- 1 私は神によって「使徒」として召された者である。 私は神からの権威を帯びている。この手紙に真剣に応答せよ
- 2 教会とは、神が召した人たちの集まり そこに集う全ての人が、神の主権を認めるところ1-9節
- 3 教会の一致を願う 10-17節
- 4 神は、聞く人が「おろか」と思う宣教のことばを 伝道者に語らせ、人がそれを信じ救われるようにした
- 5 神は、この世の愚かな者を選んで救われた。
それは、神が栄光を取られるため、人間を誇らせないためだった
- 5.1 考察1「神の教会」教会は神のもの。神が主権を持って治めるところ。(2節から) 信者は、神の権威に従って教会を建て上げなければならない。
- 5.2 考察2 問題のただ中にも、神の恵みが働いていることを忘れない視点は大切である。 (8-9節の神への感謝から考える)
- 5.3 考察3 良い教師は、その教師を信頼するように導く人ではない。 キリストを信頼するように導く人が良い教師。(12-17節から考える)
- 5.4 考察4 神の知識を得る、議論するだけにとどまらず、その知識が生活に適応され、現わされる「生きたキリスト信仰」が必要。
- 5.5 考察5 パウロが伝えた福音を保つ。この福音の理解について一致する。そうすれば、その他のことは自然とうまくいく。(10節のパウロの主張から)
- 5.6 考察6 教会に一致をもたらす方法:現代とパウロの考え方の違いについて。
私は神によって「使徒」として召された者である。
私は神からの権威を帯びている。この手紙に真剣に応答せよ
1:1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
手紙の送り主の権威を知らしめる。1節
パウロは手紙のはじめに、自分は神のみこころにより「使徒」として召された者だ宣言します。
「使徒」とは復活のイエスから直接教えられて、福音宣教の使命を与えられた者ということです。
だから、私の書き送る手紙の内容に恐れをもって従いなさいと、コリント教会に言います。
教会とは、神が召した人たちの集まり
そこに集う全ての人が、神の主権を認めるところ1-9節
1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・ イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。
教会は神のもの。つまり「神の教会」。神が呼び出した人たちの集まり。
そこに集まる全ての人が、神を自分たちの「王」とするところ。2節
教会は神のもの。なぜなら神が呼び出し集めた人たちの群れだからです。
神は、あらゆる民族、あらゆる立場の人々(自由人も奴隷も)を集められました。彼らは、キリストに唯一の希望を置いて御名を呼び求めています。あなたがたコリントの教会の方々も、彼らとともに聖徒として召され、義とされ、神の教会に加えられました。
神の教会(公同の教会)においては、キリストが召された聖徒たち全ての主であり、王であることを知りなさい。教会は神が主権を持っておられるところ。人間が主権をもっていないことを知るように。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
コリント教会へのパウロからのあいさつ 3節
コリントの町に存在する神の教会に、恵みと平安があるように祈ります。
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
あなた方は、神に関する知識と賜物を豊かに与えられ主を待ち望んでいる。
しかし、信仰とは知識を生きることにより本物となる。 4-7節
パウロはコリント教会に注がれた神の恵みにいつも感謝しています。
なぜなら、彼らはパウロの述べ伝えた福音を信じ、自分たちの中で確かなものとし、語ることば、神についての知識において豊かな者とされ、霊的賜物(12章8以降記載)を豊かに与えられ、熱心にキリストの再臨を待ち望んでいるからです。しかし、この福音を生きるときによって、はじめてキリスト者としての本来の姿となります。
知識において豊かにされた教会になぜ混乱があるのか、それは「自分たちが信じた知識を生きていないからではないのか」と、パウロはコリントの教会に問います。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
信仰を最後まで保ち続けさせる「神の真実」に感謝する。8節
あなた方は、神の真実に対して、真剣に応答しなければならない。
