし」としてユダヤ人たちが受ける体の割礼には何の意味があるのでしょうか?なぜ、神はユダヤ人に割礼を施して他の民族と区別されたのでしょうか?
ユダヤ人の特権は、罪を知らされ、救い主を待ち望むことができたこと
それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。3:2
- ユダヤ人は神についての知識が与えられた。
救い主の到来を知らされ、待ち望むことができた。
ユダヤ人には神の啓示が記録された「旧約聖書」が与えられていました。旧約聖書の中には、神はメシヤ(救い主)の到来を預言する記事が多くあります。ユダヤ人達には、救い主の到来を知らされ、救い主を待ち望むという特権が与えられていました。
ユダヤ人は「救い主」を殺してしまった
しかし、神は真実な方、約束を守る方
では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。3:3
- ユダヤ人はメシヤを殺した。彼らの不信仰によって、神の約束は無効になるのか?
ユダヤ人たちはメシヤであるキリストを殺すという大罪を犯してしまいました。それでは、ユダヤ人の神に対する不真実によって、神が約束してくださっていた救いのご計画は無効になったのでしょうか?
絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しい とされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。3:4
- 神は真実な方、彼らに知らせた「メシヤによる魂の救い」を取り止めにすることはない。
絶対にそんなことはありません。人間の不真実によって神の計画が変更されたり中止されたりすることは断じてありません。神は真実な方です。約束したことを必ず成就されます。人間の真実は時や状況に左右されます。約束を破棄することもあります。しかし、たとえ人間が裏切ったとしても、神はご自身が約束したことを守られます。
たとえユダヤ人が不信実であっても、神が世の初めから定めておられた「救いの計画」は無効になることはありません。
人間の不義、人間の罪が、神の正義、神の真理をきわだたせる
しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。3:5
- 人間の不義が、神の正義をきわだたせる。明らかにする。
ダビデも詩編において、自分の罪の深さと神の真実とを対比しています。自分の罪に対して神がさばきを下し、そのことで神の正しさがますます明らかになることをダビデは詩編で読んでいます。
でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。3:7
- 人間の不義によって神の栄光が明らかになるなら、なぜ神は人をさばくのか。
人間をさばく神は正しくないのではないか。
人間の罪が、神の正しさを際立たせ、そのことが神の栄光となるのであれば、どうして神は、神の誉れのために貢献している人間を罰するのですか? 神は不正ではありませんか?5、7,8
絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。3:6
- 神は罪びとをさばく。そうでなければ、この世を正しく保つことはできない。絶対にそんなことはありません。もし、神が悪をさばかないのであれば、どうやって神はこの世を統治できるでしょうか。
――「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのこ とばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。3:8
- これは罪を見逃して欲しい人の言い分。このように言う者は当然さばかれる。
「私たちは、神が誉められるために、もっと悪をしようではないか」ということにならないでしょうかという者があります。この点で私たちは誤解されます。しかしこのように言う者たちは罪に定められます。これは自分たちの罪をさばかれなくしたい人たちの、言い分にすぎません。
ユダヤ人のすぐれているところはない、すべての人が罪人である
では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪 の下にあると責めたのです。3:9
- ユダヤ人が異邦人よりもすぐれている点は何もない。
ユダヤ人が、異邦人よりすぐれている点は何もない。ユダヤ人も異邦人も罪の支配の下にあり、神にさばかれる存在。神の扱いには何の差別もない。
それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。3:10-12
- 神の前に正しい人は1人もいない。ユダヤ人も異邦人もすべての人がさばかれる。神の前に正しい人(義人)はひとりもいません。神の真理をすべて理解する人、真実に神を求める人は1人もいません。すべての人が創造主との関係を失いって無益な者になっています。創造主から隔絶されている人間は、他者に対して真実の善を行うことができません。(利己的な思いをいっさい含まない善行ができない)
神との関係を失って、神にとって無益となった人間の姿
「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」
「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」3:13
「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」3:14
- 人格の破たん。
自分の利益のために他者にへつらい(開いた墓)、嘘をつき(あざむく)、
怒りと憎しみに満ちた言葉(のろい)を言う。彼らの舌は憎しみ苦さに満ちている。
このような人格的破たんが人間関係を破壊し、うらぎり、殺人などの不幸を生じさせる。
「彼らの足は血を流すのに速く、3:15
彼らの道には破壊と悲惨がある。3:16
また、彼らは平和の道を知らない。」3:17
- この世界の破たん。
