祈り
3:1 終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。
3:2 また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。
私たちのために祈って欲しい
「主のみことば」は、信じた人の心に生きて働き、その人を根本から新しくします。パウロの第一の関心は、「みことば」が人々にこのような変化をもたらすことです。
テサロニケでの宣教は短期間でしたが、多くの人々が真の信仰を持つに至りました。そのように、他の地域でも「みことば」が勢いを持って人々に受け入れられ、尊ばれるようにとパウロは願っています。(1)
当時、未信者からの強い迫害だけではなく、教会の信者からの妨害もあったようです。彼らの中にはキリスト者と名乗ってはいても信仰を持っていない者たちも含まれていました。彼らは福音に反発し、律法に熱心であり、パウロの教えを否定して別の福音を支持しました。パウロは、自分たちがそのような「ひねくれた者たち」から守られ、主の働きを進めることができるようにと、テサロニケ教会に祈りによる助けを求めています。(2)
3:3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。
3:4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
サロニケ教会が忠実に歩むことを確信し、彼らのために神の助けを祈る
パウロは、テサロニケの人々が天地創造の始めから、神に選ばれ救いに定められた人たちであることを確信しています。(2テサロニケ2:13)信仰は、神が始められた良きわざですから、神が彼らを守り、天国に導き入れて下さるとパウロは確信しています。事実、彼らは互いの愛を深め、激しい迫害の中にあっても信仰に堅く立っていました。(4)
パウロはテサロニケの信徒を、神が導いてくださるように祈ります。
主が、彼らの心を導いてくださるように。そして、「神の愛」と「キリストの忍耐」を持たせてくださるようにと。これについては考察のところで詳しく書きます。(5)
再臨が近いことを理由に怠惰な生活をしてはならない。
3:6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。
3:7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、
3:8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。
3:9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。
3:10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。
3:11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。
3:12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。
怠惰な生活をしてはならない。落ち着いて働きなさい。
テサロニケ教会には、再臨が近いことを理由に、仕事をやめる信徒たちがいたようです。そのようなことは、パウロの伝えたことに反することです。
パウロ自身はテサロニケに滞在中、誰からの援助は受けず、働いて自分の生活の必要を満たしていました。仕事をしながら宣教活動をすることは大変であったようです。彼は昼も夜も働いたと告白しています。しかし、パウロは仕事をやめることはありませんでした。(8)
なぜなら、それは迫害に苦しむ教会に経済的な負担をかけないためでした。
また、キリスト者としての生活の模範を信徒達に示すためでした。(9)
パウロは信徒たちが、主の再臨が近い時であっても、仕事に精を出し、誰にも経済的な負担をかけないようにと命じていました。(10)
ところが、ある人々はパウロの命令に逆らって、再臨が近いことを理由に仕事を辞めていまい、教会が彼らを養わなければならない状況が発生していました。
彼らは、主の再臨が近いから、祈りや主の働きに専念しなければならないという理由で、働くことを止め、兄弟のために必要のない世話をやき、かえって兄弟に経済的に負担をかけていました。(11)
パウロは、怠惰に歩む者たちに、仕事をするように勧めます。兄弟も困難な中にあって、自分の生活を支えているのですから、その兄弟にさらに負担をかけてはならないのです。また、怠惰な生活は、未信者に対して悪いあかしになるからです。(1テサロニケ4:12,13)(12)
善をおこないなさい。神に従わない兄弟を戒めなさい。
3:13 しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。
3:14 もし、この手紙に書いた私たちの指示に従わない者があれば、そのような人には、特に注意を払い、交際しないようにしなさい。彼が恥じ入るようになるためです。
3:15 しかし、その人を敵とはみなさず、兄弟として戒めなさい。
怠惰な歩みを止めない時は、交わりから断つように。
そうならないように、彼らを戒め、悔い改めに導くように。
今、忠実に歩んでいる者たちは、怠惰な者に影響されるのではなく、今までの良い歩みを続けるように勧めます。(13)
怠惰に歩む者を敵とみなして追い出すのではなく、主にある兄弟と認めて、彼を戒め、悔い改めさせる努力を惜しまないようにと助言します。
それでも彼が悔い改めないなら、厳しい処罰を与えなければなりません。
厳しい処罰とは、教会の交わりから断つことです。しかし、これは彼らに自分の過ちに気づかせるためであるのです。悔い改めるならいつでも交わりは回復されるのです。(14、15)
3:16 どうか、平和の主ご自身が、どんなばあいにも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。
主の平和が、教会に、また1人1人の心にあるように
パウロは教会の人々の間に平和があることを望んでいます。
問題のある人々が悔い改めるにしても、厳しい戒規が実行されるにしても、パウロの願いは、テサロニケの信徒たちが、1人も欠けることなく、最終的には主に結びつき、天国に凱旋することです。
主は平和の神であり、主が支配されるところに平和が実現します。
ですから、彼らに臨在される聖霊が、彼らの心を守り、神との平和、教会の平和(信仰の一致)を保ってくださるように祈ります。(16)
パウロの手書きのあいさつ(確かにパウロからの手紙である証拠として)
3:17 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。
3:18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。
パウロの手書きのあいさつ(確かにパウロからの手紙である証拠として)
当時、手紙は著者が言ったことばを、書記が筆記していました。
それで、普通手紙の最後に著者自信があいさつを書くことがなされました。
その手紙が、著者本人のものであることを証明するためです。
ここでも、その慣習にならってパウロは自筆で書いています。
テサロニケにはパウロから届いたという、「偽の手紙」が配られていたようです。(2テサロニケ2:2)
パウロが自分で書いたと強調しているところから、彼が「偽の手紙」を意識していたとも思われます。
<第2テサロニケ3章 考察>
考察1 迫害に耐え貫く秘訣は、祈り (5節よりの考察と適応)
3:5 どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。
1.主が心を導いて「神の愛」を持たせてくださいますように 5節
「神の愛」ということは、どういうものでしょうか?