パウロは、神が召した人の信仰を最後まで保ってくださり、天国に招き入れてくださると確信しています。教会が神に対して不真実である時にも、神の信者に対する真実は変わらないことを信じています。
なぜ、混乱する教会へのあいさつで神の真実を確信し感謝するのでしょうか?パウロは、不信仰を続けるコリント教会に対してさえ、神は忍耐をもってご自身の約束を守られることを信じました。そして教会員たちが、その驚くべき神の恵みに対して真実に応答する責任があることを、この言葉を通して伝えたかったのではないでしょうか。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
主イエスキリストとの交わりに入れられた教会。9節
主との交わりの中で生きるとはどのようなことかを知りなさい。
コリント教会はことばにおいて、知識において、賜物において豊かにされ、熱心にキリストの来臨を待ち望む教会でした。しかし、キリストとの交わりとは、神についての知識やことばを豊かにすることでも、神についての議論を楽しむことではなく、自分の人生のすべてをもってキリストに仕え、キリストの来臨を待ち望むことです。それはキリストとの全人格的な交わりであり、必然的にキリストへの献身をともないます。
私たちは教えに従うことにより、不完全ながらもひたすら完成を目指して進み、すべての希望をキリストにおいて、キリストの苦しみにあずかって生きるのです。これがイエスキリストとの交わりです。
しかし、コリント教会は、知恵と知識を誇っていましたが、キリストとの真の交わりに生きるということができていませんでした。このことにより、さまざまな混乱が教会の内部に起きていました。彼らは「イエスキリストとの交わりに入れられる」とは、本当はどういうことなのか、知らなければならなかったのです。
教会の一致を願う 10-17節
1:10 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、 同じ判断を完全に保ってください。
福音の理解において一致を保ちなさい。10節
パウロは教会員みなが同じ判断を完全に保つことによって、一致することができると説きます。そうするようにキリストの御名によって願います。
- 「キリストの御名による願い」とは、
大切な願いということ。ないがしろにできない願いであるとの意味。 - 「同じ心、判断」とは、パウロの伝えた福音についての同じ理解
- 「保つ」とは、本来、福音についての理解は一致していて当然である。
その一致を維持しなさいと言う意味。
1:11 実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、
1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っているということです。
人間崇拝に陥ってはいけない。11-12節
コリント教会は分裂していました。
私はパウロにつく」「私はアポロに」「ケパ」「キリスト」にと、それぞれが自分の支持する説教者に従い、人間崇拝に陥り、指導者の名のもとに派閥ができ、分裂していました。
教えの違いによってではなく、誰を尊敬するかについて信者の意見が分かれて仲たがいしていたのです。
- アポロ 雄弁な説教家 説得力があった。
- パウロ 使徒 コリント教会を開拓宣教した人物
- ケパ 使徒 キリストとともに歩いた人物
1:13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
キリストが分割されたのですか?
あなた方の罪のために十字架にかかったのは、キリストではなくパウロだったのでしょうか。13節
キリストだけが崇められ、みなが一致してキリストに従うのが教会です。神が用いた指導者の優劣を比べて、誰が一番すぐれているかで口論して、一致が乱れるなどということはあってはならないことです。
1:14 私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。
1:15 それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。
1:16 私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。
自分が崇拝の対象とならないように気を付けていたパウロ。14-16節
パウロは、自分がバプテスマを授けることがないようにしていました。彼の立場、権威のゆえに、彼からバプテスマを受けたことを誇り、高慢になる人が出ないようにと配慮したためでした。彼は自分がこのように配慮してきたこと、つまりクリスとガイオ、ステパナの家族の他には誰にもバプテスマを授けなくて良かったと言っています。15節