人や国は殺し合い戦争をする。この世には破壊と悲惨が常にある。
個人、会社、国が、神を恐れず、自己の利益を求めているので真の平和は実現しない。
神との和解のないところに真の平和はない。(平和の道を知らない)
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」3:18
-
神との断絶。神のさばきを恐れない。
神との断絶の結果、神のさばきを恐れることがなくなった。その結果、自分の利益を得るため、快楽を楽しむために、罪を犯しても平気になってしまった。 -
神との断絶が、上記の破たんの根本原因。
善行によっては義とされない かえって罪の意識が生じる
さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。3:19
なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。3:20
- 全ての人は律法の下にあり、行いに応じてさばかれる。
すべての人は律法によってさばかれます。律法を持つユダヤ人も持たない異邦人も、何が良いことで神に喜ばれ、何が悪いことで神を怒らせるかを知っているとローマ書2章に書かれていました。そして自分へのさばきの宣告を不当だと言うことはゆるされず、従うことになります。 - 律法を行おうとするなら、かえって自分の罪が自覚される。
誰ひとり律法を完全に守ることができる人はいません。神と断絶し、倫理的にも道徳的にも無益になっている人間は、もともと神の律法を守る力をもっていないからです。そのため、人間のいかなる善行も神の目には不純だと見えているからです。
善行を積むことで義を得ようと努力するなら、かえって自分が不十分であることを知ることになりっます。ですから人間の努力や修養によっては絶対に救われないのです。
行いによらず、イエスを信じる信仰によって義とされる
しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。ローマ3:21,22
- 行いによるのではなく、イエスを信じる信仰によって義とされる。
イエスが十字架にかかり復活されたことで、律法を行うことではなく、イエスを救い主「キリスト」と信じることによって、神から義とみなされる道が示されました。これは、ユダヤ人異邦人の区別を超えて、すべて信じる人に与えられる義です。 - このことは、預言者たちによって昔から語られていた。
キリストを信じることによって与えられる義は、律法と預言者たちによって、昔から知らさていました。しかし、人々は預言者たちのことばを受入れなかったのです。そしてイエスによって、彼らの預言が成就したのです。
キリスト・イエスのあがないのゆえに価なしに義と認められる
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖い(あがない)のゆえに、価(あたい)なしに義と認められるのです。ローマ3:23,24
- すべての人が、神の義を受けるには不十分。
誰もが良いことを知っていても、完全に実行できない状態にあります。 - 神の恵みにより、義が与えられる。
絶望的な状態にある人間に対して、神から差しのべられた救いの道です。
人間には自分を義とする力がないのですが、神が人間ををあわれみ、信じる者に義を与えてくださいます。 - キリスト・イエスのあがないにより義とされる。
キリスト・イエスが十字架で死ぬことにより、私たちの罪の代価を支払ってくださり、私たちの罪をゆるしてくださいます。 - 価なしに義が与えられる。
義の行いを積むことによって義が与えられるのではありません。人間は、神の義を得るのにふさわしい善行をすることはきません。この義は、神に対して与えることなく、ただ神から受け取るものです。
神は、キリスト・イエスを罪のなだめの供え物として公に現わされた
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。という のは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。ローマ3:25
罪人に対する神の怒りをなだめ、神との和解をもたらすために、神はキリストをこの世に送られました。罪人は、神があらかじめ計画し、キリストを通して人間に明らかにした救いの方法に従うとき、はじめて救われるのです。
- 救いの方法とは次のようなものです。
- キリストが流された血によって、神の怒りがなだめられる。
血を注ぐことなしに罪がゆるされることはありません。神は血を見て満足されます。
神であるキリストの血が、信じた人のために適応されるなら、キリストが流された血は、罪人への神の怒りをなだめます。 - キリストによって完全に罪がゆるされる。
神の怒りをこの供え物は完全に満足させることができます。
罪人の犯した過去、現在、未来すべての罪をゆるすことができます。
- キリストが流された血によって、神の怒りがなだめられる。
イエスの十字架は、神の義と愛を示している
それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。ローマ3:26
キリストが罪人たちをゆるすために十字架にかかられたことは次の事実を明らかにします。
- 罪を見逃すことができない「神の義」。
神ご自身が正しい方で、罪をゆるせない方、罪には刑罰を与えないではおれない方であること。 - 神が、罪人を救うために十字架で死なれる「神の愛」。
キリストの十字架は、滅び行く絶望的な人間を、義として神の国に入れるためでした。
人間は行ないによって天国に入ることができません。そのため、イエスが与える救いを受け取ることによって、天国に入れるように神は計画されたのです。
行いの誇りは取り除かれた
それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そ うではなく、信仰の原理によってです。ローマ3:27
自分は善人だ、自分は正しいと思う人間の誇りはどこにあるのでしょうか?
