「主の日を待ち望む、御霊のとりなし」
<ローマ8章18-30節 概要>
8章1-18節において、自分の内にある罪との戦いにおいて、人間の努力ではなく、御霊によって勝利することを教えたパウロ。19-30は、罪との戦いを忍耐して戦い続けために、神が備えてくださっている数々の恵みについて語る。
第1に、将来与えられる栄光(主の日)を待ち望むこと。
第2に、御霊の助けあること。御霊が、父なる神にとりなしてくださっていること。
第3に、自分たちの救いが神の永遠の計画のもとづくものであったこと。信者は神に選ばれ、信者の完成を神が定めておられることを知らせる。
パウロは、この世で苦闘するクリスチャンたちのために、神が信者のために備えてくださった希望と助け、確信を教えて信者たちを励ます。
<ローマ8章18-30節 解釈>
キリスト者の戦いをささえる神の恵み
1.主の日が来る「神の約束」によって力づけられる 19-25節
1ー1.将来与えらえる栄光を思えば、今の苦しみはささいなことに思われる。
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
将来に約束されている栄光(天国で与えられる栄光)にくらべれば、信仰を持つための苦しみや、罪と戦い苦闘していることは、取るに足りないこと、ささいなことだとパウロは言います。
1-2.被造物も「主の日」を待ち望んでいる。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
神の子供たちとは、天国において完全に聖くされた(栄化)クリスチャンたちのことです。私たちの将来の完成の姿です。その日を、すべての被造物(動物、植物など)も待ち望んでいます。
1-3.アダムによって罪が入った結果、被造物は本来の姿を失ったので、キリストの日に、回復される望みがある。19-21節
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
なぜなら、被造物(動物、植物、自然すべて)が、創造の時に持っていた本来の姿を失っているのは、被造物自身のせいではなく、アダムが神に反抗したために、この世界に罪が入ったからです。
神は、アダムが罪を犯した時に、アダムに対するさばきとして、神は自然や動物などのすべての被造物を変化させて、人間が土地や自然から十分に利益を得ることができないようにされました。これによって、アダムは苦しんで食を得なければならなくなりました。創世記17-19参照
ですから、キリストが罪を滅ぼすために再び地上に来られる日に、被造物たちも回復する希望があります。だから彼らも主の日を待ち望んでいるのです。
1-4.被造物も人間も、ともに「主の日」を待ち望んでいる。22-23節
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
被造物も人間も、創造のはじめの状態、「全て良かった」と言われた状態に回復することを待ち望んでいます。私たち人間は、朽ちない体をいただいて天国で永遠に生きることを待ち望んでいます。
自然、動物、植物すべての被造物が、自分たちのあるべき姿に戻ることを待ち望んでいます。
1-5.将来、完成される希望によって、罪と戦う力が与えられる。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
24節の「この望み」とは、将来、神から恵みをいただくという希望であって目に見えないものです。
たとえば、永遠の命、天国、被造物の回復、栄化(罪のない者にされる)です。
クリスチャンは、これらを得ることができる喜びと期待によって生きる者です。
これらの望みは、見えないからこそ、それらが現われる日を待ち望みます。
私たちは、日々、罪と格闘しています。なぜなら、クリスチャンは救われていても、完成したわけではないからです。(7章)しかし、クリスチャンは自分の不完全さを認めてもなお、将来の希望が与えられているので、完全にされる日のことを待ち望んで、罪と戦い続けることができるのです。
2.新生したクリスチャンには、御霊のとりなしがある 26-27節
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
2-1.御霊は落胆して祈りを失う私たちのために、父なる神に私たちの弱さ、必要を知らせていてくださる。
私たちは弱く、自分の罪との戦いにおて失望したり、不幸な出来事によって容易に落胆して祈れなくなってしまうのです。しかし御霊は私たちのために働かれます。たとえ、私たちが失望のあまり祈れなかったとしても、御霊が私たちの弱さや必要を父なる神に知らせていてくださいます。
父なる神が、私たちのこと同情の思いを持って知っていてくださるのは、御霊のとりなしによるといえます。
2-2.御心がわからないとき、御霊は神の御心を知り、正しい祈りを私たちに代わって神に届ける。そのおかげで、神の計画にそって歩むことができる。
御霊は神の計画をご存じです。なぜなら御霊は神だからです。