もし、自分が多くの人にバプテスマを授けていたら、パウロ派が大きな派閥になって、教会をさらに分裂させたかもしれなかったからです。
1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならない ために、ことばの知恵によってはならないのです
私の務めは洗礼を施すことではなく、福音を述べ伝えること。17節
教職者の務めは、自分の支持者を集めることではなく、福音を述べ伝えることです。しかもその福音のことばはキリストの十字架の栄光がむなしくならないように、人間のことばの知恵によってはならないのです。
神は、聞く人が「おろか」と思う宣教のことばを
伝道者に語らせ、人がそれを信じ救われるようにした
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
福音のことばは愚かである。この世の知恵では知ることはできない。
これは、この世の知恵を愚かにするために神が定められた方法。18-21節
「十字架のことば」とはどのような知らせでしょうか。
それは、すべての人は滅びに向かっており、キリストの恩恵によって罪赦されるしか、天国に入る道がないという知らせです。この十字架のことばは、人間の自尊心をおとしめるため、自分の知恵や力を信じる人々には「愚かな話し」だと思われます。
神は、人間が愚かだと思う知恵によって人間を救い、人間の知恵によっては、神の知恵を理解できないように定められたのです。
人間にとって一番大切な知恵、つまり「魂の救いと永遠の命」のことを知るためには、自分たちの知恵は何の役にも立たないことを知らせるために、神はこのように定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
私たちは、人々が愚かだと思うキリストを述べ伝える。22-23節
「メシヤ」は、イスラエルの国を再建する強力な指導者だとユダヤ人は考えていました。ですから彼らはキリストにつまずきました。また、ギリシャ人などの異邦人にとって、イエスは十字架にかかって死んだ、ただの弱々しい宗教家としか理解されませんでした。
しかし、私たちは人々が「失敗した指導者」「無力な宗教家」だと考える「イエス」が、「キリスト」だと伝えるのです。
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
キリストを通して神の力を得る。神の知恵をいただく。24-25節
信者とされた者にとって、キリストは神の力、神の知恵です。私たちは、キリストを通して、天の父からの恵みを受けることができるのです。
神は、この世の愚かな者を選んで救われた。
それは、神が栄光を取られるため、人間を誇らせないためだった
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたので す。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
コリント教会に集う人たちは身分の低い人たちが多かった。26-29
これは、神がこの世の無に等しい者たちを選ばれた証拠である。
コリント教会に集う者たちは身分の低い人たちでした。
このことは、この世で弱く力のない人々を選ばれたという証拠です。それだけでなく神は、この世で取るに足らないと思われている人たち、見下されている人たちを選ばれ信仰を与えられました。これは、人間の知恵をはずかしめるため、人間が誇ることをできなくするためでした。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。
信者の救いから完成までの全てキリストが成してくださった。
人間はいっさい誇ることができない。30-31
キリスト・イエスのうちにあるものとされた私たちは、キリストの知恵を尊ぶ者とされ、キリストの内にあることにより義と見なされ、聖霊の働きによって聖められ、最後にはキリスト血による代価が支払われ凍てているゆえに、神に買い取られた者として、天国に入るという約束が与えられているのです。
すべては神のわざです。人間はいっさい誇ることができません。
<第1コリント1章 考察>
考察1「神の教会」教会は神のもの。神が主権を持って治めるところ。(2節から)
信者は、神の権威に従って教会を建て上げなければならない。
教会は神のものです。人が自分勝手に治めることは許されない所です。
ですから人は、神に聞き従って教会を治めなければなりません。
