イスラエルの父祖たちも、異邦人たちも
同じ御霊を受けた
1-4
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
今や、イスラエルの聖徒たちはコリント教会の信仰の父祖でもある。1
今や、イスラエルの信仰の父祖たちは、コリント教会の人たちの信仰の父祖でもあります。
なぜなら、キリストがイスラエル人と異邦人の隔てを取り除きいたからです。
キリストイエスの血に預かって罪を赦された者は、民族に関係なく、誰でも「神の民」とされる時代が来たからです。
イスラエルの民も、コリント教会も、同じ御霊を受けているのです。1-4
イスラエルの民は、雲の柱に導かれ(雲の下におり)、海が分かれて現れた乾いた道を通って(海を通って)、奴隷であったエジプトから脱出し、自由を得ました。
みな同じ御霊の食べ物(マナ)を食べ、同じ御霊の飲み物(岩から湧き出た水)を飲みました。この岩とはキリストです。彼らもキリストから恵みを受けていたのです。
それと同様に、あなたがたコリント教会の人々も、水のバプテスマを受け、キリストから聖霊を受けたことによって、罪の奴隷であった立場から解放されて、自由を得ました。
イスラエルの民が荒野で受けた恵みは、あなた方が受けている霊の恵みと同じものです。
つまり、信仰の父祖たちも、イエスラエルの民も、あなた方コリント教会も、同じ御霊を受け、キリストによって養われているのです。
神に逆らってはならない
あなたがたも、旧約の民のように滅ぼされる
5-11
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った。」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
イスラエルの民の大部分は、偶像礼拝に陥って神にさばかれた。
あなた方も同じように偶像礼拝者となって滅んではいけない。5-7
神に養われていたにも関わらず、イスラエルの大部分の者は、エジプトを出た後に偶像礼拝のとりこになりました。このことを怒られた神は、彼らが約束の地に入ることをゆるしませんでした。彼らは、すべて荒野で死にました。
聖書は、彼らが偶像礼拝する様子を「民は飲み食いし、立っては戯れた」と表現しています。彼らは、金の子牛を作って拝み、宴会をして大騒ぎをしました。出エジプト32:4-7
偶像礼拝の宴席に行き、偶像を拝み、異教徒と交わった者は滅ぼされた。8
イスラエルの民がカナンの地に向かう途中、シティムにとどまっていたとき、ミデヤンの娘たちが、自分たちの神々にいけにえをささげる祭礼に彼らを招きました。彼らは行って食事をし、ミデヤンの神を拝み、娘たちと交わりました。このことが、神の怒りをかい、1日の内に、2万3千人の民が死にました。民数記25:1-9
偶像礼拝の祝宴は、性的な罪が公に赦される機会でした。
姦淫と偶像礼拝は、神が民に禁じていた行為です。彼ら神の定めに違反したため、滅ぼされました。
偶像礼拝に参加することは危険です。そこには多くの性的な誘惑がひそんでいるからです。
神につぶやいた者は滅ぼされた。9
荒野の旅で、エドムの地を迂回しなければならなかった時、マナとうずらの食事に飽き飽きした民は、神とモーセにつぶやきました。その時、神が送った蛇が、民にかみつき、多くの人が死にました。
民数記21:5-6
私たちは、彼らと同じように、神が自分に与えた状況に文句を言う者になってはいけません。
モーセに変わって祭司職に就こうしたレビ人のコラたち。
彼らが滅ぼされたことに文句を言った民たちは殺された。10
地が口をあけ、コラとその家族、彼に属するすべての者を飲み込んだ。
コラと一緒に反抗したレビ人たち250人は、主から出た火で焼き尽くされた。この処罰に文句をいった1万4千7百人の民が神罰を受けて死んだ。民数記16章全体
これらの出来事は、私たちへの教訓のために起きた
だから神のいましめを破って、滅びる者になってはいけない
11-13
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるよう なことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
これらの出来事が起きたのは、後に救われる人たちへの教訓のため6,11
これらのことが起こったのは、つまり民が神の意向に逆らったためにさばかれた出来事は、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓のためです。彼らの例から学んで、私たちが同じ過ちを犯さないようにするためです。
信仰の試練はあるが、主は脱出の道も備えてくださる。だから主に頼れ。
異教の神に誘惑されるな。偶像に頼るな。13
あなたの信仰の試練は、あなただけではなく、過去の信仰者たちも経験してきたことです。神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。神は試練を与えるとともに、その試練からの脱出の道も用意してくださっています。
確かに、キリストを信じない社会で、信仰を守り通すためには、さまざまな困難があることでしょう。しかし、偶像を拝むことはできません。それは神の怒りをかうこと、永遠の命を失うことが警告されているからです。