神は、わたしたちに御自身の愛を余すところなく示してくださいました。
ご自身が肉体をとってこの世に下られ、罪人を赦すために、十字架にかかられ、命を捨てられました。救いに価しない私たちを選び、永遠の命を与えてくださいました。これが「神の愛」です。
5節で、パウロはテサロニケの兄弟が迫害を耐え向くために、「神の愛」へと彼らの心が向けられるように祈っています。
これはどういう意味でしょうか。
それは、私たちが「神の愛」を最高の喜びとすると言う意味です。
その時、私たちは信仰から来る迫害や困難に耐え抜くことができるのです。
私たちが、「神の愛」以上に、この世の宝を愛する時、私たちは倒れます。
信仰から来る困難に耐えられず、信仰を捨てることになります。
捨てなくても、この世と妥協した信仰を作り出すことになります。
私たちが、世の宝を愛し、世の宝を楽しみ、世の宝で安全を得ることから、「神の愛」を喜び、神の中に真の安全を見出すように、私たちの心を定めることができる方は、神です。
ですから、神が私たちの心の向きを正してくださるように、私たちは神に祈りましょう。
神は、私たちの願いに答え、私たちを御自身の愛に深く根ざす者としてくださいます。神の国の実現のために迫害や困難に耐え抜く者にしてくださいます。
2.主が心を導いて「キリストの忍耐」を持たせてくださいますように 5節
「キリストの忍耐を持つ」とはどういう意味でしょうか?
キリストは死に至るまで神に忠実であられました。
ですから、「キリストの忍耐を持りなさい」という勧めは、たとえ迫害の中で死を覚悟する状況であっても、最後まで福音に忠実でありなさいという意味です。このような信仰を、神が、テサロニケの信者に与えてくださいますようにと、パウロは神に祈っているのです。
キリストは、忍耐の限りを尽くし罪人たちの反抗を忍ばれました。
私たちも、キリストの生涯を思い、彼にならって信仰の戦いを最後まで戦い抜かねばなりません。
考察3 私たちは弱い、しかし神は私たちを強めてくださる。
神の助けがあることを確信しつつ、最後まで神に忠実に、信仰の戦いを全うしようではありませんか。
「神の愛」、「キリストの忍耐」は、神が与えてくださる賜物です。
人間の努力や決心では、到底最後まで保ち続けることができないものです。
このことは、パウロが、テサロニケの信徒達に、これらの徳が与えられるように、神に祈っていることからも明白です。
(パウロは彼らに「がんばれ」「強くあれ」と言わず、神が彼らの心を導いてくださることを祈った)
神は、ご自身が救いに召した人を、最後まで導いておられます。
パウロは、神が、テサロニケの人々を、善い行ないに歩ませて下さっていることを知っていました。(第2テサロニケ3:4)
「神は彼らの心を導いて、神に喜ばれる歩みを続けさせて下さる。
反対者たちや、福音を軽んじたり、ゆがめたりする「ひねくれた者たち」(多くは教会内からこのような人は起こる)から、彼らを守って下さる」と、パウロは、彼らに対する神の守りを確信して祈っています。
私たちは、神の保護の下、神の支配の下にあって生かされる幸いが与えられています。迫害や困難に会うときこそ、これらのことを心に留めて、信仰の歩みを進めて行きましょう。