教会が、人のメンツや利己心、この世の価値観によって治められることがあります。このようなことにならないためにも、私たちは2節に書かれたパウロの言葉をいつも覚えておく必要があります。
考察2 問題のただ中にも、神の恵みが働いていることを忘れない視点は大切である。
(8-9節の神への感謝から考える)
神によって召された信者に対する「神の真実」を信じたパウロ。
コリント教会は混乱していました。しかしパウロは、彼らに注がれる神の真実を確信していました。コリントにある教会に集う信者たちは、神によって集められた群れだから、たとえ神に喜ばれないことを行っているとしても、神は必ず彼らを悔い改めさせて天国に入れてくださると、神の真実にパウロは期待したのです。
神が、彼らを立ち返らせてくださることを信じて、彼らの罪を指摘した。
これが、パウロがしたこと。私たちが参考にできること。
問題の多い教会に対しても、神の恵みから決して目をそらさないパウロの視点をここで見ることができます。その確信の上で、コリントの教会員たちに厳しい戒めを与えました。
私たちも、兄弟姉妹が罪に陥るとき、彼らに対する神の真実に期待して、悔い改めの必要を語ることを教えられます。
考察3 良い教師は、その教師を信頼するように導く人ではない。
キリストを信頼するように導く人が良い教師。(12-17節から考える)
人からの良い評価を得ようとするなら、福音は語れない。
もし教師が、自分を尊敬してもらいたい、自分を好きになってほしいと思うなら、「十字架のことば」=福音は語れません。十字架を語るということは、聞く人に罪があること、死後の裁きが待っていること、悔い改めて救われる必要があることなど、多くの人が聞きたくない悪い知らせを伝えることだからです。
本当の教師は嫌われる。福音は人間のプライドに戦いをいどむから。
教職者の務めは、パウロが言うように、キリストによる十字架のみわざを告げ知らせることです。
十字架の言葉は世の人々にはいかにもおろかに聞こえるために、伝える人が侮辱を受けることがあります。未信者に愚かだと思われたくない、知者だと思われたい人は、十字架のことばを曲げたり、付け加えたりして聞く人を納得させるために妥協してしまいます。
教師ではなく、キリストに信頼するように導く。
パウロはキリストのすばらしさがきわだつために、自分自身は影となり、人に洗礼を施すことをも控えて、ひたすらキリストを述べ伝えました。
人から愚かと思われても十字架のことばを曲げることは決してありませんでした。このような働き方こそ、私たちが目指すべき真の教師のあり方だと考えます。
考察4 神の知識を得る、議論するだけにとどまらず、その知識が生活に適応され、現わされる「生きたキリスト信仰」が必要。
信じた後も以前と変わらない価値観のままの人たち。
コリントの教会は、神に関する知識が豊にされ、神からの賜物の現れがあった教会でした。ギリシャ人は議論好きです。彼らもおそらく神について大いに議論し思索することを喜びとしていたのでしょう。
しかし、彼らは神の奥義を生きること、つまり信仰を生活に適応していくことについて弱さがありました。彼らの生き方は、救われる以前のままで、世の人々と変わらない判断をしていました。そのため、どの指導者が一番偉いか、どの指導者を自分の教師とすれば教会で力を持つことができるかに最大の関心がありました。
自分が支持する指導者の教えは受け入れますが、他の指導者からは教えられようとしませんでした。自分が指示しない指導者につく人と、仲たがいするようになっていました。
パウロはこう言いたかったのではないでしょうか。「あなた方は、指導者たちの知識の豊かさ、雄弁さを比べて優劣を決めていますが、十字架のことばは未信者に愚かと聞こえるものであって、真に福音を語るなら、人から見下されることになることを忘れています。だから、この世で優秀であるとされる基準で教師の優劣をはかること自体が間違っています。それならばいっそのこと、この世に対する愚かさによって優劣を競いなさい。」と。
そして、コリントの人々は、福音の知識においては豊かにされているけれども、その知識を人生に適応させていないと指摘しました。
信仰が生き方に現わされていく「生きた信仰」を持たなければならない。
彼らの問題は、福音の知識が生活に現れる生きたキリスト教信仰の欠如であったのです。
パウロは手紙の最初に、コリント教会に与えられた知識は神から与えられたものであること、教会は神の教会であること、つまり神が王として治める場所であることを思い起こさせています。そうであるなら、与えられた信仰を神の御心にそって生かしていく責任が1人1人のクリスチャンにあるのです。またクリスチャンの群れを神の御心にそって機能するように指導していく責任が教会の指導者たちにはあるのです。