神を信頼して、困難な時も、ただ神の助けを待ち望むことです。神は真実な方で、ご自分の民のために、逃れの道を用意してくださることが13節に約束されています。神の守りがある確信に立って、信仰を攻撃してくる敵と戦うことができるとは、本当に幸いです。敵の敗北は決まっているからです。
偶像礼拝を避けなさい
それは、悪霊を拝むことだから
14-22
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
10:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
偶像礼拝をしてはいけません。14-15
信者は主の霊を受けて、主の肢体とされている。16~19
その見える「しるし」が聖餐式である。
信者が聖餐式のときにいただく杯は、キリストの血にあずかったことの象徴です。そのことにより、罪がゆるされ、神との和解が成立したことを喜ぶ祝福の杯です。また、私たちが聖餐式で裂くパンは、神の民に加えられ、キリストの肢体となったことを象徴するものです。16
聖餐の時には1つのパンを裂いて、全員が分けあって食べます。このことは、信者1人1人が同じ御霊(キリスト)を受けていること、1つのからだなる教会(1つのパン)を形成していることを、見える形で現わしているのです。17このことの型として、旧約時代のイスラエルにおいて、祭司は祭壇の食物を食べてることを許されました。18
偶像の神は悪霊である。20
異教徒が偶像にささげる物は、神にではなく悪霊にささげているのです。
聖霊を受けたあなた方が、悪霊と交わることはゆるされない。21
あなたがたは、キリストとの交わりに入れられている者です。主の杯(血)と主の体がささげられているあなたがたが、さらに悪霊と関わることは絶対にゆるされないことです。主の霊に悪霊を混ぜることだからです。
あなたたちも旧約時代のイスラエルのように、神に反抗するのか。
自分だけは、さばかれない自信があるのか。22
それとも、イスラエルの人たちにならって、あなたがたも主のねたみを引き起こそうとするのですか? そんなことをすればあなたも滅ぼされてしまいます。あなたは神よりも強いから滅ぼされないとでもいうのですか。
自分の利益だけではなく
他者の利益を考えて行いなさい
23-33
10:23 すべてが許されていますが、すべてが役立つわけではありません。すべてが許されていますが、すべてが建設するのではありません。
10:24 だれも自らの益をでなく、他人の益を求めなさい。
10:25 市場で売られるものは、何も良心の問題とせずにお食べなさい。
10:26 「地とそれに満ちるものとは主のもの」だからです。
10:27 もし信者でない人に招かれて、あなたが行きたいと思えば、出されるものをみな良心の問題とせずにお食べなさい。
10:28 もしだれかが、「これは供え物の肉です」というならば、それを知らせた人と良心とのために食べないでください。
10:29 良心とわたしがいうのは、あなた自身のでなく、その人のです。なぜわが自由が他の人の良心によって裁かれるのでしょうか。
10:30 もしわたしが感謝をもって食卓にあずかるならば、感謝するものについて、どうしてそしられるのですか。
10:31 あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の集会にも、つまずきにならないでください。
10:33 わたしもすべての人に万事気に入ろうとし、自分のでなくて多くの人々の益を求めて、彼らが救われるようにしています。
他者の信仰を害しないように配慮して食事をしなさい。23-24
キリスト者にはどの肉でも食べることができる自由がありますが、自分の食欲と自分の利益だけを求めて食べる時に、信仰の弱い兄弟の良心を傷つけることになります。ですから、すべてのことを他者の信仰の益を心がけて行いなさい。
キリスト者は、どの肉でも食べることができる。25-26
市場に売っている肉は、偶像にささげられた物かどうか調べ上げることをしないでどれでも食べなさい。地に満ちているものは主のものですから、それ自体汚れているものはないからです。
招待した人が、偶像に捧げられた肉であることを知らせた場合は、知らせた人のために、その肉を食べてはならない。27-28
信仰のない人に招待されて食事をする場合、それらは偶像にささげられた肉である場合もあるでしょうが、確かめないで出された物は何でも食べなさい。
しかし、もし誰かが(招待した人、同行した信仰の弱い人)が、「これは偶像にささげた肉です」とあなたに言うなら、そう知らせた人のために、その肉を食べてはいけません。
その理由は、
理由1 他者が主キリストの信仰を持つため、保持するため。
私の信仰ではなく、他の人の信仰に問題が生じるので食べないのです。
理由2 信仰の弱い兄弟に、偶像礼拝の罪を犯させないため。
(偶像が無力であることを完全に否定できていない人)
私が偶像にささげた肉を食べるなら、それを見た信仰の弱い兄弟の良心は痛みを覚えます。また、私が食べているのを見て勇気を得た、信仰の弱い兄弟が、私と同じように食べるなら、偶像の力を受けるために食べてしまいます
私は、信仰の弱い彼に偶像礼拝の罪を犯させてしまいます。
理由3 宴会に招いた未信者に、主が偶像礼拝を禁じていることを知らせるため。