それは、信仰の原理によって取り除かれました。
なぜなら、人間は創造主と断絶したために神の栄光を受けることができないからです。律法を守っているユダヤ人の誇りも、自分が正しく生きていると誇る異邦人(ユダヤ人以外の人)のおごりも、すべて取り除かれました。信仰による救いの原理の前に、人間の誇りはいっさい無価値になりました。
善行によるのではなく信仰によって義と認められる
人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。3:28
ここでは善行を否定しているのではなく、人間の努力によって義を得ることができない事実を知らせています。人が義とされるのは、キリストが与えてくださる罪のゆるしが、自分のために必要だと信じる信仰によって、神から義とみなされる立場を得るのです。
この福音はすべての民族のためである
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。ローマ3:29,30
創造主なる神は、特定の民族だけの神ではありません。ユダヤ人の神であり、異邦人の神でもあります。そうであるなら、イエス・キリストによる救いの計画は、すべての民族のために神が計画されたものです。
信仰による義は、律法が目標とする善行を生み出す
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。ローマ3:31
ユダヤ人たちは、律法を守ることで義を獲得する労苦から解放されて、キリストを信じる信仰によって義とされる恵みを受けます。異邦人である私たちも同様です。信仰によって義とされる光栄にあずかります。信仰による義は、律法を成就させます。人を堕落させることはありません。信仰による原理に生きることによって、律法が目ざす良い行ないをすることになるからです。
<考察>
教会は、どのような立場の人も、1人の罪人として神を礼拝するところ。
聖書は、神の前にすべての人は罪人であると断言しています。
社会的な地位がどうであるかに関係なく、すべての人が自分を救えない罪人です。
教会では、社会的に高い地位の人も、そうでない人も、すべての人が罪人で神の前に平等です。それぞれに役割の違いはありますが、すべての人が必要で、神の働きのために召されています。教会は、正しい人が集うところではありません。自分の罪を知って、神にゆるしを願った人が集まるところです。ですから、この世の集まりとは違う特別な場所です。
イエスの十字架は、神の義と神の愛が同時に示された出来事。神は厳しいだけの方ではない。愛のゆえにご自身の御子を犠牲にされた。
神は正しい方で、人間の罪をさばく方です。
しかし同時に神は、罪の奴隷となって絶望的になっている人間に憐れみの手を差し伸べてくださる愛の方でもあります。
十字架は、神の義と愛の両方を証明する出来事です。
神が人間をさばくことを不当だと思って、神を冷たい裁判官のように考える人がいます。しかし、考えてみてください。私たちは罪を犯してやまない存在です。さばきの原因はわたしたちにあります。私たちは、自分たちが当然受けるべきさばきを受けるだけです。神が不当だとすることはできません。
しかし、もし神がわたしたちが当然受けるべき刑罰をゆるしてくださるとしたらどうでしょう。それも御自身の一人子であるキリストの命を犠牲にしてまで、ゆるそうとされているとしたらどうでしょう。
十字架は神の究極の愛を現わしています。人の罪をゆるすために、神が命を犠牲にされたのです。
私たちは、神が人をさばくことに不満を抱く前に、この事実を真剣に受け止めなければなりません。
律法によって、罪の意識は強くなる。
罪の自覚という心の状態が信仰への導き手となる。
律法が与えられていたユダヤ人は、自分の罪を強く意識しました。
彼らは、罪を犯した時、「動物のいけにえ」を捧げて、「罪のつぐない」をしました。この繰り返しに、人々は疲れ果て、自分の無力をつくづく感じました。
律法が与えられた目的は、ユダヤ人たちを信仰による義へと導くためでした。神は律法をユダヤ人に与えて後、キリストが登場させるまで、長い期間を置かれました。神は、この長い待ち望みの時代を通して、ユダヤ人たちに、自分たちは動物のいけにえを止めることができない罪人なのだということを、わからせようとされたのです。
私たちも同様です。罪を繰り返してしまう、良い事がわかっているのに出来ない、その自分を自分でもどうしようもできない無力さを知って、はじめてキリストが与えてくださる救いを待ち望むことができるのではないでしょうか。
私たちは、自分の罪を自覚することに鈍く、自分から神を求めることができません。しかし、神は私たちの人生を導いて、私たちの思いに働きかけてくださいます。時には問題を通して、私たちを謙遜にし、罪を自覚させてくださいます。そして、キリストを信じる信仰へと導いてくださいます。
自分の罪を知ること、その罪の恐ろしさを自覚させられることを恐れないでください。
ユダヤ人たちが律法が与えられたことで、かえって罪を自覚させられたように。
そして、行いによっては決して義とされることがないことを骨身にしみて教えられたように。
しっかりと自分の現実と向き合ってください。
そして、信仰によって与えられる義のすばらしさを知ってください。