考察5 パウロが伝えた福音を保つ。この福音の理解について一致する。そうすれば、その他のことは自然とうまくいく。(10節のパウロの主張から)
パウロは同じ理解を保つように命じた。
パウロは手紙の初めに、自分の使徒としての権威を書き、教会は神の教会であること、そしてコリント教会の人々は福音の知識において豊かにされたことを語った上で、神についての知識において同じ判断を保つように彼らに願っています。
福音は1つ。パウロが伝えた福音がただ1つ。
神についての、いろいろな判断があるのではありません。
パウロが彼らに伝えた「1つの福音」があるだけです。
コリント教会の信者は、それを聞いて信じ、教会が誕生したのです。
パウロは、自分が伝えた福音を保つように、その福音の理解において一致するようにと言っています。
信仰の一致があれば、その他のことは自然に発生する。
福音の理解において一致があれば、自然と外側に調和が生み出されていきます。それぞれに与えられた賜物が目的に従って用いられ、互いの働きが組み合わされて、教会としての機能を豊かに果たしていくことになります。
今の時代、行事を協力して実行する、親切にするなどの外側の一致によって、教会を建て上げようとする試みが多くなされています。
しかし、外側の一致から始めるなら続きません。
教会は、信仰の一致を確立する努力を惜しんではなりません。
信仰の一致があるならば、その他の一致は自然と生じるものだからです。
考察6 教会に一致をもたらす方法:現代とパウロの考え方の違いについて。
現代は一致を求める掛け声が多くなされています。礼拝で挨拶タイムを持ち、メッセージで「あなたも他の人も神は愛し赦しておられます。互い赦し合い愛し合いましょう」とうながなされてきました。一緒に食事をしたり、集会で奉仕することによって仲良くなろうと努力してきました。
しかし、これらの方法によって、お互いの深い一致が実現したでしょうか?
現実は、表面的な一致に終わっているのではないでしょうか。
では、なぜうまくいかないのでしょうか。
それは、これらの方法が外側から一致をつくろうとするものだからです。聖書が言う一致は、信者たちの内側から、つまり信仰の一致から生まれるからです。方法が間違っているから、良い結果がでないのは当然なのです。
教会の信者たちの不一致がそのままにされている。
現代は、信仰の一致は理想であって現実的ではないという理解が一般的ではないでしょうか。なぜなら、信仰の一致を目指すなら、教会は分裂して成り立たなくなると考えるからです。クリスチャン人口は少ないので、少しでも多くの人が集まっていなければ、ますます力を失うと考えるからです。
そのため、教会では信仰について話し合うことがさけられています。なぜなら、各人の神についての理解が違うため、議論が始まってしまうからです。このような状態では、信徒同士の信仰の励まし合いや、教え合いはほとんど不可能です。
信仰の分かち合い、励ましあいこそ、教会生活の喜び。
教会生活において、互いの信仰を分かちこと以上に、信者にとっての励ましや喜びはありません。初代教会が集まったのは、教え合い励はげまし合うためでした。このことができない、ゆるされないなら、教会が命を失うのは当然です。教会が窮屈なところに感じ、喜びがないのはそのためです。
教会と教会は、不一致を認めて協力しようとしている。
教会と教会の関わりにおいても、信仰についての議論は避ける傾向にあります。多少の違いは目をつむろう。いや、もっと違いを認めて「イエスは神である」と宣言していれば一致できる。私たちは少ないのだ、集まって伝道する必要がある、交流を持つことで強くならなければいけない。そして一緒にキャンプをし、伝道集会を持ちます。
しかし、違った教えが伝えられるために、聞いた人々に混乱が生じることになります。また、根本的な一致がないために、それらの努力もその場限りになってしまいます。
パウロが伝えた福音を知り、その信仰において一致すること。
このことが、本当の意味で教会に命を与えることになる。
今日、日本の教会に必要なことは、パウロの伝えた福音が何であったのかを聖書から調べ、とことん議論して、その福音において一致した意見を持つことなのではないでしょうか。聖書は何と書いてあるのか。初代教会が保っていた福音に立ち返ること。その福音理解において一致することなのではないでしょうか。パウロはこのことを命じています。
これは痛みをともなう大変な作業です。しかし、もし福音理解においての一致が実現するなら、教会が協力して伝道していく力が生み出されていくのです。