キリスト者が偶像に供えた肉を食べるのを見れば、それを見た未信者は、キリスト者は偶像を拝がんでも良いのだと理解します。キリスト者が信じる神は、偶像と仲良くされるのだと考えます。
これは、誤った情報です。主の聖霊と偶像の悪霊を共存させることは不可能だからです。
生活全体を通して、神の栄光を現わすように行いなさい。
人の救いのために、他者の益となるようにしなさい。32-11:1
キリスト者は、食べること、飲むことなど、生活のすべてにおいて、ユダヤ人にもギリシャ人にも神の教会にも、つまずきを与えないように気を付けて行う必要があります。
パウロは、すべてのことにおいて、人の救いのために、自分の利益を求めず、多くの人の利益のために行っていました。
<第一コリント10章 考察>
考察1 キリスト者は、偶像礼拝の罪の重さを知るべき。
そして、自分の行いに注意しなければならない。
キリスト者は聖霊を受けている。悪霊と関わってはならない。
偶像の背後には、人を真の神から遠ざけるサタンの力が働いていることを忘れてはいけません。その証拠として、偶像にささげられた物は悪霊にささげられていると聖書は語っています。聖餐において、私たちは主の食卓にあずかり、主と1つとされました。そうであれば、偶像に供えられたものを食べることは、悪霊の食卓にあずかって、悪霊と1つになることを意味しないでしょうか。キリスト者は、聖霊を受けているのだから、悪霊と関わって聖霊を汚し、神のみこころにかなわないものになってはいけないと言われているのです。
パウロは旧約時代のイスラエルの罪をあげて、偶像礼拝の罪を警告している。
私たちは、この警告を真剣に受けとめて、自分たちへの教訓としなければならない。
出エジプトをしたイスラルの民は、主の奇跡を経験したにもかかわらず、偶像礼拝者となったために大部分の者が滅ぼされ、約束の地に入ることができませんでした。あなたも彼らと同じようになって、天国に入ることができない者になってはならないとパウロは警告しています。
偶像に関わること自体が、神の怒りをかう行為である。注意せよ。
10章においては、偶像に関わるということ自体が罪であり、約束のもの(天国)を受け取る資格を失う可能性があることを教えています。
「自分は偶像と関わっても信仰を失うことはない」という思い上がりは命取りになります。偶像に関わること自体が、神のねたみを買う行為だからです。
考察2 信仰者に与えられる「試練」と「逃れの道」について
キリスト者が必ず直面する信仰の試練
当時は、キリストを信じることは死を覚悟しなければなりませんでした。
信仰に入ったために、仕事を失う、家を失う、命をも失うことがありました。
今の日本のクリスチャンたちは、これほどの迫害を経験することはありません。それでも、サタンの力は働いています。家族、親族、友人、職場の同僚などから反対され、いやがらせを受けます。しかし、信仰のための試練は自分たちだけが経験していることではないと聖書は語っています。(13節)
私たちは、試練がいつまで続くか、耐えられないほどひどくなっていくのではないかと悩みます。しかし信者にとって幸いなことは、神が彼らの味方であることです。神は信者の限界を良くご存じです。そして、耐えられないほどの試練をお与えにならないと約束しておられます。
困難な状況にある時こそ、神の真実に信頼するべき。耐え忍んで神の助けを待つべき。
主を捨てて、他の神々や人間に頼ることは、イスラエルの民が犯した罪です。私たちは、イスラエルの民のように、神につぶやき、他の神々を拝んで、滅ぼされる者になってはいけません。
私たちが耐え忍んでいる状況のただ中に、試練を緩和する神の働きがなされていることを認めることです。神の真実を確信して、耐えられない試練は与えられないという神の約束の上に立ち、たとえ希望が持てなくても踏みとどまり、自分が置かれている場で、戦い続けることです。最終的には、神はすべての事を、信者のために益に変えてくださいます。
考察3 神の栄光を現わす生き方とはどのようなものか。
イエスは、ご自身をののしる者たちの「救い」のために死なれた。
イエスは神であるのに、人として生まれて、この世に来られました。
罪のない完全な方が、罪の満ちる世に住まわれるとは、驚くべきことです。
その理由は 滅びに定められている人間を救うためでした。
しかし宗教学者たちは、イエスを「悪霊の頭」と呼び、民衆はイエスに石を投げつけて殺そうとしました。いつも、自分をわなにかけようとする者たちに見張られ、落ち着く場所もありませんでした。最後には弟子たちもイエスを見捨て、たった1人となって、十字架にかけられました。それなのに、イエスは、自分をののしる人たちの救いのために、ご自身の命をささげられました。
私たちも、他者の救いのために、兄弟姉妹の益のために自分を制御する。
このことが、「神の栄光」を現わす生き方ではないかと思う。
私たちは、イエスの生涯から、他者の救いのために、自分の人生を神にささげていく生き方を学びます。
- キリスト者であれば、人の救いの益となるように、教会のために、他の信者の益のために、自分の生活全般について、自分の行いを配慮することは絶対に必要になります。
- 言い換えれば、このことの心の準備ができていない信者は、神の栄光を現わすことはできません
- そして、このように過ごされる信者の暮らしそのものが、「神の栄光」を現わしているのだと考えます。(31節)