私たちはしばしば主の計画を見失い、何を求め、何を願ったらいいのかわからなくなります。しかし、御霊は主の御心に一致した祈りを神に届けていてくださいます。
御霊の祈りのおかげで、たとえ私たちが検討違いな祈りをしていたとしても、御心でないことを願っていたとしても、最終的には、主の御心にそって歩むように導かれます。
私たちの弱さ愚かさを助けてくださる御霊のすばらしい働きがあります。
これを知ったとき、驚きのあまり飛び上がりました。
本当に神様はすばらしいお方です。ただただ神様に感謝します。
御霊のとしなしの働きは、この世でもがき苦しむクリスチャンを大いにささえてくれます。
<ことばの意味>
とりなし intercede:仲裁、対立する2者の間に立って2者の関係が良くなるようにとりはからう、代わって祈ること。
助け ギリシャ語では、共にいて必要な時に取って代わって重荷を引き受けるという意味。
3.自分の救いの予定と完成を知ることで、罪と戦う力を得る 28-30
3-1.私の救いと完成は永遠の昔からの神の計画であった。
神は私の人生に起きるすべてを用いて、私を召した目的を達成される。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。
私の救いは、神が永遠の昔に計画されたことでした。神は私を選んで救いに定め、時至って聖霊を与えて新生させてくださいました。ですから、私の人生に起きる全ての出来事を、神はあらかじめご存じです。
ですから、良いことも悪いことも、私の人生に起きるすべてを用いて、神は私を召した目的を実現されると確信できます。その意味で、すべてのことを神は益とされると28節は言われています。
この事実を知るとき、困難に対する理解が変わってきます。
困難な時にも、神がご自身の幸いな目的を果たされるのだとの確信をもって、自分に与えらえた試練に立ち向かうことができるようにされます。エペソ1:4-5、エペソ1:11、1コリント1:8,9 など参照
<ローマ8章18-30節 考察>
考察1 クリスチャンが、罪と戦い続ける秘訣とは何か。
1.将来の栄光を待ち望むことによって。(主の日を待ち望むことによって)18-25
信者は救われてはいますが、完全にされているわけではありません。この世にあるかぎり内なる罪との戦い、世にある罪との戦いが続きます。
しかし、この戦いの苦闘も、将来私たちに用意されている栄光のことを思えば、取るに足りない小さなことに思えます。罪から完全に解放され、死も病もない栄光の体をもって、罪のない天国で永遠に生きる望みがあるからです。
この希望が、この世で罪と戦うクリスチャンに忍耐する力を与えます。
2.御霊のとりなしを知り、信頼することによって。26-27
クリスチャンになったから、幸せなことしか起きないわけではありません。
主に心から従うクリスチャンでも、挫折や失望を経験します。
しかし、私たちは正しい願いや必要を神に祈ることができなくても、御霊が私たちに対する深い同情と理解をもって、私たちの代わりに、神に祈るべき正しい願いを神に届けていてくださいます。
ですから、私たちとしては御心がわからなくても、的外れな祈りをしていたとしても、御霊のとりなしのおかげで、神の御心の道に歩むことができるのです。このことは、御心を見失いやすく、道を誤りやすい私たちとしては非常に安心できる保証です。
クリスチャンは、なんと大いなる助けをあたえられていることでしょうか。
神は、私たちが、簡単に困難に打ちのめされてしまう信仰の弱い者であることを良くご存じなのです。
だからこそ、御霊の助けを与えてくださっているのです。
この奥義は偉大です。このことを知らずにクリスチャン生活をすることは、宝の入った箱を与えられながら、それを開けて使うことなく貧乏な暮らしをしている人のようなものです。
3.自分の救いと完成が、あらかじめ定められていたことを知ることによって。(救いの予定と完成)28-30
私の救いと完成は、神が定めたことだった。だから私の人生に起こる全ての出来事は益になる。
全ての出来事は、私を召した神の目的が実現するために益となるように用いられると確信する。
神はあらかじめ私を知っていてくださり、私を救うと計画され、聖霊を与えて救ってくださいました。
このようにして救われた私の人生に、神の目的が成就しないはずがありません。
では、私を救った神の目的とは何でしょうか。
それは私の内に、御子キリストと同じ人格を形作ることです。
神は私以外の人々にも救いを与え、救われた人たちで構成される、天にある公同の教会を建て上げておられます。それは、1つの御霊、1つの信仰を持つ兄弟姉妹たちの集まであって、キリストが彼らの中の長子です。
私をこの幸いな集いに加えるために、神がゆるして全ての出来事を起こしておられます。
今は、喜ぶことができなくても、必ず益になるという確信を私たちは持ちます。
なぜなら、私は神の計画にしたがってキリスト者とされたからです。
自分の救いの予定と完成を知ることが、困難に打ち負かされないで戦う力を与えてくれます。